ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道 第Ⅲステージ第2回 吉田宿~藤川宿(2日目)

2018年06月04日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年6月4日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第2回(2日目)は、赤坂宿(名電赤坂駅)~藤川宿(藤川駅)である。

2日目の朝(ホテルからの景色)を迎えた。
今日も良い天気だ。


7時頃に前回と同じような内容の朝食を摂り、


8時ちょうどに豊橋駅に到着した。


豊橋駅から名鉄特急に乗り、


最初の停車駅国府駅で普通電車に乗り換え、2つ目の名電赤坂駅で降りる、
つもりだったのだが・・・


乗り換える電車を間違えて、普通ではなく準急に乗ってしまい、
名電赤坂駅を通り越して2つ先の本宿駅まで行ってしまった。


本宿駅で豊橋方面の伊奈行普通電車に乗り換えて、


名電赤坂駅に到着した時には、9時18分を回っていた。
なんと50分近くタイムロスしてしまったことになる。


国道1号を横断して赤坂宿の本陣跡へ向かう。


9時27分、赤坂宿本陣跡前の赤坂紅里交差点に到着。
ようやくこの日のスタートとなった。


昨日見た旅籠尾崎屋、


続いて旅籠大橋屋、


休憩所「よらまい館」を通り過ぎ、


旧い家を過ぎると、初めて見る景色になった。


宮路山への分岐点に十王堂跡と書かれた木柱と


常夜灯が建てられていた。


豊川市立音羽中学校を過ぎて、


旧東海道を進む。
この辺りはなんの変哲もない普通の道である。


時折現れる連子格子の旧い大きな家に目を奪われながら進む。


9時50分、大永山栄善寺の標柱前を通過
大日如来 弘法大師御自作とある。
特に立ち寄ることはしなかった。


八王子橋の手前に、


一里山庚申道と書かれた道標があった。


音羽川を渡り、


国道1号と音羽蒲郡ICに(から)接続(分岐)する県道73号下を潜ると、


一里塚跡を示す木柱が立っていた。


日本橋から77番目の長沢一里塚跡である。
塚などは何も見当たらない。


長沢一里塚跡から150mほど進むと長沢小学校があった。


長沢小学校の角に長沢城跡の説明板が。
長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、
中世において戦略上重要な位置であった。
長沢城は東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なものであった。
現在は宅地化されて堀の一部をわずかに残すのみ。
寛永十一年(1634)家光上洛の時に休憩所として建てられた御殿が
長沢小学校敷地内にあった。


家光上洛の時に休憩所として建てられた御殿があったとされる
10時15分、長沢小学校の校門前を通過


専願寺と書かれた札が貼ってあったのでお寺だとは思うが・・・
何かを祀るお堂であろうか。


旧街道を進む。


村社嶺神社の標柱と秋葉山常夜灯


旧街道を進む。


寺の跡のような感じだが・・・


奥に観音像がひっそりと佇んでいた。


常夜灯を過ぎ、


10時36分、国道1号に合流した。


国道1号を本宿を目指して進む。


国道1号の向こう側を時折名電が走る。
しばらく国道1号と名電の並行が続いた。


11時1分、岡崎市に入った。


11時2分、本宿の東入口に到着。


国道1号側道にある冠木門を潜って、


本宿へ向かう。
道路が分岐している所から本宿になる。


本宿入口
江戸方の旧道入口には解説板や現代の道標が設置され旅人を迎える。
本宿は、法蔵寺の門前町であるが、赤坂宿と藤川宿の中間に位置し、
間の宿としての役目もあった。


宝蔵寺門前の旧い家を眺めながら進むと、


11時16分、左手に宝蔵寺が現れた。
来迎橋の向こうに山門が見える。


朱色の来迎橋で、


鉢地川を渡ると、


法蔵寺山門だ。


山門をくぐると、鐘楼門への石段横に賀勝水がある。
日本武尊が東征の折、勝利を祈願し鉾で岩を突くと
冷泉が湧き出したという伝説の湧水である。


石段を上り、


法蔵寺鐘楼門を潜ると、


正面に二村山法蔵寺本堂が。
浄土宗西山深草派、三河三檀林の一寺で、本尊は阿弥陀如来。
大宝元年(701)行基による開基と伝わり、当初は出生寺と称し、
法相宗、後に空海が訪れ真言宗に改宗したという。


室町時代初期に徳川家の始祖、松平親氏が伽藍を建立、以来松平家の菩提寺となった。
徳川家康が幼少の頃この寺で勉学をしたとされ、徳川ゆかりの宝物が
数多く残されている、とのこと。


本堂横にイヌマキの巨木がある。
胸高囲2.44m、根囲4.67m、樹高12mに達する。


本株は、樹勢が優れ、樹形は極めて優美。
根本近くの幹には腐朽による空洞があり、樹齢は古いと推定される。
行基菩薩が開山の際に植えたという伝承があり、「行基開山の槙」と称されている。
岡崎市の天然記念物に指定されている。
(岡崎市教育委員会)


法蔵寺六角堂
寺伝によれば、弘法大師建立とある。
本寺聖観音像は平安末期の作と云われている。
嘉慶二年(1388)龍芸が再建した。
堂内安置の六観音像もこの頃の作である。


