昨日は「あなたの町で楽しい歴史文化のミニ教室開催! 久留倍遺跡と大矢知 第1回出張セミナー「と題した講演会で話しをさせていただいた。
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(第1回は久留倍遺跡を調査担当されている服部芳人さんとの共演であった。)
今回を皮切りに久留倍遺跡周辺の旧村に設けられた市民センターを会場に講師を替えながら開催し、市民に地域に対する理解を深めてもらおうという企画である。
ただし、驚く事なかれ、これ全て市民の皆さん、「久留倍遺跡を考える会」の皆さんが企画立案されたものである。私はある日突然こんなことするから第1回目の講師を引き受けて欲しい、第2回、3回の講師を捜して欲しい、といわれただけである。
全て手作り!
そしてまさに地域に根ざした、地域住民の、地域住民による企画である。
それでこれだけ、百人が参加された。びっくり仰天である。
内心は少し心配していたのである。定員百人!とチラシに銘打ってある。そんなに来られるんだろうか?もうそろそろ皆さん久留倍については熟知されているから、・・・ましてや僕の名前なんぞはもう何十回も出ているから、聞き飽きた!!
ところがこれである。会場一杯の聴衆を前に、今回は趣向を変えて、大学の講義風に、黒板を使い、パワーポイントを補助として話しをした。
もちろん断るわけがないから直ぐに第2回の講師交渉に当たった。予定していた先生のご都合が付かず、日程もあれこれ変更しながらやっと決まったのが次のようなものだった。
第1回 久留倍遺跡と大矢知
日時 2009年6月13日(土)
会場 大矢知地区市民センター
講師 「久留倍遺跡の全貌」 服部芳人(四日市市教育委員会)
「久留倍遺跡前夜」 山中 章
第2回 久留倍遺跡と八郷
日時 2009年10月24日(土)
会場 八郷地区市民センター0539-65-0259
講師 「伊勢・志摩と木簡」 清水みき(三重大学非常勤講師)
葛山拓也(四日市市教育委員会)
第3回 久留倍遺跡と朝日
日時 2010年1月9日(土)会場 朝日町歴史博物館
(TEL 059-377-6111)
講師 「久留倍遺跡と縄生廃寺」岡田 登(皇學館大学教授)
四日市市教育委員会職員
今回の私の話は「なぜ久留倍遺跡へ大海人皇子や聖武天皇は来たのか」?そもそも伊勢と大和王権とはどの様な関係にあったのか?というのがテーマだった。
壬申の乱において美濃の湯沐を利用したことはよく主張されるのだが、なぜ伊勢に入り、桑名に拠点を置いたのかについてはあまり検討されてこなかった。その背景を次のように考えてお話しした。
① 井田川茶臼山古墳の築造によって、古墳時代後期の継体(男大迹王)王権は伊勢支配の拠点を後に東海道と呼ばれた東への重要交通路上に確保したこと。
② その後、東海道だけではなく、後に鈴鹿関と不破関を最短距離で結ぶ「伊勢道」と呼ばれた道を確保し、大和から東国を支配する上で欠かせない交通路の確保を果たしたこと。
③ その証拠として知られるのが、大安寺に施入された広大な土地であり、その土地の推定地に残されていた古墳から見付かる脚付短頸壺だったこと。
もちろん既にこうしたことについては先に刊行した『久留倍官衙遺跡と朝明郡』と題する冊子で紹介しているところだが、それを一般の人に判りやすくお話しした。
最後に質疑に入ったところ、1人の若者から意外な質問を受けた。
「先生は考古学のプロフェッショナルをどの様にお考えですか?」
一瞬何を問われているのか判らず口ごもってしまったが、ようやく例の『プロフェッショナル』というNHKの番組とかけて問われていると思い、次のように答えた。
「考古学者のプロフェッショナリズムとは、考古学に欠かせない遺跡の保護、保存に全力を傾けること、これに尽きる」と。
質問者に後で話しをすると、とても素晴らしく、よく判ったと言ってくれてホッとした。
次回は必ず参加するぞ!と思ったら
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(第1回は久留倍遺跡を調査担当されている服部芳人さんとの共演であった。)
今回を皮切りに久留倍遺跡周辺の旧村に設けられた市民センターを会場に講師を替えながら開催し、市民に地域に対する理解を深めてもらおうという企画である。
ただし、驚く事なかれ、これ全て市民の皆さん、「久留倍遺跡を考える会」の皆さんが企画立案されたものである。私はある日突然こんなことするから第1回目の講師を引き受けて欲しい、第2回、3回の講師を捜して欲しい、といわれただけである。
全て手作り!
