ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

真鍋小~木田余運動広場コース(土浦)

2017年02月10日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年2月10日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第35回(2017年第6回)、「真鍋小~木田余運動広場コース
ウォーキングに参加した。
この日の「真鍋小~木田余運動広場コース」は、土浦市で8つ指定している
土浦元気アップロード」の一つで、当会としては初めてのウォーキングとなる。

この日のスタート&ゴール地点土浦ピアタウン
8時40分頃から参加者が三々五々集まり始め、


9時頃にはその数32名。
やはり近場ということが参加し易いということなのだろう。


Oさんの掛け声で準備体操だ。
『大きく背伸びをして~っ』


『腰を下して前足に体重をかけて~っ』


準備体操が終わり、9時24分、折り返し点の木田余(きだまり)運動広場目指して出発!
この日は地元のTさんが先頭を務める。


後に続く皆さん。


ピアタウン前の国体道路を横断し、車の多い真鍋東通りは避けて、一つ裏の通りを進む。


右手小高い岡の上に見えるのは土浦第二中学校か?


東真鍋町児童公民館入口と書かれた標識を右に曲がり、


真鍋東通りを横断して、緩やかな坂道を上る。


梅の花
『もう直ぐ見頃を迎えそうねっ』


旧い形の四脚門の前を通ると、


坂道の勾配が急になってきた。


『ちょっときついけどまだまだへばる訳にはいかんっ』
昨年傘寿を迎えて益々元気な会長だ。


坂を上り切った処を右に曲がる。


住宅地を進む。


「まなべすみれ幼稚園」の横を通り、


コンビニ前を抜けると、


国体道路に出た。


レギュラーガソリンが1リットル112円は、安いのだろうか?
昨年8月にハイブリッド車に替えてから、ガソリンスタンドに行く機会がめっきり減った。
その頃は1リットル126円前後していたように記憶している。


浅間台高架橋を進む。


下を走るのは国道354号だ。


高架橋を過ぎると、スナック・パブなどの看板が目だって来た。
ここ何年も足が遠ざかっている店である。


「珍来木田余店」を斜め前に見る交差点に到着した。


『向いにあった「ココストア」がなくなっちゃねっ』


道路を横断し、住宅地の中を進む。


さらにいくつかの角を曲がり、


住宅街を進むと、


10時5分、鹿島神社に到着した。
『意外と早く着いたねっ』
ピアタウンを出発して45分余りが経過していた。


鳥居を潜って参道を進み、


手を洗い清め、


鹿島神社に参拝!


境内には他にも八坂神社や、


愛宕神社などが合祀されている。


参拝の後、小休止。


軽いお茶タイムだ。


小休止の後、折り返し地の木田余運動広場へ向かう。


木田余運動広場へ。


10時21分、木田余運動広場に到着
木田余運動広場はグラウンドがあるだけで見所がある訳ではない。
ここで、折り返してピアタウンへ向かうというのは何か物足りない。
この近くに青麻神社があるというので、行ってみることにした。


木田余運動広場脇を通り、


坂道を下り青麻神社を目指す。


『あらぁ ここは見晴らしが良いわねぇ』


土浦市街地と霞ヶ浦方面を望む。
遠くに牛久大仏も見える


細い坂道を下ると、県道141号に出た。
右に見えるのは、国道354号に繋がる木田余BP西入口交差点だ。


県道141号を左に折れ、青麻神社を目指す。


10時32分、青麻神社(あおそじんじゃ)に到着。


山門を潜る。


山門には請願の御祈祷各種が貼ってあった。
その中に”八方ふさがり祈願”という祈願があった。
周囲八方を塞がれた年を「八方ふさがり」の年と言うそうである。
一年が平穏無事であるよう”八方除け”の祈願を行っている、とある。


左端に平成29年の八方除・方除の表があった。
八方塞がりの対象として、一白水星で昭和20年生まれが入っている!
”八方塞がり”になったらまた来ることにしよう・・・


山門を潜ると、正面に青麻神社の拝殿がある。


青麻神社に参拝
『土浦に長年住んでるけどこの神社は初めて』と言う人が殆どだった。
自分も初めてである。


拝殿の中は厳かな雰囲気に包まれていた。


山門を中から見たところ。
『今まで見たことがない形をしてるよねっ』
『本殿のような形だねっ』


青麻神社を後にして、


県道141号を左に進み、直ぐ左に折れる。


『良い香りがするよっ』
『もう直ぐ見頃を迎えそうねっ』


坂道を上る。


坂道を上ると、


木田余運動広場(左)に戻ってきた。
木田余東台1町目を一周した感じである。


鹿島神社に隣接する広場の真ん中を通り抜け、


某有名企業の研修棟横を通り、ワークヒル土浦へ向かう。


某有名企業の研修所
『立派な建物なのに売りに出されてるんだっ』


10時51分、ワークヒル土浦に到着


ワークヒル土浦のロビーでしばし寛ぐ。


『そう言えばもうすぐひな祭なんだよね~っ』
皆さん、お孫さんのことを思い出すのかもしれない。


アスレチックジムではマシンのウォーキングで汗を流していた。
『外を歩くのが一番なんだよな~っ』


11時3分、ワークヒル土浦を後にする。


住宅地を抜けると、


国体道路へ出た。


しばらく国体道路を進み、


浅間台高架橋を渡る。


浅間台高架橋から国道354号木田余BP方面を望む。
『ここからの見晴らしの方が良いわねぇ』


国体道路をそのまま進み、ゴールの土浦ピアタウンを目指す。
Oさんは、この日は後方担当に徹している。


国体道路の脇階段を下る。


階段を下ると、


ピアタウンはもう直ぐだ。


11時30分、ゴールのピアタウンに到着。
青麻神社まで足を伸ばしてこの時刻にゴールできたのは、
弁当無しの例会としては、上出来ではなかろうか。


最後にOさんの号令で整理体操だ。


整理体操
『足を踏ん張って腰を下して~っ』


『最後に深呼吸~っ』

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

この日歩いた「真鍋小~木田余運動広場コース」は、土浦市で8つ指定している
土浦元気アップロード」の一つで、これで全てのコースを歩いたことになる。
市街地で、距離もさほどないため歩き易いコースだった。
コースにはなかった青麻神社まで歩いたが、却って変化が出て良かったように思う。

この日の万歩計は、11,000歩を少し超えていた。
「土浦元気アップロード」では、7,700歩余と紹介されていたが、
スタート・ゴール地点が異なったことと、青麻神社まで足を伸ばしたことで、
11,000歩となった。