新撰組隊長近藤勇首塚の案内表示に従って坂を上ると、


法蔵寺の墓地の一角に、新撰組隊長近藤勇の首塚(右側)があった。
後年その左横に胸像が建てられている。


近藤勇首塚の向かい側に三方ヶ原の合戦忠死者の墓があった。


三方ヶ原合戦忠死者の墓より一段高い境内の高台に、東照宮が建立されていた。
創建は江戸前期で、本殿入母屋造り、銅板葺。
現在の東照宮は、平成11~12年に修覆されたもの。


東照宮から法蔵寺全景が見渡せる。


石段下から東照宮を見たところ。


法蔵寺境内入口には家康公手植えと伝わる御草紙掛松がある。
”御茶屋の松”や”御腰掛の松”の別名も。
現在の松は平成18年(2006)植樹の4代目、とのこと。


11時36分、旧街道に戻り、大正九年十月架換の親柱が残る、
宝蔵寺橋で鉢地川を渡る。


本宿陣屋跡と代官屋敷説明板には、次のように記されている。
元禄十一年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家の子孫)が
知行所支配のため、本宿村に陣屋(代官)を設けた。
以来、明治に至るまで存続した。
陣屋代官職は本宿富田家が世襲し、現存の居宅は文政十年(1827)
の建築である。


案内板に従って左側の坂を上って行くと、
陣屋跡と思しき所に近代的な建物があり、


陣屋跡の右方50mほどの所に代官屋敷らしき建物があった。
文政十年(1827)の建築とあることから、凡そ180年前に建てられたもの
ということになる。


代官屋敷前に蔵があったが、これも相当古そう。


代官屋敷の後方に代官職を務めたとされる富田病院があった。


11時53分、旧街道に戻って本宿方面へ進む。
旧い家だが、しっかりとした造りである。


景観重要建造物の認証が貼られていた。
アイチ味噌溜本舗とある。
岡崎市の景観重要建造物は、岡崎城天守・六供配水場配水塔・旧石原家住宅・
旧野村家住宅(米屋)・カクキュー八丁味噌・まるや八丁味噌・本光寺に続いて
8件目の指定となり、本宿地区内のまちなみ景観の核として、将来にわたり
保全されることになる、とのこと。


常夜灯


現代的な建物の前に十王堂(閻魔堂)の説明が。
玄関ガラス扉から十王像がのぞけます、とあったので、覗いてみると、


十王像と本尊の木造地蔵菩薩坐像が鎮座していた。
本尊は鎌倉期の作で岡崎市の文化財に指定されている。


12時0分、本宿一里塚跡
日本橋から78番目の一里塚


本宿一里塚跡まで来たところでちょうどお昼になった。
この日は、弁当は持参していない。
途中の店にでもと思って、近くを並行している国道1号に目をやると、
「うどん得得」の看板が見えた。


さっそく国道1号を横断して「うどん得得」へ。


野菜たっぷりうどん(842円)を注文した。


12時45分、本宿一里塚跡まで戻って旧街道を進むと、
宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡と長屋門があった。
宇都野氏は宝暦年間(1751~63)三代立碩が本宿村に開業したのが始まり
と云う蘭学医家であった。


七代龍碩はシーボルト門人の青木周弼に医学を学んだ蘭方医として知られている。
安政年間(1854~60)感染力の強さと致死率の高さで恐れられた伝染病(天然痘)
の予防接種として植痘瘡(種痘)を施した。
当時にあっては画期的な医療だったという。


本宿西棒鼻手前に数本の松が残っている。
かつての松並木の名残なのだろう。


本宿西棒鼻
本宿京方(西側)出入口になる。
「右東海道 左国道1号」と刻まれた道標が立つ。


12時50分、本宿西棒鼻の先で国道1号に合流した。


国道1号と名電が並行する。


しばらく国道1号が続く。


左手に山中八幡宮と刻まれた石柱と赤い鳥居が見えた。
文武天皇の代にこの地に山中光重という者がおり、八幡大神を厚く尊信し、
悪夢を感じ神霊を迎えて奉祀したのが創立由来とされている。


国道1号沿いに建っているのはホテルのようだが・・・
他に建物がないので、ひときわ目立つ。
(後で調べるとホテル アントワネットだった)


ホテルの直ぐ隣に山中八幡神社の鳥居があった。
先ほど見えた赤い鳥居とは対照的である。
旧山中郷の郷社である山中八幡宮は、創建千年以上(律令政治時代)とも云われ、
また古墳の跡とも云われている。(中略)
三河一向一揆の際、身を隠して助かった徳川家康公由縁の神社としても有名である。
(現地説明板)


国道1号と名鉄名古屋線の向こう側に見えるのは、名鉄舞木検査場だ。


名鉄舞木検査場を見ながら進むと、道が分岐していた。
藤川宿入口だ。左側の側道を進むと、


13時32分、藤川宿東棒鼻跡に到着
棒鼻とは、宿場の出はずれ、すなわち出入口のことである。
東にあるため「東棒鼻」と呼んでいる。(中略)
とにかく、現在、藤川宿と言えば棒鼻と言われるくらい、
藤川宿の象徴となっている。
(藤川宿まちづくり研究会)


是より西藤川宿とある。
藤川宿は、江戸から数えての38番目の宿場である。
天保十四年(1843)の記録によると、家並みの長さ約1Km、戸数302戸、
本陣と脇本陣各1軒、旅籠屋36軒、宿内人数1,213人であったと云われる。


道が2つに分かれている。


この石垣のある路は曲手入口なのか? それにしては細い路である。
案内表示が見当らない(見落とした?)ので、右手を進む。


秋葉山常夜灯があった。
こちらが本来の街道なのだろうか?


