ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

緑も豊か 歴史と近代文学のみち市川

2018年06月08日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年6月8日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30年度第10回(2018年第20回)、「歴史と近代文学のみち(市川)」ウォーキングに参加した。

荒川沖駅7時59分の電車を待っているところ。
この時間帯は、通勤・通学の混雑も一段落し、
電車は空いているのでよく利用する。


柏(常磐線各停)、東松戸(武蔵野線)、西船橋(総武線)と3度乗り換え、
9時20分、この日のスタート地市川駅に到着した。


この日の参加者は19名。
市川駅改札口で点呼を取って迷子はいないことを確認。


9時30分、市川駅北口を出発!


ダイエー角を右折して駅前西通りを100mほど進み、


次の角を左折すると国道14号(千葉街道)に出た。


千葉街道を横断して正面の真間本通りを進むと、


京成線の踏切がある。


京成線市川真間駅を右に見て、


150m先の信号を右に折れて進む。


300mほど先の五差路を左に渡ったところが、


9時47分、市川「文学の道」の始まりである。
地図の確認と”市川と文学”について学んでおこう。


”市川と文学”には次のように記されている。
市川の文学は、万葉集に始まると言われますが、以来、多くの文人墨客が
この地を訪れ、市川を題材にした和歌や小説を残しています。
万葉集には高橋虫麻呂や山部赤人が手児奈の歌を残していますし、
江戸時代に入ると井原西鶴や上田秋茂などの作品に市川の描写が見られます。
また、明治になると、夏目漱石や正岡子規、高浜虚子の作品の中に市川の
様子が登場するようになります。
明治以降も北原白秋など多くの文人が移り住み、市川の姿を作品の中に
登場させてきました。
このように「市川と文学」は古代から密接な関係を築いてきました。
古代より育まれてきた市川の文学に思いを馳せてはいかがでしょう。


「文学の道」は、およそ800mに及ぶ細長い桜土手公園を歩くことになる。


歩道には「万葉の里 いちかわ」の表示もある。


散歩道には動物の置物が置かれているが、これは市川とは関係なさそう。
『可愛いのねっ』


「文学の道」には、市川ゆかりの歌人北原白秋や


昭和の俳人水原秋櫻子などの紹介板が並んでいる。


『市川にゆかりのある川柳作家もけっこういるんだぁ』


市川ゆかりの川柳作家の紹介板


小説家・随筆家でもある、父幸田露伴・娘幸田文親子は、
菅野の白幡天神社の近くに住んでいた、と記されている。


「文学の道」を進む。


9時52分、ベンチ代りの椅子があったので、ここで一休み。
『桜の木が木陰になってるので、そんなに暑く感じないよねっ』


軽いお茶タイム
『ごちそうさまっ』


冷たいゼリーに舌鼓
『冷たくて美味しいねっ』


『永井荷風も市川に住んでいたんだぁ』


桜土手公園を進む。
『一つ一つ全部読んで歩くのは大変だよねっ』


脚本家水木洋子の紹介板を過ぎ、


さらに桜土手公園を進むと、


突き当たりに真間(まま)川が流れているので、左に折れて川沿いに進む。


川向うに真間小学校が見える。


さらに真間川に沿って進むと、


桜土手の西詰に浮島弁財天があった。
浮島弁財天は、技芸の神様として知られ、多くの信仰を集めている、とのこと。


道端には市川を読んだ和歌などの作品が紹介されている。


手児奈(てこな)橋を渡る。


手児奈橋を渡って真間川に沿って進み、最初の角を右に曲がると、


10時9分、赤い欄干の「真間の継橋」に到着した。
万葉の時代、この地域にはたくさんの州があり、その州から州へのかけ橋が
継橋だったと考えられている。
「真間の継橋」は、万葉集をはじめ勅撰集など昔から多くの歌人に歌われ、
また、後世多くの歌人の題材になった。


日蓮上人の歌碑
ここに人を 渡しはてんと せしほどに 我が身はもとの ままの継橋


継橋のすぐ先に手児奈霊神堂があったので、お参りして行くことにした。


”南無手児奈霊神”と染め抜かれた赤い幟旗の間を進むと、


手児奈霊神堂があった。
万葉集に歌われた真間の手児奈をお祀りしているお堂である。
良縁成就・孝子受胎・無事安産・建児育成の御利益で知られる。


手児奈霊神堂の説明
その昔、真間の里に手児奈という、美しい娘がおりました。
その美貌に手児奈を娶りたいと、男たちは争ったといいます。
心優しい手児奈は、人々が争い傷つくのを厭って、
ついに真間の入り江に身を投げてしまいました。
里の人々は、手児奈の心情をあわれみ、御祠をつくって手厚く葬り、
手児奈の物語を語り継ぎました。
万葉歌人・山部赤人がこの地を訪ねた折、手児奈への思いを廻らせました。
われも見つ 人にも告げん 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城処」     


「縁結び 桂の木」
桂の木は、縁結びの木として霊験が顕著といわれています。
この桂の木は、昭和56年7月26日、第三回市川ほうずき市に、
当時市川市に在住していた歌手さだまさしさんが奉納されたものです。


