yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

第30回壬申の乱ウオークin山崎~大友皇子自害の地を歩く~の条

2013-09-11 17:00:00 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 壬申の乱ウオークもとうとう30回を迎えることになった。

 大体年に4回開催してきたから足かけ八年の大ロング活動である。前回は高市皇子が大津から逃れてきた折に通ったと思われる草津道の南端、油日一帯をウオークした。

 今回は壬申の乱に決着が付いた7月20日、大友皇子自害の地山崎を訪ねることにした。山崎がどこかについては諸説あるのだが、直前の様子からすると現在の京都府乙訓郡大山崎町でいいのではないかと思う。

 つまり、同日、大友皇子側は勢多の唐橋で東から攻め込んできた大海人軍と対峙することになる。大友皇子側は唐橋の橋板を一部取り外して渡航できないようにし、それでもなおかつ橋板のないところを飛び越えてくる兵を攻撃して防ぐのである。ところが大海人側に勇猛な大分君稚臣が現れ、敵陣に打ち込むと一挙に体制が崩れ、散りじりになるのであった。体勢不利と見た大友皇子が瀬田から逃れるのであるが、船でそのまま瀬田川(後に宇治川)を下ると山背盆地を流れてきた河川を一気に集めて大阪湾に南下できるのである。宇治川が淀川となる地点が山崎であり、後に山崎橋や山崎津、山崎駅など交通の重要拠点の置かれるところなのである。山崎で淀川を越えれば後は山陽道を西へ進めば援軍と頼む勢力の地域である。

どこで自害し、後に首をはねられ、大海人皇子の待つ不破に持ち帰られたのかは不明だが、おそらく山崎の淀川河畔だったのでは無かろうか。

そこで、当日は次の様なコースを進む予定だ。

集合

8:00近鉄四日市駅前の四日市市立博物館前道路横の公園→8:30バスにて関バスセンター→10:00新名神を利用して途中京奈和自動車道を経由して名神山崎インターチェンジへ→10:10大山崎歴史資料館見学→11:00西国街道を歩きながら山崎駅跡・離宮八幡宮・山背国府跡・賀陽離宮跡→11:45宝積寺→12:00昼食→13:00大山崎瓦窯・行基山崎院跡・天王山登り口→13:45桜井駅(大原駅)跡(山城・摂津国境)→14:15山崎橋・山崎津跡→14:30勝竜寺城→15:30四日市へ向けて出発関バスセンターを経て近鉄四日市駅へ解散17:30

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