左側に東海道の表示が。
藤川宿曲手(かねんて)と思われる。
曲手とは、直線状に来た道を直角に右(左)に曲がり、また左(右)へと
クランク状に曲がる道をそう呼んだ。
別名「桝形」とも言われている。
先ほどの石垣の間の径はやはり直進すべきだったのだ。


藤川宿の旧道を進む。


連子格子の旧い家が続く。
旧街道の雰囲気が感じられる。
(市場町格子造りの家並)


津島神社の標柱と常夜灯


常夜灯の横に建つ市場町公民館(旧市場公会堂)
建設竣工は大正六年七月、現在は、津島神社の境内にあり、
社務所を兼ている、との説明が。


津島神社の方へ向かって細い径を進むと、旧山中郷々蔵があった。
飢餓・救済を主とした非常時の蔵、だそうだ。


大正の始め、祭礼に使われていた立派な山車が解体廃止となり、
その足跡を残すため、山車の木材を、蔵の桁・梁に使い、
往時の山車の大きさと規模を残している、とのこと。


津島神社の鳥居は名鉄の線路の向こう側にあった。
ここから先は行けそうにないので諦めた。


旧街道に戻って進む。


連子格子の古い家


人形処粟生(あおう)人形工房前を通過
城郭のような建物である。


13時51分、称名寺入口の表示があったので、路地を入ってみる。


称名寺本堂
浄土宗西山深草派の寺院である。
正式の名称は、山号を「巌松山」、寺号を「柳田院称名寺」と称する。
ご本尊は高さ86.5Cmの阿弥陀如来坐像だが、
堂内には十一面観音もお祀りされている、とのこと。


本堂右脇に白い象があった。
ロープが付いている台車に乗ってるのを見ると、この象を引き回すのかな。
称名寺と象はどういう関係があるのだろう?


称名寺鐘楼


藤川宿問屋場跡
藤川宿の問屋場は、ここ宇中町北にあった。
問屋場は、宿場町では、最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、
書状の逓送(飛脚)などの業務を行う所だった。
藤川宿では、ここを御伝馬所とも称していた。


しっかりとした造りの旧い家があった。


景観重要建造物の認証が貼られていた。
旧野村家住宅(米屋)とある。
岡崎市指定の景観重要建造物の一つだ。


14時11分、高札場と藤川宿本陣跡に到着


藤川宿の高札は六枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、
岡崎市の文化財に指定されている、とある。


本陣跡
藤川宿本陣は宇中町北にあり、藤川宿の中心だった。
藤川宿本陣は、もともとは2軒であったが、退転(落ちぶれること)
を繰り返し、江戸時代後期には森川久左衛門が務めていた。


本陣跡の先に脇本陣跡があった。
現存する門は、関ケ原の戦いの後に藤川へ移住したと云われる
大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されているが、
昔日の名残をよく留めている。
(岡崎市教育委員会)


門を潜ると、藤川宿脇本陣跡の碑があった。


藤川宿脇本陣跡説明
脇本陣は、本陣の補助的な役割として設けられた宿舎で、
本陣に空きがないときには、本陣に準じて用いられていた。
脇本陣を営むことができたのは、本陣家に次ぐ名望家で、
江戸時代後期に営んでいたのは大西喜太夫で、橘屋と呼ばれていた。
(岡崎市教育委員会)


奥に藤川宿資料館があったが、あいにくこの日は休館日。
残念至極


旧い家


14時19分、藤川小学校を通過


芭蕉が詠んだ「むらさき麦」に因んで、地元の人が「むらさき麦」を栽培している。
5月中旬から下旬にかけて茎や葉、穂がほのかな紫色に染まるところから
「むらさき麦」と呼ばれている。
俳人・松尾芭蕉は「爰も三河 むらさき麦の かきつはた」の句を残した。


14時20分、藤川小学校前の藤川宿西棒鼻に到着


藤川宿西棒鼻跡
歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を
参考にして復元したもの。


是より東藤川宿の標柱


歌川広重の師匠である歌川豊広の描いた浮世絵の中にある狂歌
藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし


藤川宿西棒鼻跡の先に建つ十王堂
十王堂は10人の王を祀る堂で、その王とは冥途(死者の魂の行くところ)にいて、
亡者(死んだ人)の罪を裁く10人の判官を言う。


中には10人の王が並んでいた。


十王堂の隣には、松尾芭蕉の句碑もある。
爰も三河 むらさき麦の かきつはた はせお」
これは名物「むらさき麦」を詠んだもの。


この日は、藤川宿西棒鼻跡までとし、是より先は次回にしたい。


ということで、名鉄藤川駅へ向かった。


14時38分、名鉄藤川駅に到着


15時28分、豊橋駅に到着し、新幹線「こだま号」で帰路に就いた。


この日富士山を見ることは出来たが、やや霞んでいた。


第Ⅲステージ第2回目(吉田宿から藤川宿)の2日目(赤坂宿から藤川宿)を
歩き終わった。
出端から国府で乗り換える電車を間違ってしまい、大きく時間をロスしたが、
その後は、特に問題なく歩くことが出来た。
赤坂宿~本宿~藤川宿と間の宿も含めて3つの宿場に跨ったことから、
見どころが多かった。
それぞれの宿場に特色があって、楽しめた一日だった。
次回は、岡崎宿から池鯉鮒宿へ向かうことになるが、どのような景色が
見られるのか、今から楽しみである。

