ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「貴婦人の来訪」

2022-06-10 22:50:58 | 芝居
6月7日新国立劇場小劇場で、フリードリヒ・デュレンマット作「貴婦人の来訪」を見た(演出:五戸真理枝、6月19日まで)。



小都市ギュレン。かつて栄えたこの都市も、今は貧困に喘いでいる。ある日、この町出身の大富豪クレール・ツァハナシアン夫人が帰郷する。
彼女が町を復興させてくれるのではないかと期待に胸を膨らませる町の人々。夫人はある条件のもと巨額の寄付を申し出る。
「正義の名において、かつてこの町で受けた不正を正してほしい」・・・(チラシより)。

ネタバレあります注意!
この作品は、2008年10月に長山藍子主演で見たことがある(演出:古城十忍、あうるすぽっとにて)。
それまでデュレンマットのことはまったく知らず、そのユニークな内容に、ただただ驚いた。
残念ながら、このブログ開設(2009年)の前なので、詳しい記録は残っていない。
今回は主演が秋山菜津子だというので、もっぱら彼女目当てに出かけた。

クレール(クララ・秋山菜津子)はイル(相島一之)と10代の頃付き合っていたが妊娠。彼がお腹の子を認知しないので裁判を起こした。
彼は二人の男を買収し、「彼女と寝た」と偽証させた。そのため彼女は町にいられなくなり、遠くの町へ行って娼婦となった。
大金持ちと結婚した彼女は、偽証した二人の男を探し出して去勢し、目玉をえぐり出して召使いにした。
今故郷の町に帰って来た彼女は、その莫大な財産の一部をこの町に寄付する代わりに、イルの命を要求する。
彼女は小さい頃から正義を愛する子だった。
だが町長は、その場で彼女の申し出を拒否し、町の人々も拍手して賛同する。

イルの店に町の人が次々に買い物に来るが、みな、いつもより上等の高い品を「ツケで」買って行く。
それで店主イルは不審がり、怯える。
そう、みんな、町に莫大なお金が入ると見越しているのだ。だがそれは、彼の命と引き換えなのだが・・。
結局、町民総会でイルは殺され、クララが持ち込んだ棺に入れられる。
クララは町長に小切手を渡し、町は豊かに栄えるのだった・・。

ラストでイルは男たちに首を絞められる時、途中するりと身をかわして、近くでみんなの動作を見下ろす。
みんなはそのまま首を絞めるふりを続け、死んだと見るや布で包んで棺に入れるふり。
なぜこんなことをするのか理解不能。

町の人々の衣装が次第に黄金色に変わってゆくのが面白い。
赤毛のクララが、長年の恨みを晴らした後、そのカツラをとって薄茶色の髪になって去ってゆくのも深く心に残る。
久しぶりに秋山菜津子さんを見ることができた。相変わらず演技も存在感も素晴らしい。

イルの妻の気持ちが分からない。
最初、クララの要求を聞いた時は驚いて夫にしがみついたのに、その後は他の人たちと同じように、のんきに毛皮のコートをツケで買ったりして浮かれている。
夫が殺されるかも知れないというのに、正気の沙汰とは思えない。

今回改めて思ったこと。
クララの気持ちはもちろんよくわかるが、彼女は決してレイプされたわけではない。
都々逸に「こうしてこうすりゃこうなるものと、知りつつこうしてこうなった」というのがある。
言いにくいが、彼女には人(男)を見る目がなかったし、想像力も足りなかった。
若い娘は自分で自分の身を守らないといけない。
「ジェイン・エア」が書かれる少し前に、英国で、住み込みの家庭教師がその家の主人の子を妊娠し、追い出されて赤ん坊と共に路頭に迷うという事件があった。
その恐ろしい噂は瞬く間に広がり、女子寄宿学校では、そのことを教訓として、そんなことにならないようにと生徒たちを戒めたという。
現代では少なくとも2人が死ぬことはないが、当時は彼らを守ってくれるものは何もなかった・・。

もちろん男のしたことはひどい。
現代でも赤ん坊を認知しない男はたくさんいるが、そのために2人の男を買収して「彼女と寝た」と偽証させるというのは、相当悪質と言わざるを得ない。
そのため彼女は、誰とでも寝るふしだらな女、お腹の子の父親が誰かもわからないとんでもない女という烙印を押され、この町にいられなくなってしまい、
知らない町で娼婦として生きるしかなくなった。
シングルマザーは今ではごく普通にたくさんいるが、当時はまだ保育園(託児所)もなく、女性の職業も少なかった。
出産後、子はすぐに施設に引き取られたので、一度しか顔を見ていない。一年後、市役所から死亡したという葉書が届いたという。

彼女の恨みは理解できるが、だから彼の命を取るというのは違う。
それは法律が許さないだろう。
この町は無法地帯なのか?
いや、このお話は寓話として読むべきなのだろう。

作者デュレンマットに言いたいこと2点あり。
① 女が臨月で町を去ったことを知らないはずがないのに、イルがしみじみと「僕たちに子供がいたんだね」と言うのはおかしい!
  しかもその前に、裁判で、彼は彼女のお腹の子供の父親でないと主張し、汚い手を使って勝っているのだから。
② 結婚式に新約聖書のコリントの信徒への手紙一の13章が朗読されるのは定番だが、マタイ受難曲の中の合唱曲を歌うわけがない。
  だって受難曲ですよ。それともこれは、男の死の予告、暗い運命のための雰囲気作りなのか?

蛇足ですが、ここでコリントの信徒への手紙一(略してイチコリ)13章をご紹介します。

  たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
  たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
  愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、
  わたしに何の益もない。
   愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
  不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
   愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
  完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
  成人した今、幼子のことを捨てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
  わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、
  この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。             (新共同訳)







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