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旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第6回 掛川宿~浜松宿(2日目)

2017年02月07日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2017年2月7日(火)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第6回目は、掛川宿(JR掛川駅)~浜松宿(JR浜松駅)を
2日間かけて歩いた。
2日目は、見付宿から浜松宿までの約15Kmを歩いた。

ホテルの朝食
野菜を中心に和食にした。


7時57分、ホテルを出発!
今日も風が強い。


コンビニで風除け用にとマスクを購入。
まともに風が顔に当たるのを防げるので寒さ凌ぎにもなるだろう。


8時13分、磐田北小学校前を通過し、


8時18分、県道86号と宿場通りの交差点に到着。
昨日の続きである宿場通りを右に進むと、直ぐに見付宿の標識があった。
この辺りが見付宿の中心だったようだ。


見付宿の標識の裏手に旧見附小学校があった。
学制発布後まもない明治八年(1875)に落成した現存する日本最古の
洋風木造小学校校舎である。
当初は4階建てだったが、明治16年に増築されて今の5階建てとなった。


旧見附小学校の隣に淡海国玉(おうみくにたま)神社がある。
遠江国の総社であり、本殿・幣殿・拝殿からなる。
創立年は不詳であるが、平安時代の貞観年間(759年~877年)に創立されたと伝えられ、
「延喜式」に記録される神社である。


淡海国玉神社の門を潜ると、


拝殿がある。
御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと
古来より遠江国の総社として広く崇敬されている。
総社とは国司が国内(遠江国)の神社を巡拝するのに便宜をはかり、
総社をお参りすれば国内(遠江国)のすべての神社をお参りしたのと同様とされた。
つまり遠江の各神社の神様が祀られているということになる。


見付宿脇本陣大三河屋門
大三河屋は初めは旅籠屋だったが、文化二年(1805)に脇本陣となった。


この門は、2本の本柱上に冠木を渡し、その上に梁と切妻屋根を載せている。
武家や商家の屋敷の門には棟門が使われるが、脇本陣の玄関を飾るためか、
小さいながら薬医門の形をした門である。


姫街道追分
姫街道は、東海道見付宿と御油宿を結ぶ東海道の脇街道である。
浜名湖の北側、本坂峠を越える道で、本坂道・本坂通りとも言う。


追分の道案内表示
府八幡宮0.8Kmとある。


府八幡宮方面へ進むと、歩道に木戸跡と書かれた看板が。
この位置に木戸があったということだろうか・・・


加茂川を渡り、ひと際目を引くのがこの表門である。
これは徳川家康が「別荘」として中泉村に築かせた中泉御殿の門を
移築したものと伝えられている。
もともとは城門の一種といわれる総欅造りで、素朴な建築美を湛え、
市内に残る代表的な江戸時代の門として、昭和57年(1982)11月、
市の文化財に指定された。


表門の脇を進むと寛政元年(1789)建立の山門(鐘楼堂)がある。


階段を上ると時宗の宗祖一遍上人像が建てられている。
『よろず生きとし生けるもの 山河草木 吹く風立つ波の音までも
念仏ならずと言うことなし』


山門を潜ると、右側に楠の巨木が現れる。
樹高18m、根回り13.7m、胴回り7.5m、推定樹齢500年という老大樹で、
そのばかでかさに圧倒される。


今なお樹勢は極めて旺盛で、保存状態もよく、昭和57年(1982)11月、
市の文化財(天然記念物)に指定された。


この梛(なぎ)の木は、マキ科の常緑高木で、幹が堅く、直立して3m以上になる木で、
葉は楕円形で先が鋭く尖って厚く、多数の埋もれた脈が縦に平行しているため
横には切れにくゝなっている。
そのためか、昔婦人がこの葉を鏡の裏に入れておき、男性と縁が切れない
おまじないにしたとか、弁慶が力自慢にこの葉を千枚重ねて横に切ろうとして
失敗した・・・という話も残っている、そうである。
昭和57年(1982)11月、隣の楠とともに市の文化財(天然記念物)に指定された。


東福山西光寺
このお寺は東福山西光寺と言い、阿弥陀如来をご本尊とする時宗の古刹である。


本堂内部
文永二年(1265)真言宗の傾木和尚によって創建されたが、
建治・弘安年間(1280年前後)この地を訪れた時宗の開祖である
一遍上人(1239~89)を迎えて改宗し、時宗の修業道場となった。


本尊の阿弥陀如来像


日限地蔵(右)と薬師如来坐像(左)


日限地蔵尊は、江戸時代の元和年間(1615~1624)に
東福門院(2代将軍徳川秀忠の娘・源和子)が寄進したもの。
昔から霊験あらたかな尊像として信仰者が多く、11月14日の大祭及び
毎月14日の例祭には多くの参拝客で賑わう、そうである。


薬師如来坐像
遠江四十九薬師霊場第48番札所として、病気平癒を願う人々の
篤い信仰を受けている、とのこと。


加茂川橋の傍に西木戸跡のモニュメントがあった。
往時は、加茂川橋に西木戸があった。


西光寺を後にして県道44号(旧東海道)を進むと、遠江国分寺跡があった。


この手洗石は、今から1250年前の奈良時代に聖武天皇の勅願で建立された
国分寺の礎石をくり抜いて作られたもの。(説明板)


遠江国分寺は、遠江四十九薬師霊場の一番札所でもある。


ここ遠江国分寺は、昭和26年(1951)に全国の国分寺調査に先がけて発掘調査が行われ、
昭和27年(1952)国指定の特別史跡(国宝と同格)となった。
国分寺は金堂を中心に七重塔・講堂・中門・回廊などの伽藍が配置されていた。


金堂跡
金堂は、本尊を安置した主要な仏殿である。
礎石及び根石から間口27.6m、奥行14.4mの重層入母屋瓦葺であったと推定される。
(案内板)


講堂跡
堂舎・僧坊・経蔵・食堂・政所・鐘楼など
講堂の周辺に多くの建物があったと推定されるが、未調査のため不明。
(案内板)


塔跡
15m四方の基壇の上に、高さ66mに及ぶ七重塔が立ち、
紫紙金字の「金光明最勝王経十巻」が納められていたと推定される。
(案内板)


築地塀跡
国分寺の西境を表すもので、昭和の初め頃には南北270m、幅3m、高さ1mの
土塁状の高まりがあったと記録されている。
(案内板)


