ふくろたか

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火刑都市30年⑤水天宮

2016年06月15日 | 火刑都市30年

第三の火災から3日後の1月25日、中村刑事は妻から水天宮参りに誘われる(注1)。

目的は姪の安産祈願(中村夫妻に子どもはいない)。これに応じて、仕事帰りに

妻と参拝を済ませた帰路、中村刑事の前に、あの「東亰」の文字が現れた・・・


水天宮は東京都中央区日本橋蛎殻町2丁目にある久留米水天宮の分社である。

総本宮の久留米水天宮と区別するため、「東京水天宮」とも呼ばれる。

1818(文政元)年に久留米藩9代藩主の有馬頼徳が三田の上屋敷に分霊を勧請し、

毎月5日に一般の参拝を許したのが始まり。1872(明治5)年に現在地に移った。

江戸鎮座200年記念事業として、今年4月に完成したばかりの新社殿

水天宮は水と子どもの神様であり、水難除けや子宝・安産にご利益ありとして、

古くから農民・漁民・船乗り、そして多くの女性の信仰を集めている

2012(平成24)年3月撮影の旧社殿

前年3月11日の東日本大震災の夜には、左下の派出所に道を尋ねる人々が群がった

2014(平成26)年3月、建て替え工事中の社殿

2013(平成25)年3月から今年4月まで使われた仮宮

日本橋浜町の明治座そばに設けられていた

中村刑事が水天宮に参拝して、連続放火事件の捜査のヒントを得たのは暗示的である。

水天宮は妊婦の神様だが、火災は妊婦の忌み事だからだ

古くは、イザナミが火の神カグツチを産み、大やけどで死んだ古事記のエピソードがある。

探偵小説好きならば、横溝正史「悪魔の手毬歌」の舞台の鬼首村の

「妊婦が火の気に近づくと、生まれる子に赤あざが付く」という言い伝えを思い起こすだろう。

鬼首村は架空の村だが、似たような言い伝えは実際に国内外に残っているらしい。

考えてみれば、あまり身動きがとれない妊婦が火事場に近づくのはそもそも危険だし、

やけどや怪我を負わないにしても、火災の破壊的な光景がもたらす精神的ショックが

母体やお腹の子どもに良いワケがない。ある意味、理にかなった因習と言える。

中村刑事が「東亰」の文字に出会った東亰陶磁器会館

会館ビルは日本橋蛎殻町1丁目にあり、1979(昭和54)年1月に竣工

ビル1階の軒下にはめ込まれた紺のタイルに、白いペンキの毛筆の文字

小説中の描写と同じ看板がなお健在。「火刑都市」の聖地と言ってもよいだろう

中村夫妻は水天宮への参拝後、地下鉄東西線・日比谷線の茅場町駅まで歩こうとして、

会館ビルに出くわす。地下鉄で飯田橋駅から有楽町線に乗り換えれば、帰宅の便が良く、

日本橋界隈で降りれば、夫婦で食事ができる、と考えたからである(注2)。

しかし、実際に現地に立つと、やや違和感を覚える。

水天宮から会館ビルの前を通り、茅場町駅に向かうルートは「裏路地」だからだ。

普通は「表通り」に当たる新大橋通りを歩いて、会館ビルをスルーするのでは・・・

やはり「情け有馬の水天宮」(注3)のお導きがあった、と考えたくなる。

上の写真に見える地下鉄半蔵門線の水天宮前駅も気になった。

「日本橋方面に向かうならば、わざわざ茅場町駅まで歩かなくても」

と思ったのである。しかし、コレにはちゃんとした理由があった。

半蔵門線の水天宮前~三越前が開業したのは1990(平成2)年

中村夫妻が参拝した1983(昭和58)年当時、この区間はまだ無かったのである。

犯行があと7、8年遅かったら、この連続放火事件は違った結末を迎えたかもしれない。


「東亰」の文字を目にした中村刑事は、陶磁器協同組合からのつてで、

東京都教育庁の文化財調査研究室に話を聞きに行く。

そこで「東亰」が誤字ではなく、かつて実際に使われた東京の呼称だったこと、

その呼称を明治政府に反発する旧幕臣・旧水戸藩系の人々が殊更に使っていたこと、

その呼称には封建都市・江戸が近代都市・東京になる過程のわずかな時期に現れた

「理想郷の田園都市」への憧憬が込められていること、などを知った。

一方で、1月27日夜、渡辺由紀子の数少ない友人で、アリバイの証人でもあった

井比敦子が、中村刑事と会う約束をした直後、自宅で何者かに絞殺される。

その捜査の過程で、中村刑事は渡辺由紀子が布袋屋の若旦那と婚約したと知る。

さらに、その婚約披露パーティーでは、若い男が乱入騒ぎを起こしていた。

ガードマンの焼死、連続放火事件、渡辺由紀子の失踪と新しい恋人との婚約、

婚約披露パーティーに現れた暴漢、そして渡辺由紀子の友人の絞殺・・・

一連の出来事が一本の鎖でつながりつつあった(つづく)。


注1&注2:火刑都市「第五章・幻の都市」202P&203P

注3:久留米藩上屋敷の水天宮が一般に開放されて人気を呼んだ時、

江戸っ子たちは、こんな地口(洒落言葉)を編み出し、その恩情を称えたという。


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