そしてまさに地域に根ざした、地域住民の、地域住民による企画である。
それでこれだけ、百人が参加された。びっくり仰天である。
内心は少し心配していたのである。定員百人!とチラシに銘打ってある。そんなに来られるんだろうか?もうそろそろ皆さん久留倍については熟知されているから、・・・ましてや僕の名前なんぞはもう何十回も出ているから、聞き飽きた!!
ところがこれである。会場一杯の聴衆を前に、今回は趣向を変えて、大学の講義風に、黒板を使い、パワーポイントを補助として話しをした。
もちろん断るわけがないから直ぐに第2回の講師交渉に当たった。予定していた先生のご都合が付かず、日程もあれこれ変更しながらやっと決まったのが次のようなものだった。
第1回 久留倍遺跡と大矢知
日時 2009年6月13日(土)
会場 大矢知地区市民センター
講師 「久留倍遺跡の全貌」 服部芳人(四日市市教育委員会)
「久留倍遺跡前夜」 山中 章
第2回 久留倍遺跡と八郷
日時 2009年10月24日(土)
会場 八郷地区市民センター0539-65-0259
講師 「伊勢・志摩と木簡」 清水みき(三重大学非常勤講師)
葛山拓也(四日市市教育委員会)
第3回 久留倍遺跡と朝日
日時 2010年1月9日(土)会場 朝日町歴史博物館
(TEL 059-377-6111)
講師 「久留倍遺跡と縄生廃寺」岡田 登(皇學館大学教授)
四日市市教育委員会職員
今回の私の話は「なぜ久留倍遺跡へ大海人皇子や聖武天皇は来たのか」?そもそも伊勢と大和王権とはどの様な関係にあったのか?というのがテーマだった。
壬申の乱において美濃の湯沐を利用したことはよく主張されるのだが、なぜ伊勢に入り、桑名に拠点を置いたのかについてはあまり検討されてこなかった。その背景を次のように考えてお話しした。
① 井田川茶臼山古墳の築造によって、古墳時代後期の継体(男大迹王)王権は伊勢支配の拠点を後に東海道と呼ばれた東への重要交通路上に確保したこと。
② その後、東海道だけではなく、後に鈴鹿関と不破関を最短距離で結ぶ「伊勢道」と呼ばれた道を確保し、大和から東国を支配する上で欠かせない交通路の確保を果たしたこと。
③ その証拠として知られるのが、大安寺に施入された広大な土地であり、その土地の推定地に残されていた古墳から見付かる脚付短頸壺だったこと。
もちろん既にこうしたことについては先に刊行した『久留倍官衙遺跡と朝明郡』と題する冊子で紹介しているところだが、それを一般の人に判りやすくお話しした。
最後に質疑に入ったところ、1人の若者から意外な質問を受けた。
「先生は考古学のプロフェッショナルをどの様にお考えですか?」
一瞬何を問われているのか判らず口ごもってしまったが、ようやく例の『プロフェッショナル』というNHKの番組とかけて問われていると思い、次のように答えた。
「考古学者のプロフェッショナリズムとは、考古学に欠かせない遺跡の保護、保存に全力を傾けること、これに尽きる」と。
質問者に後で話しをすると、とても素晴らしく、よく判ったと言ってくれてホッとした。
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