遠江国分寺の向いに府八幡宮がある。


奈良時代に桜井王が遠江国司として赴任した時、
国内がよく治まるようにと、建立したと伝えられている。
楼門は、嘉永十二年(1635)の建立。
入母屋造りの純和様建築の随身門で、静岡県指定文化財。


中門
嘉永十二年(1635)に建立、その後文化年間(1804~1818)に再建された。
楼門は純和様建築だが、中門は禅宗様式となっている。
磐田市指定文化財


拝殿付幣殿は、嘉永十二年(1635)に建立された。
正徳四年(1714)に再建され、今日に至っている。


拝殿内部
祭神は、誉田別命・足仲彦命・気長足姫命


本殿
元和三年(1617)に建立された。
三間社流造となっている。


武内社の御祭神武内宿禰(たけうちのすくね)は、
景行・政務・仲哀・応神・仁徳と五代の天皇に仕えた方で、
古来より長寿の神様として崇敬されている。
長寿すなわち永きに亘り、健康でボケる事無く活躍されたという故事により、
”ボケ封じの神様”とされているので、参拝して下さい、との案内がある。
授与所で「ぼけ封じ成す守」を授与している、とのこと。


磐田と言えばサッカーのジュビロ磐田のホームタウン。
ビル街の歩道には監督や選手の足型を見ることができる。


足型だけではなく、手形もある。


9時34分、磐田駅2つ手前の交差点を右折し、旧東海道を進む。


緩やかに上り下りする旧東海道が続く。


9時43分、中泉交流センター前を通過


9時51分、県道261号に合流し、振り返ってみたところ。
旧東海道(右側)のこの坂道を大乗院坂と云う、そうだ。
この坂道の途中に山伏の寺「大乗院」があった、とのこと。


県道261号に合流して直ぐ、左手に「くろん坊様」が祀られている。
黒棒大権現は、旧東海道筋で、現在地の西約100mの田んぼの中にあった祠を移したもので、
咳や熱病の神様とされている。
インド人の旅僧が、手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が
手厚く葬ったものと云われており、毎年11月3日が縁日とされている。


松の木が点在する。


10時3分、宮之一色一里塚跡に到着した。
日本橋から数えて63番目の一里塚である。


現在の一里塚は昭和46年に復元されたもの。


宮之一色秋葉山常夜灯
この常夜灯(灯籠)は、平成8年に部分改修された。
棟札から文政十一年(1828)に建てられたものと判明。
竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ、数ある灯籠の中でも大変貴重なもの。
風よけに灯籠の周りを板で囲み、上部は灯りが漏れるよう格子になっている。


「うなぎ屋」が現れた。
浜松と言えば”うなぎ”というイメージがある。
この日は、できれば”うなぎ”を食べたいものだが、
まだ10時13分、ちょっと早すぎる。
この日のゴール浜松駅に着いてからでも遅くはないだろう。


森下付近で道が二つに分かれていた。
何も標識はなかったが、左の道を進むことにした。


住宅地を進むと、「東海道と歴史の道」の標識があった。


「東海道と歴史の道」の標識の直ぐ先に郷社・若宮八幡宮があった。
明治時代に周辺の29の村社を合祀した郷社である。


若宮八幡宮の拝殿


拝殿内部
簡素だが、厳かな雰囲気が漂う。


若宮八幡宮の例大祭は、10月第2土・日曜日に行われる、とのこと。
土曜日には奉納相撲が行われ、日曜日には17台の山車が神社に集まる、そうだ。
さぞ賑やかなことだろう。


長森立場
江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には立場という、
旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていた。
明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の
休憩所となった。
浜松宿境まで二里十七町(9.7Km)とある。


木内建設㈱量産住宅遠州工場の前を右に曲がって進むと、


源平新田公民館の前に天竜橋跡の碑があった。
天竜川は、明治の初年まで渡船によって通行していたが、明治六年(1873)
架橋の第一段階として船橋の計画が出され、翌明治七年(1874)二月、
源平新田から中野町村に船橋が完成した。
明治九年になり、木橋に架け替えられ、昭和八年、国道に現在の鉄橋が完成した。


11時2分、天竜川の堤防に出た。


これが天竜川橋か、けっこう長い!
1000m以上はあるだろう。


県道261号が走る天竜川橋には歩道はなかった。
交通量も多く、これでは人が歩いて渡るのは難しい。


50mほど上流に国道1号が走る新天竜川橋があった。
こちらには立派な歩道があった。


11時6分、新天竜川橋を渡る。
向い風がめっちゃ強い。風速10-15mはあるだろう。
帽子は被らないで進むことにした。


新天竜川橋の真ん中を少し過ぎた辺り。
まだ先は長い。


対岸が近づいてきた。


11時20分、新天竜川橋を渡り終わった。
14分かかったことになる。
渡り切った所に小さな公園があった。


天竜川橋の歴史
明治9年から昭和8年までは「木橋」
江戸時代は渡船で往来していたが、その後小舟を並べて連結した「舟橋」が設けられ、
明治9年に「木橋」が完成した。


天竜川橋の歴史
昭和8年完成の天竜川橋
国道1号天竜川橋の渡り初めの写真。
それまで有料だった橋が無料で渡れるようになった。


そしてこれが現在の天竜川橋だ。


天竜川沿いに旧東海道が続いている。


横町通り
天竜川上流で切り出された木材は、「いかだ」に組まれて川を下り、中野町で陸揚げされた。
ここ横町通りは、筏師や帆掛け船の船頭さんが泊る船宿や銭湯・床屋・魚屋・小料理屋
などが立ち並ぶ、大変賑やかな通りだった、とのこと。


天竜川を渡った旅人は、六所神社から真っ直ぐ西へ伸びる東海道を京へ向かう。
その前に六所神社に参拝して行こう。


六所神社


天竜川の堤防に、舟橋跡・天竜川木橋跡の木柱碑があった。


中町通り辺りから六所神社方面を望む。
真っ直ぐな道である。


東橋
昔ここには小さな川が流れていて、東橋という土橋が架かっていた。
この橋から天竜川に至る東海道沿いには旅館や料理屋が軒を連ねていた、そうだ。


旧東海道を西に進む。


軽便鉄道軌道跡
説明板によると、
明治四十二年(1909)から、浜松~中野町の11駅間を走っていた。
「けいべん」と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで、
客車一両を引いて、家並みの軒先すれすれをのんびり走っていた、そうである。


