yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

yaasan交替の条

2009-10-05 20:53:51 | yaasan随想
 以前から少し考えていたことなのですが、このブログの右下の方に載っている私のプロフィールカットを替えました。



 (OEさんへの要望!どうもこれはコートを着ているので冬のようであります。是非新作!秋バージョンもお願いします。)

 作者は前の作者と同じ我が卒業生であり、現某旧帝大の大学院ドクターコースにいるOEさんです。
 実はこれ、今春、レバノンに彼女も含めて沢山で調査に行った折、余りに毎日トレースばかりさせられる?ので、疲れを癒すために私と某旧帝国大学考古学研究室の教授ITさんが犠牲?になったものです。

 ITさんの方はその教え子が作成したものですが、ここでは公開がはばかられるのでしません。どうしても見たい人は作成者の許可が得られれば内緒で教えます。

 
 さて私の似顔絵?は、とてもよく似ています。

 最近の髪の毛の脱落状況、何故か前髪だけが少しだけ天然のように曲がっているところ、そしていつもいつもガラガラを引いて歩いているところ、もちろん胸のポケットには(赤い)歯ブラシ、背中にはリュックサック、悔しいが、その通りです(いや、最近はもっと髪が薄くなっているという陰の声もあり・・・)。

 何故こんな暇なことをしてるかって?それは昨日アップした友人の似顔絵です。もちろんあれはご本人が描かれたもので、私のように絵心のない者にはとても真似できない代物です。しかし、フッと思い出したのであります。そう言えば!!

 ということで替えてみることにしました。久しぶりのマイナーチェンジであります。また新作が到着次第アップすることにします(OEさん頼むね)。






61歳を過ぎて想うこといろいろの条

2009-10-05 10:18:26 | yaasan随想
 中国踏査中に誕生日を迎え、派手なお祝いをして頂いて、とても喜んでいた私である。
 
 私の育った環境はとても貧しく、子供の頃から誕生祝いなどしたことがない。もちろん家族誰のそれもしなかった。もっとも一般的にそうだったのではないかとも思うのだが・・・。外食なるものは一年に一度あるかないか。それも百貨店の食堂で中華ソバを食うのが唯一の楽しみ。そんな暮らしだから、余り誕生日のお祝いの印象がないのである。

 もっとも、最近は息子の息子ができて、彼らと同居しているものだから、自然と彼ら親子と共に彼らの誕生日を祝うことになる。今年は夏休みに相次いで中国に行ったので、9月が誕生日の息子の息子やその母親のお祝いには出席できないかと思っていたが、偶然合間になって、5本のローソクの立ったケーキのご相伴にあずかり、息子の息子が歌う母への「ハッピーバースデー」の歌を聴くことができた。

 もちろん彼らの誕生日は未来に向かう意気揚々とした宴である。

 しかし私のそれは、終息する人生へのカウントダウンのそれであることを最近つくずく思うのである。

 還暦を過ぎて今年の誕生日は、

「アー一年生きてしまった!」

というのが正直な感想である。それでも私の所では、まだ定年ではないので、少しその感覚が鈍いのだが、この頃頂くメールや手紙の多くが、「定年を迎え第二の人生を始めました」や「一年早く仕事を辞めて自分探しをしています」というものなので、彼らにとってはその思いはもっと強いに違いない。

 そんな折、私の大学時代の親友がブログを始めたといってメールを寄こしてきた。少々驚いた。ブログなんて!と斜めに見ているのではないかと思っていた彼の変節?である。

 

 (本人の描いた自画像である。ハハ、なかなかよくできている。さすが漫画家!!長崎出身の彼は高校時代には漫画集団を作っていたとか、その仲間に今や売れっ子?の蝦子さんもいたとか・・。)

 その彼もまた、定年より2年早く仕事を半分に減らす立場に変わり、ゆとりを持って・・・、と考えていたのだろう。ところが、今年になって、胃に新たに癌が見付かったという。
 新たにというのは1年前にも腎臓に癌が見付かって、片方を執ったというのである。スワ、転移か!?と話を聞くとそうではないという。最近は転移かそうでないかも判るらしい。全く別の原因で胃の初期癌が見付かったのだという。直ぐに手術をして、胃の2/3を切除した。
 術後に会った彼は元々痩せているのにさらに8キロも痩せていたが、とても元気だった。そして彼の入院生活の記録がまた面白い。

 初期の胃がんならそんなに心配することもないのでは、と思っていたが、日常生活への復帰が大変みたいなのである。最近のブログの記事によると胃の下部を執ると満腹中枢も空腹中枢も執られてしまい、それを感じないらしい。そしてそのことが味覚にも影響するというのである。
 人間、美味しいものをたらふく食べた時の満足感というものはどこかに記憶されているらしい。それが次ぎにまた美味しいものを食べようとすると、その記憶がお手伝いして、さらに美味しさを増すというのである。ところがこの中枢を執るとその感覚がないから目の前のものがどんなに美味し(いはず)くてもそう感じないらしい。

 等々その日常を綴っている。

 もちろん癌に対する「不安」がなかろうはずがない。
 しかし、彼もまた60歳を過ぎて、終息に向かって

「いつでもいいよ」

と思いつつ一日一日をかみしめているのではないかと思うのである。淡々と語られる病気と日常との関係が却って、一日の深さを教えてくれる。

 私もそうありたい!と願うのだが、つまらない日常が次々と押し寄せてくる。このまま突然消えるのは、ちょっと不安がよぎる。もっと一日を確実にしなければ・・・。そんなことを教えてくれた友人の姿であった。

 もちろん彼も願っていることは

  核兵器のない世界平和!!

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