yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

雨中の第28回壬申の乱ウオーク油日の条

2013-05-12 18:28:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日、五月十一日(土)は第28回壬申の乱ウオークだった。今回は滋賀県甲賀市の油日一帯を歩くコースである。

 この地は『日本書紀』には鹿深の道と記され、壬申の乱の際、高市皇子が、大海人皇子一行と合流するために大津宮から駆けつけるために通った道と推定されている。この地を通って、一山越えれば伊賀の柘植である。六七二年六月二十五日のことだった。おそらく父達が出発した二十四日に合わせて密かに大津宮を抜け出し、60キロほどの道のりを歩いてきたのであろう。

 残念ながら当地にその証拠の跡は遺されていないが、その後の歴史を見ると、この地がいかに重要な地であったかが判る。そこで、JR油日駅に集まって、油日神社→甲賀歴史民俗資料館→櫟野寺→鹿深歴史の森学習館を巡ることにしたのである。

 予想通り、あいにくの雨だったのだが、今回も90人を超える多くの方が参加下さった。感謝!!!

 天気予報では午後からは上がるということだったのだが、むしろ午後から本降りになってしまい、参加者はずぶ濡れになってしまわれた。雨男山中 章のせいであります。申し訳ありませんでした。私自身も途中から急に腰と股関節が痛み出して、表向きは元気にしていたのだが、実はとてもきつかった!!

 さて、10:05到着の電車で民さん集合され、出発である。ところでJR草津線は私も通勤に時々使う馴染みの深い路線である。問題は一日に電車の数が少ないということ、そして、電車が古いせいか、よく揺れて本も読んでいられないということだ。特に問題は亀山や柘植での乗り継ぎが非常に悪いのである。だからうまく乗り継ぎのある時間帯なら2時間弱で京都から津まで行けるのに、昼間の悪い時だと2時間半はかかってしまうのである。地元でも複線化を要望しているようだが、そのお気持ちよくわかるのである。ちなみに、我が奈良線は最近一部にしろ複線化され、とても便利になったのである。だから最近の奈良線の乗車率はとても高く、そのお蔭で、本数も増えて、便利になったのである。がんばれ、草津線沿線の皆さん!!

 ところで、出発点のJR油日駅の宣伝を一つ。



 駅員さん?駅の管理人さん?!のお話しで判ったのだが、これが駅舎。
 何に見えます?

 ・・・・・・・・・

 ピンポーン 「忍者!!」そう、この地は甲賀忍者のふるさと。何でも小学生のアイデアだったとか。この時は目にあたる電気が付いていなかったのだが、時には電気が付けられ、ちょうど目のように見えるのだとか。いいですね。

 そんな解説をお聞きして出発。


最初の訪問地油日神社。



この後でてくる建物すべてが重要文化財というからすばらしい。檜皮葺きの門、床のある回廊、正面の拝殿、そして本殿、全てが檜皮葺きでとても厳かである。

おうかがいするとお宮参りのご家族がいらっしゃったのでしばらく休憩、お参りを終わられた宮司さんが、雨の中で説明して下さった。



このご説明がとても謙虚で、正確!こういった国指定品をたくさん持っておられる社寺というのはともすれば「自慢」が高じて、えらく誇大宣伝になりがちなのだが、このご神職はとても謙虚であった。だから私は何もしなくてよかった。神主さんのご配慮で回廊の縁に座って、雨宿りをしながらお話を伺うことができた。感謝!!





 この回廊というのが変わっていて、床が敷いてあるのだ。この施設でいろんな行事もなさるとか。そもそも神社なのに、中門があり、これが回廊と繋がり、その内部に拝殿や本殿があるというところからして変わっている。今は神社だけなのだが、明治までは神仏習合の思想による寺でもあったのだ。その証拠にこの神社には春日刷りといわれる興福寺の版木で刷られた大般若経が残されている。



本殿もどこかお寺風である。



前には拝殿がある。



いつも気をつけてみる南門の基礎部分である。軸受け、方立て、柱の様子がよくわかる。

神社が運営されている甲賀民俗資料館の内部も見学することができた。それにしても、国や、県の補助が不十分なのか、施設の水回りが極めて悪く、周りの山から集まってきた水が滝のように流れていた。何とかして欲しいものだ。

 次は油日の名刹:櫟野寺である。

 

 こちらの方があまり寺院という感じがしなかった。その理由は、仏像の重要文化財がたくさんあり、これを護るために鉄筋コンクリートの頑丈な収蔵庫を兼ねた本堂担っていたからだ。



 残念ながら十一面観音像は撮影厳禁ということで写すことができなかったが、後で買った絵はがきを接写できたのでこれを紹介しておこう。修復が加わっているがなかなかの仏様である。何せ、この地油日には数多くの最澄伝説を持つ寺院があふれている。その真偽の程は(ご住職も語られたように)鵜呑みにはできないのだが、何の背景もなく創作されることはないはずだ。近江と伊賀、伊勢を繋ぐ二本の官道が通過する交通の要所である。今回は行くことができなかったが、北の「東海道」沿いには田村神社もあり、数多くの坂上田村麻呂伝承の残る地域でもある。





 そんな用地だからこそその後も多くの荘園が営まれ、特に藤原道長の大原荘がおかれたことは注目に値する。初めてゆっくり二軒の社寺を回ったのだが、二度三度と天候のよい時にゆっくり回ってみたいと、参加者の皆様も思われたようだった。

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