ふくろたか

札幌と福岡に思いを馳せるジム一家の東京暮らし

火刑都市30年③四谷

2016年04月14日 | 火刑都市30年

「火刑都市」の物語は、1982(昭和57)年12月1日の火災から始まる。

東京都新宿区四谷2丁目の雑居ビルで、ガードマンの若い男性が焼死。

1階の詰め所にいながら、地下からの火災に逃げも通報もせず、という変死から、

警視庁一課殺人班の中村吉造刑事に声がかかる・・・


第一の火災の現場となった新宿区四谷2丁目の界隈は、

JR総武線・中央線&東京メトロ丸の内線の四ツ谷駅を抱える都心の交通の要所である。

四ツ谷駅の近くには、かつての江戸城の四谷門の石組みが少し残っている

四谷堀の跡地の北側は現在、四ツ谷駅の敷地となり、JR総武線・中央線が走る

四谷堀は終戦直後、大量に生じた瓦礫の埋め立て地となり、その費用は上智大が負担した

このため、四谷堀の跡地の南側は現在、上智大の「真田堀グラウンド」になっている

東京都が所有・管理し、上智大が借りる格好をとっている(休日のみ一般開放)

「真田掘」の別名が出たが、これは今年のNHK大河「真田丸」で話題の真田家に由来する。

ただ、開削ではなく、堀浚(ほりざらい)、つまりメンテナンスを担ったことが理由らしい。

四ツ谷駅近くの東京メトロ南北線・市ケ谷駅のミニ博物館「江戸歴史散歩コーナー」は、

外堀が築かれた10年後の1645(正保2)年の堀浚の分担図を展示しており、

真田信之(信州松代藩初代藩主・真田丸では大泉洋が演じる)や

信利(信之の孫・実名は信直)・信政(信之の次男)・信重(信之の三男)の名が見られる。

一族郎党を挙げた「お手伝い」だった様子がうかがえる。

幕府はこの「お手伝い」をなぜ真田家に命じたのか?

それは、この四谷門や堀が甲州街道につながる甲信地方への交通の要所だったから、

と推察される。甲州街道は有事の際に幕府軍が甲府城に向かう退路の役割を担ったが、

同時に、真田家が信州から江戸城に攻め入ると仮定した場合の要路でもあった。

その「最終防衛ライン」のメンテ。断れば謀反の疑いをかけられただろう(注1)。

まして、信之の父や弟がさんざん徳川家に煮え湯を飲ませた真田家である。

堀浚を拒み、幕府への忠誠心を示さなければ、取り潰しのおそれもあったと思われる。

また、「仮想敵国の手を借りての城郭整備」という点で、徳川に建てさせた上田城で

徳川軍を撃退した二度の上田合戦の「意趣返し」だったのかもしれない。

ちなみに、「人間五十年」の時代に、この堀浚を引き受けた信之、すでに79歳

老いた身での「お手伝い」は、家臣任せにせよ、さぞ骨が折れたと察する。

さらに、この堀浚の前後に起きた真田家の出来事を年表にすると、気の毒になるばかり。

  • 1620(元和6)年:信之正室の小松姫死去<2代将軍・秀忠の治世
  • 1622(元和8)年:信州上田藩から松代藩に加増移封(事実上の幕府の嫌がらせ)
  • 1634(寛永11)年:嫡男の信吉死去<3代将軍・家光の治世
  • 1638(寛永15)年:信吉の長男熊之助がわずか7歳で死去(信利は熊之助の弟)
  • 1645(正保2)年:四谷堀の堀浚を担当
  • 1648(慶安元)年:信重死去
  • 1656(明暦2)年:信之隠居。松代藩は信政が継ぐ<4代将軍・家綱の治世
  • 1658(万治元)年:2月に信政死去。松代藩で跡目争い(注2)。10月に信之死去

信之は享年93。現代人から見ても、かなりの長生きと言える天寿を全うした。

松代藩が明治維新まで存続し、幕末の奇才・佐久間象山を世に送る土台を築いた名将だった。

だが、その後半生は、妻子や孫に先立たれ、幕府から難題を押し付けられ、

死去の直前に身内で争い・・・と苦労続きである。その心中を推し量ると、以下のような感じか。

大泉洋信之兄さん、壊れる」

冗談はさておき、「真田丸」でもかなりの苦労人に描かれている信之。

今は姿を消した都心の堀にたたずみ、その後半生の苦労に思いを馳せるのも一興と考える。


「火刑都市」に話を戻す。焼死したガードマンは若い女性と同棲していたが、

その女性は身元を示すような手がかりを丁寧に処分し、姿を消していた。

しかし、中村刑事は苦労の果てに、女性の正体を突き止める。

飯田橋の呉服問屋「布袋屋」に勤める渡辺由紀子。しかし、火災があった時間帯には

由紀子には完璧なアリバイがあり、中村刑事の捜査は行き詰まる。

ほどなく年が明けた。1983(昭和58)年の年頭に、第二の火災が起きる。(つづく)


注1:後に語るが、幕府は江戸城の東北の守りを堅固にするため、

同様の趣旨で「東北の仮想敵国」仙台藩の伊達政宗に外堀の開削を命じている。

後に「伊達堀」「仙台堀」とも呼ばれる、飯田橋付近から東の神田川である。

注2・信政の六男幸道が松代藩主を継ぐことに、嫡男筋の信利が異議。

幸道の後継で決着したが、まだ幼少だったため、信之が短期間ながら後見を務めるハメに。