この日の万歩計は、25,000歩を計測していた。

旧東海道第Ⅲステージ第2回 吉田宿~藤川宿(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第2回 吉田宿~藤川宿(1日目)

2018年06月03日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年6月3日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージは、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から歩き始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにしている。

第Ⅲステージ第2回(1日目)は、吉田宿(JR小坂井駅)~赤坂宿(名電赤坂駅)を
予定している。

荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅6時56分発新大阪行「こだま号」に乗車


今日は富士山がはっきりと見える。
雪はかなり解けており、あまり残っていない。


9時8分、定刻通り豊橋駅に到着した。


豊橋駅でJR飯田線に乗り換え、


9時46分、この日の出発地小坂井駅に到着


前回(2018年5月15日(火))は前を通過しただけの
菟足(うたり)神社へ寄ってみることに。


9時58分、本殿の鳥居前に行ってみると、


神社では神前結婚式が執り行われていた。
どうやら式は終わったようだが、”吉田の手筒花火”が行われるとのこと。


危険だからということで、一般の人は境内から出され、
結婚関係者は本殿の中から見物するという形に。
祝いの手筒花火が始まった。


これがあの勇壮な”吉田の手筒花火”なのだろう。
TVで見たことはあるが、実物は初めてだ。
最後にドカンと大きな音ががして、辺り一面煙に包まれ、
境内には火薬の匂いが立ち込めた。


この後花嫁・花婿は社殿を後にして、


鳥居前の田んぼを見下ろす場所へ移動。
この後、若い二人の門出を祝う盛大な花火が打ち上げられた。


菟足神社を後にして旧東海道へ戻り、この日の目的地赤坂宿を目指した。


10時15分、JR飯田線の踏切を横断し、この日のスタートだ。


道が緩くカーブしている所に秋葉神社があった。


境内の常夜燈は文化五年(1808)の建立、とのこと。
秋葉神社の社に軽く参拝して、旧東海道へ。


10時25分、諏訪山明光寺前を通過


左手に伊奈村立場茶屋跡(茶屋本陣跡)らしきものが見えた。


茶屋本陣は、吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられた。
茶屋のうち格式高い加藤家(初代は大林平右衛門)では、
「良香散」という腹薬が有名であった。
芭蕉とも親交のあった俳人の鳥巣(うそう)はこの加藤家の生まれである。
かくさぬぞ 宿は菜汁に 唐が羅し」の芭蕉句碑が建つ。


旧東海道を進むと村社迦具土(かぐつち)神社の鳥居が。


迦具土神社は、延宝八年(1680)創建と伝わり、
伊奈村茶屋町の氏神だったと推察されている。


旧東海道を道なりに進むと、山本太鼓店が。


伊奈一里塚跡
山本太鼓店の角に江戸から数えて75番目の伊奈一里塚碑があった。
碑が立っているのみで当時の面影は何もない。


速須佐之男(はやすさのお)神社の鳥居があった。


速須佐之男神社社殿
明和七年(1770)10月9日創建で、速須佐之男命を祭神とする。
旧伊奈村新町の氏神で、天王社と呼ばれていた。


佐奈川に架かる佐奈橋の歩道(左側)を渡る。


時折現れる旧い家に目を奪われながら進むと、


冷泉為村(れいぜいためむら)卿の歌碑の案内標識が。


標識に従って右に折れて100mほど進むと、
冷泉為村歌碑と若宮白鳥神社遥拝所と刻まれた石柱があった。


江戸中期の歌人冷泉為村が、桜町に訪れた際に詠んだ歌が刻まれている。
散り残る 花もやあると さくら村 青葉の木かげ 立ちぞやすらふ


時折見かける古い家は、連子格子の様式が多い。


白川に架かる五六橋を通過すると、


白鳥生コンの工場が現れる。


西古瀬橋を渡ると、


大小の工場などが立ち並ぶ。
工場団地といった環境になる。


そのまま旧東海道(県道496号)を進むと、県道31号に突き当たった。
真っ直ぐには進めない。


仕方がないので、左に曲がって、県道31号下を潜り、


反対側の旧東海道(県道496号)へ。
途中案内表示などは見当たらなかったが、道は合ってるのかな?


構わず旧東海道(県道496号)と思える道を進むと、


白鳥5西交差点で国道1号に合流した。


名鉄名古屋本線を跨いで進む。


国道1号国府町薮下交差点で、旧東海道は、左へ分岐する。


11時52分、国府交番前を通過


寿司・うなぎの「だるま」辺りが旧国府立場の江戸方出入口と思えるが・・・


常夜灯
旧国府立場の江戸方出入口付近に残る秋葉山常夜灯。
寛政十二年(1800)国府村の火除け・村中安全を祈願して建立された、そうだ。


薬師堂
熊野へ行く途中、国府の郷を通った行基は、二人の姉妹が住む家に投宿した。


姉妹が死んだ父母のために仏像を刻んで欲しいと行基に頼み、
行基が近くの古木の杉から薬師瑠璃光如来像を刻むと、
姉妹はこれを安置した寺を建立したという。


瑠璃殿の扁額には文政四年(1828)八幡山巌禅翁と書かれている。


薬師瑠璃光如来像


薬師堂境内の石仏群


旧東海道(県道374号)を進むと、交差点があり、


国府観音200mの案内標識が。
芭蕉句碑とも書かれている。
ちょっと立ち寄ってみよう。


12時24分、旧東海道から200mほど逸れた国府観音に到着


高麗門形式の山門を潜ると、


左に鐘楼があり、


その少し奥に芭蕉の句碑があった。
紅梅や 見ぬ恋作る 玉すだれ


国府観音本堂


本尊は一寸八分の観音像と云われている。


本堂右側の小さなお堂の中には御賓頭盧様(おびんずるさま)が祀られていた。


旧東海道に戻り、


旧東海道を進む。


12時42分、大社神社に到着。
大社神社は、昔は国府大明神とも呼ばれていた。
明治五年(1872)国府村の総氏神となった。


鳥居を潜り、


大社神社拝殿へ
大社神社は、天元・永観年間(978~985年)大江定基が三河守に着任の折、
三河国の安泰を祈念して出雲大社より大国主命を勧請、
合わせて三河国中諸社の神々を祭神に祀ったと社伝にあるという。


