ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

火刑都市30年⑩隅田川

2016年11月16日 | 火刑都市30年

話は少し戻る。菱山源一の母親は錦糸町に流れ着いた2、3年後、

1965(昭和40)年前後に持病と過労で倒れ、将来を悲観して焼身自殺を遂げる。

作中には「隅田川の河岸んとこ」という以外に、自殺現場の詳しい記述はない(注1)。


隅田川の上から東京スカイツリーを望む。清洲橋と織りなすシンメトリーな構図が美しい

隅田川と言えば、日本人はどんなイメージを持つだろう。

「春のうららの隅田川」で始まる「花」に歌われる桜の季節か。夏の花火の季節か。

蔵前橋のたもと。春は東京スカイツリーと満開の桜を同時に楽しめる

それらのイメージは決して間違いではない。

しかし一方で、江戸開府以来、この川は多くの人々の生命を飲み込んできた。

古くは明暦の大火。大正の関東大震災。昭和の東京大空襲。

ミステリー小説の世界でも、この川は舞台として書き手をひきつけるのか、

江戸川乱歩は「陰獣」では小山田夫妻の亡骸を浮かべて、

「魔術師」では生首が乗った獄門舟を白髭橋界隈に流してみせた。

島田荘司氏も「ひらけ!勝鬨橋」「ギリシャの犬」といった作品を著している。

さて「火刑都市」。菱山の母親は隅田川のほとりのどの辺りで生命を絶ったのか。

ワタシは両国橋のたもとの東岸と推測している

理由は三つ。一つ目は、墨田区錦糸3丁目のそば屋から最短の場所であること

北斎通り&京葉道路を西に向かえばたどり着く。

これから自殺する病弱な女性が灯油を抱えて、あまり長くはウロウロするまい。

両国橋のたもとの隅田川河畔。現在は公園として整備されている

二つ目は、この界隈は「死と弔い」の匂いに満ちていること

JR両国駅を挟むように、南に回向院が、北に東京都慰霊堂がある。

片や明暦の大火で、片や関東大震災・東京大空襲で火にまかれた犠牲者を供養している。

つまり、非科学的な物言いだが、菱山の母親は「呼ばれた」ような気がする。

墨田区両国2丁目の回向院。1657(明暦3)年の明暦の大火の後に幕府が創建した

境内に残る明暦の大火の供養塔。回向院は10万人超の焼死者を幕命で弔った万人塚を始まりとする

宗派を問わず、さまざまな横死者や動物が葬られた回向院には著名人の墓も多い

その中でも異色なのは、1832(天保3)年に刑死した「鼠小僧次郎吉」の墓

「金運」「勝負運」のお守りとして、墓石を削り取る人々が絶えず、

現在は墓の「お前立て」の石を削り取らせるようになった

余談だが、福本伸行「天」の最終話に出てくる赤木しげるの墓のモデルになったと思われる

回向院の境内では、江戸時代後期の天明年間から勧進相撲が催されるようになった

これが現在の大相撲の源流とされており、1936(昭和11)年には

日本大相撲協会が境内に「力塚」を建立し、亡くなった力士・年寄を供養している

ワタシが「追悼ウオーク」で毎春立ち寄っている墨田区横網の東京都慰霊堂

1930(昭和5)年建造の震災慰霊堂が前身で、

1948(昭和23)年から東京大空襲の犠牲者を合祀するようになった

毎年3月10日に春季の、9月1日に秋季の大法要を営んでおり、

近年の春季大法要では「3・11」東日本大震災の犠牲者も合わせて追悼している

三つ目は、両国橋からは、いやでも神田川の河口が、

つまり、江戸城の外堀の終点がおがめること

両国橋から神田川河口を望む。柳橋や屋形船もおがめる

菱山は幼少期に何度も、少なくとも祥月命日には

母親が亡くなった場所に線香や花を手向けただろう。

そのたびに目にする神田川の河口が、その奥にある外堀に、

飯田堀埋め立て闘争に、連続放火の企みに菱山を誘ったのではないか。

「都市は川を挟み、光を西に、闇を東に抱く」

今回の連載を始めるに当たり、上記の島田都市論の概念を紹介し、

「火刑都市」での刑事対放火犯の構図を、隅田川を挟んだ「光と闇の対決」とした。

とすると、その対決の原点は、両者を分かつ川にこそあった・・・と思えてくる。


菱山を刺したのは渡辺由紀子だった。ナイフは正確に心臓を刺し貫いていた。

捜査の対象から外れつつあった由紀子がなぜ?

その裏には、運命のいたずらとしか言い様のない理由があった。

いずれにせよ、菱山は救急車で搬送される途中に死亡した。

一年余りに及んだ都心の連続放火事件は終幕を迎えたのである。(あとがきにつづく)


注1:火刑都市「第九章・失われた環」350P


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