手児奈霊神堂を後にして、弘法寺(ぐほうじ)へ。


急な石段を上る


石段の両側には数種の紫陽花が咲いていて、目を楽しませてくれる。


10時23分、真間山弘法寺の仁王門に到着
奈良時代天平九年(737)、行基菩薩がこの地に立ち寄ったとき
里の娘手児奈の哀話を聞き、いたくその心情を哀れに思い、
一宇を建てて求法寺と名付け手厚くその霊を弔われた。
それから凡そ百年ほど経た平安時代弘仁十三年(822)に弘法大師(空海)が
布教に来られた時、求法寺を七堂伽藍に再建され、寺運を一新して
求法寺を弘法寺と改称した。 


仁王像は運慶作との伝えもある、そうだ。


弘法寺祖師堂
弘法寺は、行基菩薩または弘法大師空海による創建との伝えのある
1300年以上の長い歴史と由緒ある古刹である。


祖師堂は、宗祖日蓮上人をお祀りする御堂。
最初は鎌倉時代正中二年(1325)に建立された。
現在の祖師堂は江戸時代中期の延宝二年(1628)に上棟されたもの。


本堂奥に宗祖日蓮上人像が鎮座している。


弘法寺客殿前を通り過ぎると、


弘法寺朱雀門(通称赤門)がある。
弘法寺で最も古く500年の歴史ある建物とも云われている。


弘法寺朱雀門前を右に曲り、次の目的地下総国分寺を目指す。


千葉商科大学南門前を通り過ぎると、


見晴しの良い場所に出た。


手持ちの地図では小さな路は分らないので、勘を頼りに住宅街を進む。
『多分こっちの方角で合ってると思うんだけどなぁ』


下総国分寺の案内表示を見つけ、表示に従って進む。


急な曲がった坂道を上って行くと、


10時52分、下総国分寺仁王門に到着した。
下総国分寺は、真言宗豊山派の寺院。
山号は国分山で、本尊は薬師如来。


仁王像(吽像)


下総国分僧寺跡
下総国では、市川に国府があったので、ここに国分寺が建立された。
その建立年代ははっきりしないが、奈良時代であることは確実です。
国分僧寺は、過去数回の火災をうけて当時のおもかげはないが、
発掘調査の結果、法隆寺様式の伽藍配置をもつ、金堂・講堂・塔の遺構が
発見されている。(市川市教育委員会)


下総国分寺創建伽藍基坦配置図
創建当時の金堂基坦・講堂基坦・七重塔基坦が赤で示されている。


下総国分寺本堂
行基菩薩開山伝説もある国指定文化財下総国国分寺跡とあるが、
現在も国分寺は歴史を刻んでいるお寺である。


下総国分寺は、市川七福神(毘沙門天)の一つでもある。


本堂裏に回ってみると、下総国国分寺の金堂基坦・講堂基坦・七重塔基坦などは
ここから見る限りでは墓で埋め尽くされていた。


下総国分尼寺跡へ。


『この通りに行けば良いんだよねっ』


鳥居があったので、覗いてみると、


庚申塔らしく、青面金剛像が鎮座していた。


住宅街を通り抜けると、


11時13分、公園のような広場があった。
下総国分尼寺跡である。


史跡 国分尼寺跡の碑
国分尼寺は、国分寺と同様、天平十三年(741)に聖武天皇が発した
国分寺建立の詔勅により、全国に建立された。
正式名称は「法華滅罪之寺」という。
下総国分尼寺跡は、下総国分寺の北西側約500mの同一台地上に所在しており、
東側にある国分寺は「東寺」、西側にある国分尼寺は「西寺」とも呼ばれて
いたようである。


広場の草むらの中に金堂跡や


講堂跡を示す標識があった。


女性陣は古寺跡にはあまり興味はないようだ。
木陰で一休みして、


堀之内貝塚公園を目指した。
11時22分、時計台のある学校の傍を通り、


住宅街を進む。
(中国分二丁目付近)


中国分幼稚園前を通過し、


住宅街を進む。
(中国分五丁目付近)


特徴のある建物などもなく、どの辺りを進んでいるのか分らなくなってしまった。
通りかかった郵便配達の人に訊ねると、一筋異なる通りを歩いていることが分った。


郵便配達の人に教えて貰った道を堀之内貝塚公園を目指した。


坂道を下り、右に曲って進むと、


11時59分、真新しい広い道路があり、出来たばかりと思える歩道橋があった。
小塚山公園前交差点だった。


どうやら正面の森が目指す堀之内貝塚公園と思われる。
交差点を渡り、貝塚公園を目指す。


堀之内貝塚公園入口の表示があったが、金網の扉は閉まっていた。
『だけど鍵は掛かってないねっ』
ということで、ここから入ることにした。


森の中にはいくつもの細い径があった。


その中の一つを上って行くと・・・


金網の向こうに建物が現れた。
歴史博物館と思われる。


こちらは考古博物館のようだ。


ちょうどお昼を知らせるメロディが流れてきた。
この先の蓴菜(じゅんさい)池緑地まではかなり距離があるので、
ここで弁当タイムにするのが良いだろう。


弁当タイム
おにぎりが美味しい。


弁当を終え、12時44分、次の目的地蓴菜池緑地を目指して出発!


