ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道 第Ⅲステージ第2回 吉田宿~藤川宿(2日目)

2018年06月04日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年6月4日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第2回(2日目)は、赤坂宿(名電赤坂駅)~藤川宿(藤川駅)である。

2日目の朝(ホテルからの景色)を迎えた。
今日も良い天気だ。


7時頃に前回と同じような内容の朝食を摂り、


8時ちょうどに豊橋駅に到着した。


豊橋駅から名鉄特急に乗り、


最初の停車駅国府駅で普通電車に乗り換え、2つ目の名電赤坂駅で降りる、
つもりだったのだが・・・


乗り換える電車を間違えて、普通ではなく準急に乗ってしまい、
名電赤坂駅を通り越して2つ先の本宿駅まで行ってしまった。


本宿駅で豊橋方面の伊奈行普通電車に乗り換えて、


名電赤坂駅に到着した時には、9時18分を回っていた。
なんと50分近くタイムロスしてしまったことになる。


国道1号を横断して赤坂宿の本陣跡へ向かう。


9時27分、赤坂宿本陣跡前の赤坂紅里交差点に到着。
ようやくこの日のスタートとなった。


昨日見た旅籠尾崎屋、


続いて旅籠大橋屋、


休憩所「よらまい館」を通り過ぎ、


旧い家を過ぎると、初めて見る景色になった。


宮路山への分岐点に十王堂跡と書かれた木柱と


常夜灯が建てられていた。


豊川市立音羽中学校を過ぎて、


旧東海道を進む。
この辺りはなんの変哲もない普通の道である。


時折現れる連子格子の旧い大きな家に目を奪われながら進む。


9時50分、大永山栄善寺の標柱前を通過
大日如来 弘法大師御自作とある。
特に立ち寄ることはしなかった。


八王子橋の手前に、


一里山庚申道と書かれた道標があった。


音羽川を渡り、


国道1号と音羽蒲郡ICに(から)接続(分岐)する県道73号下を潜ると、


一里塚跡を示す木柱が立っていた。


日本橋から77番目の長沢一里塚跡である。
塚などは何も見当たらない。


長沢一里塚跡から150mほど進むと長沢小学校があった。


長沢小学校の角に長沢城跡の説明板が。
長沢は東西三河の境目にあり、両側から山が迫る地形で、
中世において戦略上重要な位置であった。
長沢城は東西約200m、南北約250mに及ぶ大規模なものであった。
現在は宅地化されて堀の一部をわずかに残すのみ。
寛永十一年(1634)家光上洛の時に休憩所として建てられた御殿が
長沢小学校敷地内にあった。


家光上洛の時に休憩所として建てられた御殿があったとされる
10時15分、長沢小学校の校門前を通過


専願寺と書かれた札が貼ってあったのでお寺だとは思うが・・・
何かを祀るお堂であろうか。


旧街道を進む。


村社嶺神社の標柱と秋葉山常夜灯


旧街道を進む。


寺の跡のような感じだが・・・


奥に観音像がひっそりと佇んでいた。


常夜灯を過ぎ、


10時36分、国道1号に合流した。


国道1号を本宿を目指して進む。


国道1号の向こう側を時折名電が走る。
しばらく国道1号と名電の並行が続いた。


11時1分、岡崎市に入った。


11時2分、本宿の東入口に到着。


国道1号側道にある冠木門を潜って、


本宿へ向かう。
道路が分岐している所から本宿になる。


本宿入口
江戸方の旧道入口には解説板や現代の道標が設置され旅人を迎える。
本宿は、法蔵寺の門前町であるが、赤坂宿と藤川宿の中間に位置し、
間の宿としての役目もあった。


宝蔵寺門前の旧い家を眺めながら進むと、


11時16分、左手に宝蔵寺が現れた。
来迎橋の向こうに山門が見える。


朱色の来迎橋で、


鉢地川を渡ると、


法蔵寺山門だ。


山門をくぐると、鐘楼門への石段横に賀勝水がある。
日本武尊が東征の折、勝利を祈願し鉾で岩を突くと
冷泉が湧き出したという伝説の湧水である。


石段を上り、


法蔵寺鐘楼門を潜ると、


正面に二村山法蔵寺本堂が。
浄土宗西山深草派、三河三檀林の一寺で、本尊は阿弥陀如来。
大宝元年(701)行基による開基と伝わり、当初は出生寺と称し、
法相宗、後に空海が訪れ真言宗に改宗したという。