拝殿内


本殿の裏で弁当タイムだ。
今日の弁当は、東京駅で買ったおにぎり弁当(864円)である。


大社神社の境内に身代わり大黒がある。
”自身の病有る箇所に水を掛け流せば、病気平癒の霊験あり”と
書かれた説明があった。


大社神社社殿に向って左手奥に、進雄神社(天王宮)と、
御鍬稲荷神社が祀られていた。


右に進雄神社(すさのおじんじゃ)(天王宮)、
左に御鍬稲荷神社(みくわいなりじんじゃ)が祀られている。
狛犬の狐の表情が怖い。


大社神社を超えて100mほど進むと蒲郡信用金庫国府支店の
植え込みの中に江戸から数えて76番目の御油一里塚の碑がある。
伊奈一里塚同様、碑が立っているのみで当時の面影は何もない。


御油一里塚を少し進むと、姫街道と東海道が分岐する追分があり、


道標と立派な常夜燈が立っている。


旧街道を進んで行くと、


13時26分、御油橋に到着
最初は織田信長が架けたと云われている、そうだ。


音羽川


音羽川を渡った御油橋角に小さな若宮八幡社があった。
若宮八幡社の詳しいことは分らない。


花・ベルツゆかりの地
明治政府が招いた日本近代医学の祖といわれるドイツ人医師ベルツ博士。
ベルツ博士と結婚し、日本とドイツで暮らしていた荒井花子は、
博士が亡くなった後もドイツに残っていたが、第一次世界大戦のため、
大正11年(1922)に日本に帰国。1936年、74歳でこの世を去った。
父親の生家が御油宿で戸田屋という旅籠を営んでいたのがこの場所。


連子格子の旧家前を通り、御油松並木へ。


御油宿高札場跡
江戸時代に代官所が町民や旅人に、諸規則を知らせるために設置した掲示板を
高札という。
御油宿ではこの場所に高札が立てられていた。


旧東海道は、案内表示では、この高札場跡で直角に曲がることになる。


御油宿問屋場跡
江戸時代の宿場町で、公用の荷物や人の継ぎ送りに必要な人足や馬を備え、
大名や幕府の役人などに人馬を促供し、輸送にあたらせた所。
御油宿の問屋場は、この場所にあった。


御油松並木の案内表示。
御油松並木まで1000mとある。
御油宿の中心地は、クランク状態に曲がっている。


問屋場跡の先を左に曲り、旧道を進む。


御油宿本陣跡
御油宿には2軒の本陣があった。
この場所は鈴木半左衛門が営んでいた本陣の跡である。


御油宿で味噌・醤油の醸造を行っているイチビキの工場(蔵)
明治44年に御油工場に完成した、桶底の直径が1丈3尺(約3.9m)
高さ1丈3尺(約3.9m)容量約50tという日本最大級の味噌仕込桶が
自慢のようである。
一度実物を見てみたいものだ。


東林寺の案内表示があった。


東林寺山門
浄土宗の寺院、山号は招賢山
三河准四国八十八ヶ所50番霊場で、御油観音と呼ばれている。


東林寺本堂
室町時代中頃の永享年間(1429~1441)に瀧月日蔵和尚によって創建されたという。
本尊の阿弥陀如来は、牛若丸と契りを結んだ浄瑠璃姫の念持仏と言い伝えられている。 


三河の領主であった徳川家康も2回立ち寄った。 


本堂左手の墓地の中には御油宿場の繁栄の陰で働いていた
飯盛女たちの墓がひっそりと佇んでいる。


旧東海道を進む。
旧い家が立ち並び、宿場の雰囲気が感じられる。


連子格子の家の先に、


13時56分、御油の松並木の東端に到着


御油の松並木の入口に、御関札立掛場跡がある。
御関札とは、諸藩の大名が参勤交代や何らかの用事で出向く際、
宿泊先となる宿場の本陣や問屋に事前に申し伝え、宿泊当日の
3日前迄に本陣、町役人は、宿場の出入り口に板に宿泊年月日・
藩主名・出向く先を記入し、太い竹竿に取り付け、立掛けられた看板を言う。
寛文元年十一月二十一日 松平丹波守宿という関札が立掛けてある。


天然記念物 御油松並木
この松並木は慶長九年(1604)徳川家康が植樹させたもので、当初600本以上あった。
長い歳月の間に減少したが、現存する松並木では昔日の姿を最もよく残すものとして、
第二次世界大戦中の昭和19年11月7日、国指定の天然記念物となった。


御油松並木の東端に十王堂があった。
十王とは、冥界にあって、死者の罪業を裁判する十人の王のこと。
閻魔大王もその一人である。
仏教では、死者は冥界で順次十人の王の裁判を受けて、
次に生まれてくる所が定まるとされている。