かやんば(萱場)高札場と書かれた表示杭があった。
説明板の文字はすっかり消えていて、何と書かれているか全く読むことが出来ない。
新しいものに取り換えてもらいたいが・・・


松林禅寺
遠江四十九薬師の第八番札所である。
寅年に開帳されるので「寅薬師」と呼ばれる。
入口には鎖が張られており、工事中のため中には入れなかった。


金原明善翁(めいぜんおきな)生家
金原明善は天保三年に生まれた。
明治に入り「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川の治水・利水事業に
私財を投じ天竜川の治水事業に取り組んだ明治時代の実業家である。


金原明善記念館
明治大正に亘って一世の先覚者・事業家として、不朽の偉業徳行を実践した
天竜翁金原明善の業績を顕彰し、その遺風を永く後世に伝えるため設立された。
記念館には明善の遺品遺墨を始め、関係資料や明善と親交のあった人の
遺墨関係文書など、貴重な資料が数多く陳列保存されている。


本坂通(姫街道)安間起点
この地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと「□□(従是)鳳来寺」と
期された道標があり、本坂通(姫街道)が鳳来寺道でもあったことを示している。
この起点の西には江戸から64番目の安間一里塚が街道の両脇にあったが、
現存しない。


旧東海道(右)は県道312号(左)と合流。
(東の方を振り返って見ているので左右逆になっている)


安間川を渡り、


国道1号浜松BPを潜って進む。


この辺りの松並木は、何故か片側だけが多い。
枯れてしまったのか、道路拡幅工事で伐採されてしまったのか・・・


斜めに伸びている松の木の傍に立場跡の説明板が。
立場は宿場と宿場の間に設置された休息所で、旅人や駕籠かき、馬子が一休みした。
多くの場合茶屋があって、土地の名物を販売していた。
見付宿と浜松宿の間に置かれたここの立場には藤棚があり、
旅人の目を楽しませていたそうだ。


12時24分、浜松まで5Kmの地点を通過
天竜川駅まで左折して0.4Kmとある。


天竜川駅入口交差点を渡った道路右側に村社・六所神社が見えた。
道路の反対側だったので、写真だけにした。


12時半を過ぎ、少しお腹が空いて来た。
道路沿いのしゃぶしゃぶバイキング店や、


牛丼屋、うどん屋などの看板が気になりだした。
しかし、この日は”うなぎ”を食べることに決めているのでここは我慢。


12時45分、浜松アリーナ前を通過


植松原の標識を過ぎ、
国道152号と合流する子安交差点を左折し、50m先をさらに左に折れると、


12時59分、子安神社に到着した。
当地の庄屋伊藤家の祖先が寛永十二年(1635)浅間神社の分霊を祭り、
家の守護神としたことに始まるが、


伝説には源範頼が娘の無事出産を願って創建した話が残されている。


13時14分、浜松市街まで3Km地点を通過


芳川に架かる琵琶橋を渡り、


13時30分、浜松東警察署を通過し、


東鎧橋を渡ると、


浜松駅まで2Kmの表示が。
間もなくゴールだ。


旧掛塚街道入口と書かれた木柱を過ぎ、


馬込橋を渡ると、


浜松宿外木戸跡と書かれた木柱があった。
家康が長年住みなれた浜松城を去り、馬込橋を渡り駿府城に向かう時、
なごり惜しんで何度も浜松城を振り返ったという。
この辺りにあった見返りの松は、大正十年(1921)の火事により
焼失してしまったそうだ。


高層ビルが多くなり、浜松市の中心街に入ったことを実感する。


浜松駅入口の国道152号板屋町交差点を左折し、


広小路を浜松駅へ向かう。


左にアクトシティ、右を見ると、


浜松駅ビルのメイワンが迫る。


13時58分、浜松駅に到着した。


浜松駅東口で見つけた創業明治42年の老舗うなぎ屋は、
何と閉店していた。


”うなぎ屋”を求めて駅南側のガード下へ行ってみると・・・
”うなぎ”の文字が。


「丸浜」と言う”うなぎ”専門店だった。
『良かったぁ これで”うなぎ”が食べられる』一安心である。


先ずは生ビールを注文。
お腹が空いて、疲れもあったので、殊の外美味かった。


うな重竹(2600円)を注文した。
久しぶりのうなぎ、本当に美味しかった。


帰りの新幹線から見えた掛川城


この日の富士山は、最高の姿を見せてくれた。
『ありがとうっ 富士山っ』


この日は、見付宿から浜松宿までの約15Kmを歩いた。
正面からの強風に悩まされながらも天竜川を無事渡ることができ、
ほっとしている。
その一方、見処がたくさんありすぎ、中には見落としてしまったものもあり、
その点が悔やまれる。

この日の万歩計は、32,000歩余を計測していた。

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旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第6回 掛川宿~浜松宿(1日目)

2017年02月06日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2017年2月6日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第6回目は、掛川宿(JR掛川駅)~浜松宿(JR浜松駅)を
2日間かけて歩いた。
1日目は、掛川宿から見附宿までの約16Kmを歩いた。

常磐線が6分ほど遅れて上野に到着したが、東京駅7時3分発の「ひかり461号」
には何とか間に合った。


この日の天気は申し分ないようだが、風が強いとの予報。


静岡駅で「ひかり461号」から「こだま633号」へ乗り換える間に、
新幹線ホームの「東海軒」で駅弁を購入。
数は少ないが、全体的に東京駅より安い感じ。


8時46分、掛川駅に到着
この日は風が強い。時折吹く強風で帽子が飛ばされそうになる。


右手にデジカメ、左手に駅前のコンビニで買ったホットコーヒーを持って、
8時55分、掛川駅を出発!