室町時代初期に徳川家の始祖、松平親氏が伽藍を建立、以来松平家の菩提寺となった。
徳川家康が幼少の頃この寺で勉学をしたとされ、徳川ゆかりの宝物が
数多く残されている、とのこと。


本堂横にイヌマキの巨木がある。
胸高囲2.44m、根囲4.67m、樹高12mに達する。


本株は、樹勢が優れ、樹形は極めて優美。
根本近くの幹には腐朽による空洞があり、樹齢は古いと推定される。
行基菩薩が開山の際に植えたという伝承があり、「行基開山の槙」と称されている。
岡崎市の天然記念物に指定されている。
(岡崎市教育委員会)


法蔵寺六角堂
寺伝によれば、弘法大師建立とある。
本寺聖観音像は平安末期の作と云われている。
嘉慶二年(1388)龍芸が再建した。
堂内安置の六観音像もこの頃の作である。


新撰組隊長近藤勇首塚の案内表示に従って坂を上ると、


法蔵寺の墓地の一角に、新撰組隊長近藤勇の首塚(右側)があった。
後年その左横に胸像が建てられている。


近藤勇首塚の向かい側に三方ヶ原の合戦忠死者の墓があった。


三方ヶ原合戦忠死者の墓より一段高い境内の高台に、東照宮が建立されていた。
創建は江戸前期で、本殿入母屋造り、銅板葺。
現在の東照宮は、平成11~12年に修覆されたもの。


東照宮から法蔵寺全景が見渡せる。


石段下から東照宮を見たところ。


法蔵寺境内入口には家康公手植えと伝わる御草紙掛松がある。
”御茶屋の松”や”御腰掛の松”の別名も。
現在の松は平成18年(2006)植樹の4代目、とのこと。


11時36分、旧街道に戻り、大正九年十月架換の親柱が残る、
宝蔵寺橋で鉢地川を渡る。


本宿陣屋跡と代官屋敷説明板には、次のように記されている。
元禄十一年(1698)旗本柴田出雲守勝門(柴田勝家の子孫)が
知行所支配のため、本宿村に陣屋(代官)を設けた。
以来、明治に至るまで存続した。
陣屋代官職は本宿富田家が世襲し、現存の居宅は文政十年(1827)
の建築である。


案内板に従って左側の坂を上って行くと、
陣屋跡と思しき所に近代的な建物があり、


陣屋跡の右方50mほどの所に代官屋敷らしき建物があった。
文政十年(1827)の建築とあることから、凡そ180年前に建てられたもの
ということになる。


代官屋敷前に蔵があったが、これも相当古そう。


代官屋敷の後方に代官職を務めたとされる富田病院があった。


11時53分、旧街道に戻って本宿方面へ進む。
旧い家だが、しっかりとした造りである。


景観重要建造物の認証が貼られていた。
アイチ味噌溜本舗とある。
岡崎市の景観重要建造物は、岡崎城天守・六供配水場配水塔・旧石原家住宅・
旧野村家住宅(米屋)・カクキュー八丁味噌・まるや八丁味噌・本光寺に続いて
8件目の指定となり、本宿地区内のまちなみ景観の核として、将来にわたり
保全されることになる、とのこと。


常夜灯


現代的な建物の前に十王堂(閻魔堂)の説明が。
玄関ガラス扉から十王像がのぞけます、とあったので、覗いてみると、


十王像と本尊の木造地蔵菩薩坐像が鎮座していた。
本尊は鎌倉期の作で岡崎市の文化財に指定されている。


12時0分、本宿一里塚跡
日本橋から78番目の一里塚


本宿一里塚跡まで来たところでちょうどお昼になった。
この日は、弁当は持参していない。
途中の店にでもと思って、近くを並行している国道1号に目をやると、
「うどん得得」の看板が見えた。


さっそく国道1号を横断して「うどん得得」へ。


野菜たっぷりうどん(842円)を注文した。


12時45分、本宿一里塚跡まで戻って旧街道を進むと、
宇都野龍碩(うつのりゅうせき)邸跡と長屋門があった。
宇都野氏は宝暦年間(1751~63)三代立碩が本宿村に開業したのが始まり
と云う蘭学医家であった。