十王堂からクロマツの並木が600mに渡って続いている。
樹齢300年以上のものが350本ほど保存されている、そうだ。


御油松並木は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」に出てくる弥次郎兵衛、
喜田八が狐に怯えた珍騒動の舞台にもなっている。


約10分で御油松並木の西端に到着


松並木のすぐ先に見附跡の説明板が。


赤坂宿見附は、東西に設けられ、東は東海道を挟んだこの辺りの両側にあり、
西は八幡社入口付近の片側にあった。(以下略)
ここは赤坂宿の東(江戸方)入口である。


連子格子の家


14時19分、関川神社に到着


関川神社拝殿


芭蕉「夏の月」句碑
夏の月 御油よりいでて 赤坂や
この句は延宝四年(1676)、初めて伊賀上野に帰省するとき詠んだもので、
御油、赤坂間の距離の短さを踏まえて詠んだもの、とされる。


関川神社の楠は町内一の巨木で、幹の周りは目の高さで7.29m、高さ25.7mあり、


推定樹齢は約800年、と云われている。


木の根元のえぐれている部分は慶長十四年(1609)十王堂付近から出火した
火災時に焼けたもの。


旧い家


軒下の酒の銘柄は今でも残っているのだろうか。


赤坂宿本陣跡
赤坂宿の本陣は、宝永八年(1711)の町並図によると、4軒あった。
そのうち松平彦十郎家は、江戸時代初期から本陣を務め、
人馬継ぎ立てを行う問屋も兼ねていた。


赤坂宿高札場


旅籠尾崎屋
軒下の看板に「曲物民芸品製造卸問屋」と書かれている。
(曲物は、檜・杉など薄く削った材を円形または長円形に曲げて作った容器)


旅籠大橋屋は保存整備工事中だった。
亭保十八年(1733)の赤坂宿は、町裏を合わせ屋敷400軒のうち、
83軒が旅籠屋だった。
大橋屋の旧屋号は鯉屋。
正徳六年(1716)の建築と云われ、赤坂宿の旅籠屋の中では大旅籠で、
間口9間・奥行23間ほどあった、そうである。


旅籠大橋屋を江戸時代の建築当初の姿(一部近代を含む)に復原する
保存整備工事を平成30年12月頃まで実施しています。
(豊川市教育委員会)


御休所「よらまい館」
平成14年にオープンした赤坂宿の旅籠をイメージした休憩施設である。


中では子供たちがゲームに夢中だった。


赤坂陣屋跡(三河県役所跡)
赤坂陣屋は、三河の天領支配の中心であり、年貢の徴収や訴訟などを取り扱った。
幕末に三河県役所と改められたが、廃藩置県後、明治五年に廃止となった。


赤坂陣屋跡の近くに高札場跡の標柱が。
文字が消えそうな状態のところに、ガードレールが邪魔をして、
危うく見落とすところだった。


ここから先は明日歩くことにして、


名電赤坂駅を目指した。
国道1号を横断


15時9分、名電赤坂駅に到着


15時12分の伊奈行に乗車し、


国府(こう)で豊橋行に乗り換え、15時40分、豊橋駅に到着した。


大橋通り方面


広小路を歩き、今宵の食事処を探す。


今宵はかつ丼の「かつ里」にしよう。


ときわ通りを抜け、


15時58分、ホテルルートイン豊橋駅前に到着
前回と同じホテルである。


2Fの大浴場で汗を流し、さっぱりした後、
広小路の「かつ里」へ食事に出かけた。
一人で食事するには、このような店に限る。


ビールで喉を潤した。


第Ⅲステージ第2回目(吉田宿から藤川宿)の1日目(吉田宿から赤坂宿)
を歩き終わった。
菟足神社では偶然にも神前結婚式に遭遇し、吉田の手筒花火を見ることが出来た。

やはり旧東海道は、見どころが多い。
歩いた距離はそれほどないが、いろいろなものがあって、退屈しない。
しかし、一人で歩いていると、見落とすものが多いのも事実である。
これからも出来るだけ見落とさないように気を付けながら、
歩いて行きたい。

この日の万歩計は、26,000歩余を計測していた。

旧東海道第Ⅲステージ第2回 吉田宿~藤川宿(2日目)

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花菖蒲を堪能 水郷潮来をめぐるみち

2018年06月01日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年6月1日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第9回(2018年第19回)、「あやめの里水郷潮来をめぐるみち」ウォーキングに参加した。
この日のコースは、2015年12月25日(金)に有志による一泊忘年会で訪れて以来、
2年半ぶり2回目となる。

第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは、18名。
乙戸沼公園にしては多いのかなと思ったのだが・・・


車5台に分乗して潮来市のショッピングセンター「アイモア」へ。
現地に到着したのは10時15分、ほぼ予想どおりである。
4名(夫婦2組)が現地直行していた。
結局この日の参加者は、現地直行の4名を加えて22名、
予想を少し下回った感じだ。


「FOOD MARKET KASUMI」の入口前で
準備体操(1)


準備体操(2)


準備体操(3)


準備体操(4)