堀之内貝塚公園内には小さな社も祀られていた。
とりあえず参拝だけはしておくのが、我々年代の流儀である。


入って来た時とは別のルートで出口へ向かう。
『こんな所にベンチがあったんだぁ』
『ここで弁当にすれば良かったねっ』


貝塚公園の森を抜け、


入って来た扉から外に出た。


歩道橋を渡ってみることにしよう。


タカの森歩道橋を渡る。


道路は小塚山トンネルで小塚山公園の下を通る形になっている。
(この道路は6月2日に開通したばかりの東京外環道だった)


「水と緑の回廊」を蓴菜池緑地を目指す。


右手に「小塚山フィールドアスレチック」の公園を見ながら進むと、


蓴菜池緑地430mの標識が。


標識に従って、森の中を進む。


水辺に近い緑の中を進んで行くと、


池があった。
水生植物案内板によると、ここが蓴菜池ではないかと思われる。
戦前まで蓴菜が採れたことから、この名前が付けられた、そうだ。
6月から8月上旬頃までに生のものを味わえるとのことだが、
残念ながら池に蓴菜は見当らなかった。


さらに進むと、左手に水生植物池とは別の大きな池があった。


池のほとりを進む。


小さな島もある。


『素敵な公園だね~っ』


水辺の住宅に住んでる人が羨ましく見える環境だ。
『あんな家に住んでみたいわねっ』


13時18分、蓴菜池緑地の西端に到着
蓴菜池緑地の地図があった。
『乙戸沼よりも大きそうだねぇ』
『散歩にちょうど良い大きさじゃないっ?』


池端で軽い休憩を摂り、


13時25分、里見公園を目指し、蓴菜池緑地を後にした。


住宅地を通り、国府台病院前の桜並木を進むと、


13時38分、里見公園に到着


『なんだか疲れちゃったわよねっ』
かなりの距離を歩いたこともあるが、30度近い梅雨の暑さのせいかも。


しばらく休憩を摂り、


里見公園内を進むと、小さなバラ園があり、


噴水があった。
『水が恋しい季節だね~っ』


盛期は過ぎてはいたが、黄色いバラや、


赤いバラ、


ひときわ赤いバラなどが咲いていた。


13時58分、里見公園を後にして、


江戸川に向かって緩やかな坂道を下って行くと、


目の前に江戸川が現れた。


海から14.5Kmの地点を下流に向けて進む。


江戸川に沿って進む。


目の前の雑木がなくなり、視界が開けた。
東京と千葉の境を流れる江戸川は、江戸時代は水運の大動脈だった。


川向こうに東京スカイツリーが見える。
対岸は東京都江戸川区だ。


雑木が無くなったとたん強い風をまともに受けることに。
『風が強~い』 『帽子が飛ばされちゃう~』


西寄りの強い風を受けながらJR市川駅を目指す。


ゴールのJR市川駅へ。


14時15分、京成線国府台駅のガード下を潜り、


県道1号(松戸街道)を200mほど進むと、国道14号(千葉街道)の
市川広小路交差点に合流した。


広小路交差点の歩道橋を渡り、


千葉街道の反対側へ。


千葉街道をJR市川駅方面へ進み、


千葉街道を右に折れてJR市川駅へ。


14時32分、総武線市川駅直結のシャポー市川西側に到着した。
エスカレータは点検中で停止していた。
『ここは歩くしかないよねっ』


いろんな店が並ぶシャポー市川を通り抜け、


JR市川駅改札口へ向かう。


14時40分、市川駅総武線ホームに到着。
船橋方面への電車を待つ僅かな時間だが、普段あまり座らない人も、
この日ばかりは椅子に腰を下す。
さすがに今日は疲れた表情が見てとれた。
とは言うものの、自分もけっこう疲れた。
『皆さん、本当に今日はお疲れさまでしたぁ』

この後、船橋で東武線に乗り換え、柏から常磐線で帰路に就いた。

この日は、歴史と近代文学のみち(市川)を歩いた。
「文学の道」に紹介されていた市川ゆかりの歌人・俳人・小説家などの
多さに正直言って感心した。
川柳作家なども紹介されていたのには、びっくりした。

歌人・俳人・小説家などの歌碑や句碑なども多く、とても一日では
回り切れるものではない。
別の機会を探る必要があると思った次第。

手児奈霊神堂、弘法寺、下総国分僧寺跡、下総国分尼寺跡と云った
歴史的な建造物の他、掘之内貝塚公園、蓴菜池緑地、里見公園など
緑も豊かで、なかなか素晴らしいコースだと感じた。

この日の万歩計は、22,000歩を少し超えていた。
当会としては、久しぶりの20,000歩超えである。

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