連雀西交差点を左に折れ、旧東海道を進む。
まだほとんどの店は開いていない。


民家のような造りの清水銀行掛川支店


山内一豊と妻千代の浮彫刻絵
由来には以下のように紹介されている。
天正十八年、掛川城主だった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。
若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が秘かに蓄えた黄金をもって、
願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。
後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、
連綿として城主としての家系を守った。(清水銀行)
2006年のNHK大河ドラマ『功名が辻』の記憶が蘇える。


円満寺の境内に現在も残っている蕗の門(額は富貴門)は、
掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門で、
大手門・仁藤門などと二の丸につながる道筋にあったので、
小さいが重要な門だった。
廃城後の明治五年(1872)に円満寺が買い受けて移築した。


円満寺本堂
掛川城内にあった円満寺は、一豊による掛川城の大改修のために
現在位置へ移された。
現在の本堂は寺とは思えない作りである。


県道37号を右に曲がった所に成田山東光寺があった。
山門前の碑には「成田山 遥拝所」と刻まれている。


山門を潜って行くと、医王山東光寺という小さな寺がある。
養老年間(720年代)に、僧の行基により開基された真言宗の草庵で、
天慶の乱(940)後、将門等の首級をこの地に葬った時、
将門の念仏である薬師如来を寺の本尊として草庵に祀り、平将寺を建立した。
天文年間(1530年代)に曹洞宗に改宗し、東光寺になった。
その後、兵火で燃失したが、慶応三年(1867)に、一堂を建てたのが現在の建物、
とのこと。 


街道へ戻って進むと、十九首塚への案内標識があった。


2つ目の案内標識に従って進むと、


9時27分、住宅地の裏に十九首塚があった。
天慶三年(940)の天慶の乱の時に、藤原秀郷らの一行に滅ぼされた平将門と、
18人の武将の首級が埋葬されていると言われている。


平将門の乱を平定した藤原秀郷は、将門ら19人の首級をもって、
東海道を上るが、朝廷の派遣した勅使がこの地で首実検を行い、
賊徒の首を都に近づけてはならない、という朝廷の命令を伝えたため、
秀郷はその首をこの地に埋葬し、19基の塚を作った、という。

 
当時、19基あった首塚も時代の流れと共に年々数が少なくなり、
平将門のものと云われる大きな塚1基だけが残された。
地元民が18基の首塚を復活させたいと、新しく整備された十九首塚史跡公園に
19基の首塚が完成した。


街道に戻り、逆川に架かる逆川橋を渡り、


二瀬川交差点を左折し、県道415号を進む。


倉真川に架かる大池橋を渡ると、


9時46分、大池橋の標識がある。
大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、
長さ29間余(約52m)、幅3間1尺余(約5.7m)の土橋と記されている。


大池橋の標識を左に折れ、街道を進む。


天竜浜名湖線ガード下を潜って、


道なりに進むと、


右手に白山神社があり、


10時6分、その直ぐ隣に大光山宗心寺があった。
元は法多山尊永寺の末と伝えられ、現在は日蓮宗だが昔は真言宗であった。
掛川では最も古いお寺のひとつと云われる。


蓮祐寺の手前に大池一里塚跡の碑が立っていた。
大池一里塚は、日本橋から59番目の一里塚だ。
街道両脇の塚は宅地化されていて今は一里塚の影も形もない。


一乗山蓮祐寺
境内右手にあるお堂の備品を綺麗に掃除をしている最中だった。


掃除している脇を通り、本堂にお参りさせてもらった。


街道を進むと、松並木が現れた。


さらに進むと、煙突のある大きな建物があった。
造り酒屋でもあったのだろうか?


沢田南IC交差点で国道1号線を潜り、


国道1号線沿いの側道を進み、


さらに東名高速道を潜るようにして、街道は続いている。


垂木川に架かる善光寺橋を渡ると、


10時40分、右手に善光寺如来の門柱と、


その右には”東海道之真中 仲道寺”と刻まれた門柱が立っている。
善光寺は、東海道の中間点に位置し、仲道寺とも呼ばれている。


石段を上ると善光寺如来堂があった。


如来像は見えなかった。


善光寺如来堂の右奥に夏涼山仲道寺の門がある。


門を潜ると仲道寺本堂が。


仲道寺本堂の内部はとてもカラフルである。
お参りを済ませ、しばし休憩にする。


10時56分、仲道寺を後にして街道へ戻ると、松並木が続いていた。


松はそれほど古くはないが、趣がある。


東海道松並木の碑の最後に、
「松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、ここ岡津~原川間で
僅かに残っているだけ」とある。
松食い虫に有効な防虫剤などはないのだろうか?
多少金はかかるかもしれないが、枯れてしまったら、お終いである。


東海道原川松並木の標柱


金西寺
原川薬師と呼ばれた金西寺阿弥陀仏には、
供えるための薬師餅を売る茶屋や酒屋などが軒を連ねていたとある。
文化・文政頃の集落戸数は、四十六軒を数えたという。


金西寺の境内にはいろんなお地蔵様が安置されている。
(ここに紹介するのは一部である)


11時10分、袋井市へ至る案内図があった。
国道1号を潜って国道1号へ出て同心橋を渡るよう案内されている。


案内図に従って進む。
先ずは国道1号の下を潜って反対側へ。


反対側にも案内図が。


階段を上って国道1号へ出ると同心橋だ。


原野谷川


同心橋を渡ると、袋井市名栗である。


同心橋の近くに花茣蓙(はなござ)公園という小さな公園があった。


街道を少し進むと、駕籠の形をした”観光案内処”の小屋があった。


”駕籠”には十辺舎一九の「道中膝栗毛」の一節が紹介されていた。
昔は、この辺りには花茣蓙(はなござ)を売る店が軒を連ねていた、とある。


さらに道なりに進むと、


11時26分、松並木が現れた。
松の木の根元には土塁が築かれている。


松並木の所々に歌川広重他の浮世絵があり、目を楽しませてくれる。
三代歌川広重作「東海名所改正道中記 袋井」
東海道の松並木は、慶長九年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と
『徳川実記』は記している、そうである。 


明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしている、とのこと。
何とか後世に残してもらいたいものである。


「行書東海道五十三次之内 袋井」 初代歌川広重 天保年間(1830~44)
童とともに凧あげを見上げる旅人を描いている。
大人が二人掛りであげている。


「東海道五十三次之内 袋井」 歌川芳員 嘉永六年(1853)
振分荷物と菅笠を放り出し、両手を合わせて命乞い。
農夫の声に促されてよく見ると、自分を狙っていると見えた弓の射手は「かかし」。
早とちりな旅人に農夫もあきれ顔。


富士浅間宮鳥居
赤鳥居と呼ばれ近隣の人に親しまれている。
木花開耶姫命を祀る冨士浅間宮本殿の参道入口に立っている。
現在は鳥居と社殿の間に国道1号や東名高速道路が通り、
周辺には多くの工場が立ち並んでいるために、
鳥居だけが取り残されたように見えるが、
江戸時代には東海道から社殿を見通すことができたという。