10時45分、TKさんを先頭に出発!
『いやぁ 今日は暑くなりそうだなぁ』


「アイモア」と隣のホームセンター「NAFCO」の間を進み、
突き当りを左に曲り、住宅地へ。


直ぐに右折して住宅地の中を進み、JR鹿島線方面へ。


JR潮来駅の駅裏という地理的理由によるものなのか、飲み屋などが多い。
韓国やタイなどのスナック・居酒屋の看板が目立つ。


大衆割烹や蕎麦など和風の店もある。


JR鹿島線の下を潜って真っ直ぐ進むと・・・


前川のあやめ園に出た。
菖蒲の花が満開時期は少し過ぎてはいるものの、見るには充分という状態だ。
今年はあらゆる花の開花時期が例年に比べ1週間から10日は早い。
『見るには充分だよね~っ』
『だけど何とか間に合って良かったわね~っ』


櫓舟遊覧船がゆっくり前川を上って行く。
『風に吹かれて気持ち良さそうだわね~』


藤棚の下を通り、


水雲橋方面へ。


前川櫓舟遊覧船乗り場
手漕ぎ舟の発着場だ。
5月26日(土)から「水郷潮来あやめ祭り」が始まっているためか、
平日にも関わらずけっこう賑わっていた。


水郷筑波国定公園”潮来”の看板と太鼓橋風の水雲橋


前川櫓舟遊覧船待合所の前に”潮来の伊太郎”の銅像が建てられている。
伊太郎は、ご存じ橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」のあの伊太郎である。


振り返って伊太郎像が見つめる前川あやめ園を望む。
素晴らしい眺めだ。


水雲橋という名は、潮来村が生んだ郷土の先人宮本茶村に由来する。
寛政五年(1793)潮来に生まれた茶村は、文久二年(1862)70歳で没するまで、
詩人・教育者・庄屋・郷士・考証学者として数多くの業績を残した。
特に天保期の飢饉では村民に荒年の心得を説き、同士と共に義倉を設け、
また私財を投じて窮民を救済した。
この偉業を後世に伝え、その名を永く留めるため、前川に初めて架設された橋には、
茶村の晩年の号「水雲」から「水雲橋」と命名した。
(説明板から抜粋)


水雲橋から常陸利根川方面のあやめ園を望む。


水雲橋は2つの太鼓橋から成っている。
先頭Gは、2つ目の太鼓橋からの眺望を楽しんでいるところだった。


もう一つの太鼓橋へ。


前川を遡る手漕ぎ舟


2つ目の太鼓橋から前川上流方面を見たところ。
常陸利根川から分流した前川は、4Km先の北浦に合流している。


水雲橋を渡り終えて対岸へ。


『この時期に来たのは初めてだけど、来て良かったぁ』


大門河岸公園という小さな公園の角を右に曲り、


次の目的地、長勝寺へ向かう。
長勝寺へと続く門前通りは、車がようやく1台通れるほどに狭い。


玄関に吊るし雛を飾っている家が多い。
(長勝寺門前通りには、「つるし雛の会」というのがある、そうだ)


11時10分、長勝寺の正門に到着


参道を進む。


正門に続いて山門(楼門)が現れた。
この楼門は、普門院において元禄六年(1693)~同十三年(1700)にかけて建立され、
完成間近の同十三年、徳川光圀の命によって長勝寺に移築された。
県指定有形文化財になっている。


楼門を潜ると、さらに参道が続いていた。


長勝寺本堂(仏殿)
臨済宗妙心寺派に属し海雲山と号する古刹で、本尊は木造阿弥陀如来
文治元年(1185)源頼朝が、鹿島に隣接するこの地に武運長久を祈願して創建し、
江戸時代に水戸藩主の徳川光圀が諸堂宇を修復したと伝えられている。
茅葺の一重入母屋造の実に堂々たる構えである。
規模雄大な建築で、禅宗建築として唐様様式の貴重な遺構である。
県指定有形文化財になっている。
(説明板より抜粋)


本堂(仏殿)手前右に勢至堂が。
阿弥陀三尊仏の勢至菩薩を祀るお堂である。


ボランティアの女性が案内をしてくれるというので、
手短にということでお願いした。


仏殿棟上には源氏の定紋「笹りんどう」が配されている。


仏殿内部の説明に熱心に耳を傾ける当会の会員


仏殿内部
ご本尊は、阿弥陀三尊仏。
厨子の中央に阿弥陀如来座像、左に観音菩薩、右に勢至菩薩の脇持立像を
三尊像と言う、とのこと。
向かって右側には毘沙門天が睨みをきかせている。


仏殿手前右の鐘楼


梵鐘(銅鐘)
この銅鐘は、元徳二年(1330)北条高時が上総国府城主千葉五郎禅門道暁との
発起により、長勝寺の創建者である源頼朝公の菩提の為に寄進したものであり、
鐘名並びに序文の作者は、鎌倉円覚寺16世清拙和尚(大艦禅師)で、
鋳物師は甲斐権守卜部助光である。
(説明版より)
国指定重要文化財となっている。