七代龍碩はシーボルト門人の青木周弼に医学を学んだ蘭方医として知られている。
安政年間(1854~60)感染力の強さと致死率の高さで恐れられた伝染病(天然痘)
の予防接種として植痘瘡(種痘)を施した。
当時にあっては画期的な医療だったという。


本宿西棒鼻手前に数本の松が残っている。
かつての松並木の名残なのだろう。


本宿西棒鼻
本宿京方(西側)出入口になる。
「右東海道 左国道1号」と刻まれた道標が立つ。


12時50分、本宿西棒鼻の先で国道1号に合流した。


国道1号と名電が並行する。


しばらく国道1号が続く。


左手に山中八幡宮と刻まれた石柱と赤い鳥居が見えた。
文武天皇の代にこの地に山中光重という者がおり、八幡大神を厚く尊信し、
悪夢を感じ神霊を迎えて奉祀したのが創立由来とされている。


国道1号沿いに建っているのはホテルのようだが・・・
他に建物がないので、ひときわ目立つ。
(後で調べるとホテル アントワネットだった)


ホテルの直ぐ隣に山中八幡神社の鳥居があった。
先ほど見えた赤い鳥居とは対照的である。
旧山中郷の郷社である山中八幡宮は、創建千年以上(律令政治時代)とも云われ、
また古墳の跡とも云われている。(中略)
三河一向一揆の際、身を隠して助かった徳川家康公由縁の神社としても有名である。
(現地説明板)


国道1号と名鉄名古屋線の向こう側に見えるのは、名鉄舞木検査場だ。


名鉄舞木検査場を見ながら進むと、道が分岐していた。
藤川宿入口だ。左側の側道を進むと、


13時32分、藤川宿東棒鼻跡に到着
棒鼻とは、宿場の出はずれ、すなわち出入口のことである。
東にあるため「東棒鼻」と呼んでいる。(中略)
とにかく、現在、藤川宿と言えば棒鼻と言われるくらい、
藤川宿の象徴となっている。
(藤川宿まちづくり研究会)


是より西藤川宿とある。
藤川宿は、江戸から数えての38番目の宿場である。
天保十四年(1843)の記録によると、家並みの長さ約1Km、戸数302戸、
本陣と脇本陣各1軒、旅籠屋36軒、宿内人数1,213人であったと云われる。


道が2つに分かれている。


この石垣のある路は曲手入口なのか? それにしては細い路である。
案内表示が見当らない(見落とした?)ので、右手を進む。


秋葉山常夜灯があった。
こちらが本来の街道なのだろうか?


左側に東海道の表示が。
藤川宿曲手(かねんて)と思われる。
曲手とは、直線状に来た道を直角に右(左)に曲がり、また左(右)へと
クランク状に曲がる道をそう呼んだ。
別名「桝形」とも言われている。
先ほどの石垣の間の径はやはり直進すべきだったのだ。


藤川宿の旧道を進む。


連子格子の旧い家が続く。
旧街道の雰囲気が感じられる。
(市場町格子造りの家並)


津島神社の標柱と常夜灯


常夜灯の横に建つ市場町公民館(旧市場公会堂)
建設竣工は大正六年七月、現在は、津島神社の境内にあり、
社務所を兼ている、との説明が。


津島神社の方へ向かって細い径を進むと、旧山中郷々蔵があった。
飢餓・救済を主とした非常時の蔵、だそうだ。


大正の始め、祭礼に使われていた立派な山車が解体廃止となり、
その足跡を残すため、山車の木材を、蔵の桁・梁に使い、
往時の山車の大きさと規模を残している、とのこと。


津島神社の鳥居は名鉄の線路の向こう側にあった。
ここから先は行けそうにないので諦めた。


旧街道に戻って進む。


連子格子の古い家


人形処粟生(あおう)人形工房前を通過
城郭のような建物である。


13時51分、称名寺入口の表示があったので、路地を入ってみる。


称名寺本堂
浄土宗西山深草派の寺院である。
正式の名称は、山号を「巌松山」、寺号を「柳田院称名寺」と称する。
ご本尊は高さ86.5Cmの阿弥陀如来坐像だが、
堂内には十一面観音もお祀りされている、とのこと。


本堂右脇に白い象があった。
ロープが付いている台車に乗ってるのを見ると、この象を引き回すのかな。
称名寺と象はどういう関係があるのだろう?