11時38分、磐田市境まで6.0Km地点を通過。


松並木はまだ続く。


日蓮宗上人父母顕彰の寺(妙日寺)辺りになって松並木が一時途絶えた。
この間約20分、松並木は1Km以上はあったのではないだろうか。


11時48分、久津部一里塚に到着
袋井東小学校の校地に久津部一里塚の南側の塚がある。
昭和47年の学校創立100周年記念で復元した、とのこと。
江戸日本橋から60番目の一里塚である。


久津部一里塚の裏に”どまん中東小学校”がある。
正式には、袋井市立袋井東小学校という。
袋井宿は東海道の日本橋・京都両方から27番目の宿にあるので、
どまん中と言っているのだ。


この辺りには道標が多い。
大抵の道路分岐点に何らかの道標を見ることが出来る。
油山寺道標
油山寺はここから3.3Kmほど北へ行ったところにある寺で、
1300年前に建てられた古刹、とのこと。


秋葉山常夜灯
昭和28年(1953)に久津部地区内の「村中安全」を祈って建てられた。


秋葉山常夜灯の少し先に村松・宇刈道標がある。
この道標も近年作られたもののようだ


磐田市境まで5.0Km地点を通過。


再び松並木が現れた。
何も目印が見つからない時に数本でもこのような松並木が現れると、ほっとする。


12時8分、七ツ森神社に到着


七ツ森神社拝殿


本殿裏から戦国時代の城跡、久野城址がとてもきれいに見えます、とあったが・・・
国道1号袋井BPの先に二つの小高い山が見えるが、このことだろうか?


時計は12時を15分ほど過ぎた。
拝殿がちょうど風避けになるので、ここで昼飯にしよう。
この日は静岡駅で買った鯛めし(900円)である。


思いの外美味しかった。
次もまたこれにしようかな。


12時40分、松並木を進む。


初代歌川広重作山田屋版「行書東海道五十三次之内 袋井」 


松並木の景色は昔と変わらないように見える。


「是より可睡三尺坊道」の石標


13時13分、現代版道標「東新屋」を通過。


旧道も終わり、県道と合流すると「新屋」の交差点がある。
この交差点を左折して再び旧道を袋井宿に向かって進むと、
「東海道五十三次 どまん中茶屋」の案内が現れた。


13時21分、袋井市役所を通過


袋井宿の東の入口に到着。
磐田市境まで3Km、とある。


袋井宿は元和二年(1616)に設置された。
東海道五十三次で言えば、27番目の宿でちょうど真ん中の宿である。
天保十四年(1843)の調査では、宿内の町並みは西端の中川まで五町十五間、
人口は843人、家数は本陣3軒、旅籠屋50軒を含め、195軒だった。


袋井宿の東の入口に東海道どまん中茶屋があった。
しかし、この日は月曜日、あいにく休業日だった。


どまん中茶屋の向いにも茶屋らしき店はあったが・・・


先へ進もう。


常夜灯
灯を灯す処にはまだ新しい神棚のようなものが備えつけてあった。


袋井宿には(東・中・西)の本陣が置かれていた。
東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた
田代家が営んでいた。
本陣の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていた。
東本陣敷地全体の坪数は1068坪、建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、
その規模の大きさが伺われる。


13時34分、袋井宿場公園


「東海道宿村大概帳」天保十四年(1843)の袋井宿の図


問屋場跡の標柱


袋井宿の西端の御幸橋(中川土場)の手前に東海道名所旧跡案内絵図があった。
同心橋の先の原川からこれから目指す木原までの地図である。


袋井宿西本陣跡碑


袋井宿の西端の美由紀橋の袂に小さな公園があり、


宿を囲む土塁・高札場・秋葉山常夜灯などが復元されている。


13時42分、袋井宿の西端の御幸橋(中川土橋)を渡る。


御料牓示杭跡


「東海道 どまん中西小学校」
正式には、袋井市立袋井西小学校である。


川井地区の旧東海道沿いにある寺澤家長屋門。
明治元年(1868)に建てられたと伝えられており、
東海道沿いには珍しい長屋門、とのこと。


13時57分、川井標識を通過
見付境まで一里十一町(5.15Km)とある。


県道413号を進む。
磐田まで6Kmの表示


木原一里塚
日本橋から61番目の一里塚。
これは復元されたもので、本来の木原一里塚は60mほど東にあった。


14時16分、郷社許禰神社に到着


徳川家康公腰掛石
関ケ原の戦の勝利祈願のためここを訪れた折、腰かけた石と云われている、そうだ。
座り心地が良さそう。


許禰神社拝殿
かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられている。
許禰神社は古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、
一説には古代の許禰神社が木原権現社になったとも云われている。


徳川家康公腰掛石の傍に木原畷(きはらなわて)古戦場の説明板があり、
次のような説明があった。
元亀三年(1572)鷲巣の久野城を攻めた武田信玄が木原に陣を布き、
浜松城の徳川家康の偵察隊とここでぶつかった。
この戦いが世にいう木原畷の戦いである。


県道413号と合流する手前に木原の標識がある。
見付宿の宿境まで一里二町(4.1Km)とある。


14時27分、西木橋を渡り、磐田市に入った。


太田川に架かる三ヶ野橋を渡る。


国道1号袋井BPの所を左折して、


直ぐ右に曲がると、松並木が現れる。


松並木を進んで行くと・・・


鎌倉時代の古道の案内が・・・


案内に誘われて進むと、


鎌倉時代の古道の入口(右側)があった。


大日山の斜面を蛇行しながら上って行くと、


4分ほどで江戸時代の古道との合流点に到達した。
正面は古戦場大日堂への道である。


江戸時代の旧道


真ん中の道を戻る形で50mほど進むと、古戦場大日堂の説明板があった。
次のように記述されている。
戦国時代の始め頃、遠江地方は駿河の今川氏の支配下に治められていたが、
今川氏滅亡後は家康によって治められた。
そこに元亀三年(1572)上洛を目指す武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布いた。
これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦った。(続)


大日堂
創建年代は養老元年(717)、本尊は大日如来。
明治時代に入り、寺社制度の改革が行われ、従来の仏堂が存続できなくなり、
仏堂は極めて小さなお堂に改められ、大正十一年(1922)に
現在ある大日堂が復興された。


大日堂石碑


(古戦場大日堂の続き)
この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松があった。
この丘陵に立てば、太田川から遠く袋井まで一望でき、
本多平八郎の物見もさぞやと頷ける戦国ロマンが漂う。
(三ヶ野橋がよく見える)