芭蕉時雨塚
松尾芭蕉が鹿島紀行での帰路に詠んだ時雨塚(句碑)がある。
旅人と 我名呼ばれむ 初しぐれ


芭蕉句碑の先に中朱門があり、門を潜ると、


きれいに手入れされた庭があった。
その奥に・・・


座敷の奥に金色の観音様が祀られていた。
”ふれあい観音”と言い、直接触れても良いそうだ。


福禄寿の像
長勝寺は、常陸七福神の一つとなっている。


方丈には吊るし雛が飾られている。
潮来には吊るし雛を作る同好会が在り、
長勝寺や門前の民家を展示会場にしているのだそうだ。


方丈の廊下にもたくさんの吊るし雛が。
奥の部屋では抹茶がいただける(500円)そうである。


再び仏殿のある境内に戻る。
境内には源頼朝のお手植えと伝わる文治梅とよばれる梅の古木や、


臨済宗の開祖、栄西が日本に持ち帰ったと云われる、
天然記念物の菩提樹の大木もある。


菩提樹の花
菩提樹の葉からオレンジ色の花が下を向いて咲いていた。
仄かに甘い香りを漂わせていた。
『葉っぱから花って珍しいわね~っ』


長勝寺を後にして、長勝寺裏の稲荷山公園へ。


稲荷山公園を目指す。


稲荷山公園への急坂を上る。


坂道を上ったところに水戸光圀公御休処の「遺愛亭跡」と書かれた
看板が立っていたが、建物などは何も残っていない。


稲荷神社に向けて檜の林を進む。


『散歩するには良いコースだねぇ』


稲荷山公園にはたくさんの紫陽花が植栽されている。
いろんな種類の花が咲き始めていた。
あと半月もすれば見頃になるのだろう。


林の中に小説家で文豪の菊池寛實の顕彰碑が。


稲荷神社が見えて来た。


14時34分、稲荷大明神に到着した。
宝暦十三年(1763)四月二十八日に、京都伏見稲荷神社の分霊を迎えて、
一時長勝寺に奉斎した。
その後、現在地に神殿を新造して奉斎した。
(説明板抜粋)


『いやぁ 素晴らしい眺めだね~っ』


稲荷神社からの眺望
潮来市街地と水郷が一望できる。
常陸利根川方面正面に「富士屋ホテル」と潮来大橋が見える。


稲荷山からの眺望
潮来ホテル


東屋で一休み


稲荷神社の境内には、いろんな碑が建てられている。
これは、「潮来町立女子技芸学校跡」の碑
技芸学校は、神社の横に明治40年頃に建てられたようで、
その後昭和13年に東の方に移転した、とのこと。
その後高等女学校になり、現在の県立潮来高校になった、そうである。


茨城百景水郷潮来の碑
稲荷神社からの眺望景色を指しているのだろう。


茨城百景碑の左側に野口雨情作詞、中山晋平作曲の詩碑がある。
碑には、「船頭小唄」の歌詞が刻まれている。
♪~俺は河原の 枯れすすき~♪
森繁久弥の歌を想い出す。


稲荷神社の急な石段を下ったところに、


薬師堂があり、


その前に道祖神がぽつんと立っていた。


狭い路地を常陸利根川方面へ。
車がすれすれに通り抜ける。
『車だよ~ 気を付けて~っ』


少し広い道路に出て、常陸利根川方面へ。


潮来富士屋ホテルの横を通り過ぎると、


常陸利根川の橋が見えた。
常陸利根川(北利根川)に架かる潮来大橋を右手に見ながら川下に進む。


常陸利根川の川岸を歩いてみよう。


川岸に沿って潮来駅方面へ。


『川岸を歩くのって気持ちが良いわねっ』


川岸を潮来駅方面へ。


「十二橋めぐり」用の遊覧船が係留されていたが、
お客や船頭さんの姿は見えない。


土浦港からは土日に一往復のみとなっている。
『ジェットホイルに一度乗ってみたいねぇ』
(毎年6月の土日に運行し、片道2,100円、往復3,700円) 


常陸利根川を後にして、潮来駅方面へ向かう。


前川の水門
前川は、常陸利根川から分流し、4Km先の北浦に合流する。


前川の遊覧船乗り場にも人の姿は見えない。
平日は、あまり乗る人はいないということなのだろうか?
屋根付き船は、雨が降ったら利用されるのかもしれない。


前川に架かる橋から水門方面を見たところ。


前川沿いの「前川あやめ園」


前川を渡り、潮来駅方面へ。


県道101号を進むと、左手にJR潮来駅が見えた。


潮来駅のガード下を通り、


少し進むと、ショッピングセンター「アイモア」駐車場に到着した。


ゴールのKASUMI FOOD CENTERへ。


12時22分、ゴールのKASUMI FOOD CENTER前に到着
昼食は、車単位でそれぞれ好みの店に行くことにして、
ここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


12時49分、我車の6名は、ショッピングセンター「アイモア」から車で15分ほどの
国道51号沿いの「ふな彦」に到着。
TKさん車(4名)も後に続いた。


『何にしようかしらっ』


いろいろと悩んだ結果、
10名全員「うな玉丼」(コーヒー付き980円)を注文。
うな重は、また別の機会にしようということに。
『親子丼みたいだねっ』


『うなぎはちょっとだけ入ってる感じだねっ』


食事風景


『いやぁ 喰った喰った』
『けっこうお腹いっぱいになったねっ』

この後、車単位で帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

”あやめの里水郷潮来をめぐるみち”ということで、水郷潮来の町を歩いた。
2015年12月25日(金)に有志による一泊忘年会で訪れているが、
「あやめ祭り」の時期としては、初めてである。

昨年、今年の6月1日を計画した時には、あやめ(花菖蒲)には少し早いかな
と気になっていたが、ほぼ見頃というよりも何とか間に合ったのは良かった。
もう1週間遅らせていたら、満開の花菖蒲は見ることが出来なかったように思う。

この日の様子では、あと1週間もすれば見頃は過ぎてしまうと思われる。
「水郷潮来あやめ祭り」は6月24日までだが、それまで花は持たないだろう。
他人事ながら、”潮来観光”の方が気になる。

この日の万歩計は、8,500歩を少し超えたに留まった。

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