称名寺鐘楼


藤川宿問屋場跡
藤川宿の問屋場は、ここ宇中町北にあった。
問屋場は、宿場町では、最も中心となった場所で、人馬の継ぎ立て(伝馬)、
書状の逓送(飛脚)などの業務を行う所だった。
藤川宿では、ここを御伝馬所とも称していた。


しっかりとした造りの旧い家があった。


景観重要建造物の認証が貼られていた。
旧野村家住宅(米屋)とある。
岡崎市指定の景観重要建造物の一つだ。


14時11分、高札場と藤川宿本陣跡に到着


藤川宿の高札は六枚現存しており、その全てが正徳元年のもので、
岡崎市の文化財に指定されている、とある。


本陣跡
藤川宿本陣は宇中町北にあり、藤川宿の中心だった。
藤川宿本陣は、もともとは2軒であったが、退転(落ちぶれること)
を繰り返し、江戸時代後期には森川久左衛門が務めていた。


本陣跡の先に脇本陣跡があった。
現存する門は、関ケ原の戦いの後に藤川へ移住したと云われる
大西喜太夫(橘屋)のもので、一部修理も施されているが、
昔日の名残をよく留めている。
(岡崎市教育委員会)


門を潜ると、藤川宿脇本陣跡の碑があった。


藤川宿脇本陣跡説明
脇本陣は、本陣の補助的な役割として設けられた宿舎で、
本陣に空きがないときには、本陣に準じて用いられていた。
脇本陣を営むことができたのは、本陣家に次ぐ名望家で、
江戸時代後期に営んでいたのは大西喜太夫で、橘屋と呼ばれていた。
(岡崎市教育委員会)


奥に藤川宿資料館があったが、あいにくこの日は休館日。
残念至極


旧い家


14時19分、藤川小学校を通過


芭蕉が詠んだ「むらさき麦」に因んで、地元の人が「むらさき麦」を栽培している。
5月中旬から下旬にかけて茎や葉、穂がほのかな紫色に染まるところから
「むらさき麦」と呼ばれている。
俳人・松尾芭蕉は「爰も三河 むらさき麦の かきつはた」の句を残した。


14時20分、藤川小学校前の藤川宿西棒鼻に到着


藤川宿西棒鼻跡
歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を
参考にして復元したもの。


是より東藤川宿の標柱


歌川広重の師匠である歌川豊広の描いた浮世絵の中にある狂歌
藤川の 宿の棒鼻 みわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし


藤川宿西棒鼻跡の先に建つ十王堂
十王堂は10人の王を祀る堂で、その王とは冥途(死者の魂の行くところ)にいて、
亡者(死んだ人)の罪を裁く10人の判官を言う。


中には10人の王が並んでいた。


十王堂の隣には、松尾芭蕉の句碑もある。
爰も三河 むらさき麦の かきつはた はせお」
これは名物「むらさき麦」を詠んだもの。


この日は、藤川宿西棒鼻跡までとし、是より先は次回にしたい。


ということで、名鉄藤川駅へ向かった。


14時38分、名鉄藤川駅に到着


15時28分、豊橋駅に到着し、新幹線「こだま号」で帰路に就いた。


この日富士山を見ることは出来たが、やや霞んでいた。


第Ⅲステージ第2回目(吉田宿から藤川宿)の2日目(赤坂宿から藤川宿)を
歩き終わった。
出端から国府で乗り換える電車を間違ってしまい、大きく時間をロスしたが、
その後は、特に問題なく歩くことが出来た。
赤坂宿~本宿~藤川宿と間の宿も含めて3つの宿場に跨ったことから、
見どころが多かった。
それぞれの宿場に特色があって、楽しめた一日だった。
次回は、岡崎宿から池鯉鮒宿へ向かうことになるが、どのような景色が
見られるのか、今から楽しみである。

この日の万歩計は、25,000歩を計測していた。

旧東海道第Ⅲステージ第2回 吉田宿~藤川宿(1日目)

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