15時7分、先ほどの古道合流点へ戻り、見附宿へ向かう。
見附宿まで2.3Kmだ。


立場跡
旅人の休憩所(峠の茶屋)があった所だ。


二子塚・古墳とある。
ちょっと立寄ってみよう。


公園に隣接して古墳があった。
全長55mで、
前方部先端幅33m・高さ4.5m、


後円部径30m・高さ3mの前方後円墳だった。
二ッ塚古墳・二ッ山古墳と呼ばれることもある、そうだ。


街道へ戻り、静岡県立磐田学園を過ぎて、東大久保を進むと、


15時24分、”従是西見付”の牓示杭があった。


行人坂を進むと、県道413号に合流する。


行人坂を振り返る。
ここには行人(山伏)が多く住んでいて、村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、
この坂を行人坂と言うようになった、とのこと。
今はそうでもないが、かつては、急勾配の坂道だったそうだ。


15時29分、行人坂を少し進むと、道路右側の小高い所に「遠州鈴ヶ森刑場」跡があった。
遠州金谷の生れで、美濃から相模の八ヶ国で、50~60人の盗賊団を率いて
暴れ回っていた大盗賊、日本左衛門の首がここで晒されたと伝えられる。


江戸の火付け盗賊改め方に捕えられ、江戸で斬首されてこの地に運ばれた。
日本左衛門は実在の人物だが、「白浪五人男」日本駄右衛門のモデルとされる。
南無妙法蓮華経と刻まれた題目碑と、


その隣りに「妙法無縁之萬霊」と刻まれた供養塔が残る。


15時35分、富士見町東交差点付近を通過。


三本松橋。別名を「なみだ橋」と云う。
遠州鈴ヶ森刑場で処刑される罪人が、裸馬に乗せられて護送されると、
この橋の袂で隠れるようにその縁者が涙ながらに別れを告げたところから
「なみだ橋」の名前があるのだろう。
東京の鈴ヶ森刑場跡近くを流れる立会川に架かる浜川橋も
別名で「涙橋」と呼ばれる。


秋葉灯籠
遠州地方では古くから秋葉信仰が盛んで、各村や町には必ず秋葉灯籠が建てられ、
常夜灯として絶やすことなく火が焚かれた。
この富士見町の秋葉石灯籠は、大正4年に建てられたもので、毎年12月に
例祭・秋葉神社祭りが行なわれる。


15時46分、県道413号の富士見町西交差点に”これより見付宿”の看板が。
ようやく見付宿に着いたという安堵感とともに疲れが出て来た。


東海道五十三次見附宿 天竜川図
当時の見付宿 
宿内人別3935人(男1898人、女2037人)家数1029軒(本陣2・脇本陣1・旅籠56)
江戸へ60里京都へ60里と紹介されている。
見付宿は、距離的には東海道の”どまん中”なのである。


振り返ると、小高い崖の上に愛宕神社の鳥居が見えた。


見付宿愛宕橋を通過


見付宿東木戸跡付近に木戸風モニュメントが建っていた。


JA遠州中央見付前に宿の案内板があったが、覚えきれない。
この日の宿(ホテル)へ一刻も早く辿り着きたい一心なのである。


問屋場跡を過ぎ、


宿場通りの案内が書かれた交差点で、ホテルに電話して場所を確認。
ホテルは国道1号BP付近ということである。


ここは、JA遠州中央見付前で見た案内板の北井上小路辺りと思われる。
道路標識には、国道1号BPまで1Kmとある。
従ってホテルはここから1Kmほど北になる。
近くにはいろいろと見所もあるようだが、明日にしよう。
ホテルへ向かうことにした。


時宗の寺院省光寺前を素通りし、


道路向いの磐田北小学校を横目に見ながら進む。


しばらくすると遠鉄のショッピングセンターがあり、


その先に予約していたホテルがあった。
16時37分、ホテルに到着


夕食はホテル内レストランへ。


先ずは生ビール


味噌味の鍋を注文。
最後はご飯セット(ご飯と味噌汁)で締めた。
歩き過ぎてちょと足を傷めてしまったが、明日も頑張って歩こう。


この日は、掛川宿から見付宿までの約16Kmを歩いた。
強風の中を歩いたので体力を消耗し、正直言って疲れた。
見付宿に着く頃には注意力も散漫になり、いくつかの見どころを
見過ごすことになった。

この日の万歩計は、33,000歩余を計測していた。

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阿見町総合運動公園から雪印メグミルク工場へ

2017年02月03日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2017年2月3日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成28年度第34回(2017年第5回)、「阿見町総合運動公園」周辺ウォーキングに参加した。
実際には、阿見町総合運動公園をスタートして、雪印メグミルク工場を見学し、
阿見町総合運動公園に戻るというものである。

この日は、快晴という願ってもない状況だったが、北風が強く、しかも冷たい。
予想最高気温は13度だが、8時30分の気温は、まだ2度位か。
そんな中、第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは20名弱。
工場見学の参加申し込み者は32名だったので、皆さん第二集合場所の
阿見町総合運動公園へ直行したのだろう。


阿見町総合運動公園駐車場に行ってみると、参加申し込みしている人と
申し込みしていない人、計17-8名が到着していた。
(写真は下見(1月31日)で撮影したもの)
昨日までの申込数より5名増え、合計37名となった。


事前申込みしていなかった人の中には、諦めて帰ろうとする人も・・・
『ちょっと待った!』
雪印メグミルク工場へ確認すると、40名までであれば問題ないとのこと。
ということで全員工場見学OKとなった。
(写真は、下見で撮影した陸上競技場)


全員の工場見学を確認し終えたところで、
9時15分、Oさんを先頭に出発!
雪印メグミルク工場を目指す。


雪印メグミルク工場までおよそ30分。
見学開始時刻は10時からとなっており、15分前の到着には充分間に合う。


右手に多目的広場を見ながら、


雪印メグミルク工場を目指す。


野球場B
夜間照明が付いている。


また別の球場が見えてきた。


阿見町民球場だ。


町民球場には、メインとサブ2面の野球場がある。
手前がメインで、後方がサブとなっている。
野球場Bのような夜間照明は付いていない。


メイン球場ライト側スタンド


メイン球場レフト側スタンド
両方合わせて500人分ほどの椅子が用意されている。


阿見町民球場を過ぎると、左手に高いフェンスが現れた。
阿見GCだ。


雪印メグミルク工場を目指す。


9時27分、阿見GCのクラブハウス横を通過。


阿見GCクラブハウス前の交差点を渡り、町道 寺子・飯倉線を進むと・・・


前方に雪印メグミルク工場の建物が見えてきた。
『あそこが雪印の工場なのねっ』


ここから先は阿見東部工業団地となっている。


『雪印メグミルク工場が一番広いんだぁ』
(ちなみに雪印メグミルク工場の敷地面積は東京ドーム3個分の広さがある)
(ピンク色は分譲中の画地)


