ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

オケイシー作「銀杯」

2018-12-17 23:21:41 | 芝居
11月13日世田谷パブリックシアターで、ショーン・オケイシー作「銀杯」を見た(翻訳:フジノサツコ、演出:森新太郎)。
日本初演。
第1次世界大戦中のアイルランド、ダブリン。軍からの短い休暇をもらって帰郷していたフットボール選手のハリー(中山優馬)は、
銀杯(優勝カップ)を抱え、歓喜に沸く人々の輪の中にいた。だが戦地へ戻る船の出航時刻は刻一刻と迫っていた。家族や友人たちに見送られ、
彼は仲間のバーニー(矢田悠祐)やテディ(横田栄司)らと再び出征する。ハリーの母(三田和代)は3人の無事を神に祈るのだが・・・。

冒頭、若い女スージー(浦浜アリサ)が中年の男たち(山本亨と青山勝)に向かって噛みつくように非難攻撃する。よく耳をすまして聞いて
みると、もっと真面目に、神への信仰に生きろ、というのだが、やたらガミガミととんがってて激しい。2人は慣れっこらしく、彼女が去ると、
「どうしてあんなになっちゃったんだろう」「スージーはハリーが好きだがハリーはジェシーが好き、だから・・・」と言い合う。
この集合住宅の二階に住むテディとその妻(長野里美)との激しい夫婦げんか。ようやくフットボールの試合が終わって一行が帰って来る。
アコーディオンや太鼓など楽器をかき鳴らして勝利をにぎやかに祝う人々。
スージーとジェシー(安田聖愛)はハリーをめぐって少々さや当て。だがハリーはジェシーにキスし、戦場へ。

第2幕
戦場。下手に骸骨の扮装の男が座って語る。この場はハリー以外全員、顔のでかいハリボテで、それを操る黒衣たちがいる。音楽劇の様相。
皆、歌がうまいし声もいい。
ハリーは上官の女だか鶏だかに手を出したとかで両手をくくりつけられている。故郷から兵隊たちに荷物が届く。祈祷書とフットボール。
「主が与え、主が奪われる・・・」。
第3幕
病院。ハリーは車椅子姿。戦場で足をやられたらしい。スージーは赤と白の制服を着た看護婦姿。窓からスージーとマクスウェル医師(土屋佑壱)
がキスするのを誰かが目撃する。ハリーの老母、両目に包帯を巻いたテディとその妻が見舞いに来る。
ハリーはジェシーに会いたがるが、彼女はバーニーと外にいて、決して見舞いに来ようとしない。バーニーだけがやって来て、花束とウクレレを
置いて去る。バーニーは戦場でハリーの命を助けて勲章をもらっていた。
ハリーは明日手術するという。

次はパーティの場。ハリーは退院したらしい。ジェシーとバーニーが踊っている間、車椅子のハリーがずっと見ているので、2人は人けのない
部屋に逃げて来る。目をやられて失明したテディもやって来て、妻に手伝ってもらいながらワインを飲む。
ハリーは未練たらしく麻痺した両足を嘆き続け、過去の(フットボール選手としての)栄光にしがみつく。
皆は同情し、ウクレレを弾いて歌ってくれるようハリーに頼み、彼もやっとその気になって練習を始める。だがそこに、またジェシーとバーニーが
入って来てキスしたりするので、ハリーは2人の邪魔をし、ジェシーを「この売女」と罵倒・・・。

失恋男があまりに未練がましくて、日本人の美意識からすると見苦しい。そこがちょっとついていけない。

2幕のでかいハリボテを見ていて、2016年11月に見た演劇集団円の「景清」を思い出した(演出は今回と同じく森新太郎)。

翻訳で気になるところが2箇所あった。
まず冒頭、若い娘スージーが中年男2人に向かって「お前たち」と連呼するのが非常に耳障り。
この女、一体何者?エクソシストかオカルトか!?と客席はドン引きしてしまう。蓋を開けてみると、特に何ということもない、ただ片想いが
叶わず、悶々としている娘に過ぎない、と分かる。しかも彼女、結構男にモテるし、後半は一転して医師と楽しく踊り、ポジティブな人生観を
語り出すのだから。「あなたたち」の方がいいのでは?
それからラストのテディの妻のセリフ「・・・ほど私の愛するものはない」もどうだろうか。
「愛する」はここで使うにはあまりに翻訳調で、日本語としてまだこなれていない。ここでの対象は人でもないし、「好きな」の方が自然だと思う。

とにかく古い。残念ながら400年以上前のシェイクスピアよりもなぜか古さを感じてしまう。
たとえば障害者に対する感覚。戦争で両足麻痺になった男と両目を失明した男のことを、スージーたちは「あの人たちは別の世界に行って
しまったの」ととらえる。2人はひたすら絶望し、嘆き悲しむのみ。2人にはもう未来はないかのようだ。それじゃあ生まれた時から目の
見えない人や下半身麻痺の人はどうなる?当時だってそんな人たちはいただろうに。
初めての世界大戦というあまりに大きな衝撃を、ひいてはこの世の不条理を、すぐには受け止めることができなかったであろう当時の人々
の心情は想像できる。

反戦劇。ただ、作者が主張したいことを直接、ナマのセリフで役者に言わせているのが興ざめ。そこはセリフにせず、観客に感じ取らせてこそ
よい芝居と言えるのでは?









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