工業団地内には、画地(分乗中)もいくつか見られる。


平米当り38,400円ということは、画地⑯(34,000㎡)の価格は、
約13億円ということになる。
安いのか高いのか自分には分らない。


9時37分、ホンダ産業前を通過


『JOYFUL-2って書いてあるねっ』
『ジョイフル本田の倉庫なんじゃないっ?』
そういうことにしておこう。


続けて東洋化学阿見事業所の前を過ぎると、


県道 龍ヶ崎・阿見BPの星の里交差点に出た。


道路を渡った右手に雪印メグミルク工場が見える。


星の里交差点を渡り、さらに直進すると、
9時40分、雪印メグミルク工場に到着した。


平成26年3月24日から創業を開始した雪印メグミルク阿見工場。
全国に出荷する同社のプロセスチーズの製造を一手に引き受ける、
国内最大級の乳製品工場である。


正門を入り、見学館へ。


玄関を入ると、本日のお客様として当会の名前が・・・
『この日のために用意してくれたんだぁ』


記念撮影までしてくれた。


二組に分かれて2階へ案内された。
左側が1組目で、右側が2組目。


後方では、1組目がVR技術を活用した空からの工場視察の最中だった。
2組目のVR技術での空からの工場視察は、今しばらくお預け。


窓から正門を望む。


見学館の全体像
(1月31日に撮影したもの)


窓側のブラインドが下ろされ、映像が映し出された。
まずはクイズだ。
雪印メグミルク工場で製造されるプロセスチーズ類、マーガリン類の数は?
こたえは約200種類ということである。
『へ~っ 200種類もあるんだぁ』


映像に見入る。
プロセスチーズとナチュラルチーズの違いについてや、
美味しさの秘密も知ることができる。


雪印メグミルク工場では、プロセスチーズの他、
(プロセスチーズは、種類や熟度の違うナチュラルチーズを粉砕混合し、
乳化剤を加えて加熱溶解し、チーズ中に含まれる乳酸菌や酵素などの
活性を失わせてから成型したチーズのこと)


マーガリンも作られている。
(バターは牛乳から、マーガリンは植物性・動物性の油脂から作られており、
風味や形状に違いがある)


お馴染の6Pチーズの発売は、昭和29年(1954)から、とのこと。
今でも変わらない人気がある、とのこと。


約13分のVTRでの案内映像が終わり、1組目が一足先に館内の見学へ。
今度は2組目がVR技術を活用した空からの工場視察の番だ。
6Pチーズの形をした「6Pテーブル」で一度に6人が体験できる。


VRでの工場視察が終り、2組目も工場見学へ。
2組目の案内を担当してくれたお嬢さん。
『よろしくお願いしま~すっ』
最近案内係に配属されたばかりだそうで、
メモを片手に熱心に説明してくれた。


工場見学ルート入口を入る。


天井に描かれたのは”牛”だと思ったら、


反対側から見ると、実は”ミルク缶”だった。
(トリック絵である)


この工場で作られる製品が並べられていた。


製造室へ入る際には、制服・制帽に着替え、


掃除機のような吸引器で細かなホコリを吸い取る。


2人が試しに挑戦
『ほんと掃除機みたいだねっ』


次に石鹸で手を洗う。
30秒ほどかけて、指・手首なども入念に洗う、とのこと。
その後アルコールで消毒することも必須だそうだ。


高度な衛生レベルが求められるエリアへは、さらに防塵服に着替える。
防塵服は繊維がほつれにくい工夫がなされている。
防塵服に着替えた後には、もう一度手洗いが必要、とのこと。
『毎日これじゃ大変だねっ』


最後は、エアシャワーを浴びて入室OKとなる。


15秒ほどエアシャワーを浴びて、ほこり・ちりの除去完了となる。


ここから先は、撮影禁止となっている。
プロセスチーズやマーガリンの製造工程の見学と
製造工程の一部をVRで視察するというものだった。
また、全て自動で動く物流倉庫の流れも見ることができる。


約45分間の工場見学が終わると、チーズの試食である。
1組目は既に試食中だった。


試食風景
『美味しいわねっ』


試食風景
『ビールが飲みたくなっちゃうなぁ』


この日の試食品は、6Pチーズ・ベビーチーズ(うまみ)・クリームチーズ(シャルドネ)・
チーズクラッカー、それにDole Appleだ。
手前の包装された6Pチーズは、土産の消しゴムである。
『孫の土産には良いねぇ』


試食風景
『どれもなかなか美味いねっ』
『つまみには最高だねっ』


試食風景
『お土産に買って帰ろうかしらっ』


ということで、試食が終わり、土産物Shopへ。
土産物Shopの前は大賑いだ。


『これが良さそうねっ』
『こっちのも美味しんじゃないっ』


レジ前の行列は、大変な混雑ぶりである。


『やっと買えたわ』
一安心と言った表情。
自分も試食した製品を一通り買った。占めて1,500円だった。


11時47分、ほぼ全員が何がしかの土産を手にして、
雪印メグミルク工場を後にした。


県道 龍ヶ崎・阿見BPの星の里交差点を渡り、


阿見町総合運動公園駐車場(以下運動公園)へ。


正面から風を受けながら運動公園を目指す。


12時2分、阿見GC前交差点を通過


阿見GC横辺り、運動公園まであと少しだ。


野球場B辺りを通過。


ゴールの運動公園駐車場は目の前だ。


多目的広場を過ぎ、


12時15分、ゴールの運動公園駐車場に到着!

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

阿見町総合運動公園から雪印メグミルク工場の見学徒歩ツアーは、
37名という予想以上の参加者が集まり、盛況のうちに終わった。
隣町に出来た新しい工場ということでもあり、一度は見学しておきたい
ということの現れなのだろう。
試食での各種チーズは、本当に美味しく、あらためてチーズの美味さを感じた。
土産に買ったチーズは、かみさんとワインを飲みながらでもいただこうと思っている。

この日の万歩計は、7,000歩ほどだった。

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