ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第6回 掛川宿~浜松宿(1日目)

2017年02月06日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2017年2月6日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第6回目は、掛川宿(JR掛川駅)~浜松宿(JR浜松駅)を
2日間かけて歩いた。
1日目は、掛川宿から見附宿までの約16Kmを歩いた。

常磐線が6分ほど遅れて上野に到着したが、東京駅7時3分発の「ひかり461号」
には何とか間に合った。


この日の天気は申し分ないようだが、風が強いとの予報。


静岡駅で「ひかり461号」から「こだま633号」へ乗り換える間に、
新幹線ホームの「東海軒」で駅弁を購入。
数は少ないが、全体的に東京駅より安い感じ。


8時46分、掛川駅に到着
この日は風が強い。時折吹く強風で帽子が飛ばされそうになる。


右手にデジカメ、左手に駅前のコンビニで買ったホットコーヒーを持って、
8時55分、掛川駅を出発!


連雀西交差点を左に折れ、旧東海道を進む。
まだほとんどの店は開いていない。


民家のような造りの清水銀行掛川支店


山内一豊と妻千代の浮彫刻絵
由来には以下のように紹介されている。
天正十八年、掛川城主だった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。
若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が秘かに蓄えた黄金をもって、
願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。
後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、
連綿として城主としての家系を守った。(清水銀行)
2006年のNHK大河ドラマ『功名が辻』の記憶が蘇える。


円満寺の境内に現在も残っている蕗の門(額は富貴門)は、
掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門で、
大手門・仁藤門などと二の丸につながる道筋にあったので、
小さいが重要な門だった。
廃城後の明治五年(1872)に円満寺が買い受けて移築した。


円満寺本堂
掛川城内にあった円満寺は、一豊による掛川城の大改修のために
現在位置へ移された。
現在の本堂は寺とは思えない作りである。


県道37号を右に曲がった所に成田山東光寺があった。
山門前の碑には「成田山 遥拝所」と刻まれている。


山門を潜って行くと、医王山東光寺という小さな寺がある。
養老年間(720年代)に、僧の行基により開基された真言宗の草庵で、
天慶の乱(940)後、将門等の首級をこの地に葬った時、
将門の念仏である薬師如来を寺の本尊として草庵に祀り、平将寺を建立した。
天文年間(1530年代)に曹洞宗に改宗し、東光寺になった。
その後、兵火で燃失したが、慶応三年(1867)に、一堂を建てたのが現在の建物、
とのこと。 


街道へ戻って進むと、十九首塚への案内標識があった。


2つ目の案内標識に従って進むと、


9時27分、住宅地の裏に十九首塚があった。
天慶三年(940)の天慶の乱の時に、藤原秀郷らの一行に滅ぼされた平将門と、
18人の武将の首級が埋葬されていると言われている。


平将門の乱を平定した藤原秀郷は、将門ら19人の首級をもって、
東海道を上るが、朝廷の派遣した勅使がこの地で首実検を行い、
賊徒の首を都に近づけてはならない、という朝廷の命令を伝えたため、
秀郷はその首をこの地に埋葬し、19基の塚を作った、という。

 
当時、19基あった首塚も時代の流れと共に年々数が少なくなり、
平将門のものと云われる大きな塚1基だけが残された。
地元民が18基の首塚を復活させたいと、新しく整備された十九首塚史跡公園に
19基の首塚が完成した。


街道に戻り、逆川に架かる逆川橋を渡り、


二瀬川交差点を左折し、県道415号を進む。


倉真川に架かる大池橋を渡ると、


9時46分、大池橋の標識がある。
大池橋は、文化・文政年間に編纂された「掛川誌稿」には、
長さ29間余(約52m)、幅3間1尺余(約5.7m)の土橋と記されている。


大池橋の標識を左に折れ、街道を進む。


天竜浜名湖線ガード下を潜って、


道なりに進むと、


右手に白山神社があり、


10時6分、その直ぐ隣に大光山宗心寺があった。
元は法多山尊永寺の末と伝えられ、現在は日蓮宗だが昔は真言宗であった。
掛川では最も古いお寺のひとつと云われる。


蓮祐寺の手前に大池一里塚跡の碑が立っていた。
大池一里塚は、日本橋から59番目の一里塚だ。
街道両脇の塚は宅地化されていて今は一里塚の影も形もない。


一乗山蓮祐寺
境内右手にあるお堂の備品を綺麗に掃除をしている最中だった。


掃除している脇を通り、本堂にお参りさせてもらった。


街道を進むと、松並木が現れた。


さらに進むと、煙突のある大きな建物があった。
造り酒屋でもあったのだろうか?


沢田南IC交差点で国道1号線を潜り、


国道1号線沿いの側道を進み、


さらに東名高速道を潜るようにして、街道は続いている。


垂木川に架かる善光寺橋を渡ると、


10時40分、右手に善光寺如来の門柱と、


その右には”東海道之真中 仲道寺”と刻まれた門柱が立っている。
善光寺は、東海道の中間点に位置し、仲道寺とも呼ばれている。


石段を上ると善光寺如来堂があった。


如来像は見えなかった。


善光寺如来堂の右奥に夏涼山仲道寺の門がある。


門を潜ると仲道寺本堂が。


仲道寺本堂の内部はとてもカラフルである。
お参りを済ませ、しばし休憩にする。


10時56分、仲道寺を後にして街道へ戻ると、松並木が続いていた。


松はそれほど古くはないが、趣がある。


東海道松並木の碑の最後に、
「松並木は近年松食い虫の被害で枯れ、ここ岡津~原川間で
僅かに残っているだけ」とある。
松食い虫に有効な防虫剤などはないのだろうか?
多少金はかかるかもしれないが、枯れてしまったら、お終いである。


東海道原川松並木の標柱


金西寺
原川薬師と呼ばれた金西寺阿弥陀仏には、
供えるための薬師餅を売る茶屋や酒屋などが軒を連ねていたとある。
文化・文政頃の集落戸数は、四十六軒を数えたという。


金西寺の境内にはいろんなお地蔵様が安置されている。
(ここに紹介するのは一部である)


11時10分、袋井市へ至る案内図があった。
国道1号を潜って国道1号へ出て同心橋を渡るよう案内されている。


案内図に従って進む。
先ずは国道1号の下を潜って反対側へ。


反対側にも案内図が。


階段を上って国道1号へ出ると同心橋だ。


原野谷川


同心橋を渡ると、袋井市名栗である。


同心橋の近くに花茣蓙(はなござ)公園という小さな公園があった。


街道を少し進むと、駕籠の形をした”観光案内処”の小屋があった。


”駕籠”には十辺舎一九の「道中膝栗毛」の一節が紹介されていた。
昔は、この辺りには花茣蓙(はなござ)を売る店が軒を連ねていた、とある。


さらに道なりに進むと、


11時26分、松並木が現れた。
松の木の根元には土塁が築かれている。


松並木の所々に歌川広重他の浮世絵があり、目を楽しませてくれる。
三代歌川広重作「東海名所改正道中記 袋井」
東海道の松並木は、慶長九年(1604)に徳川秀忠が「街道の左右に松を植しめらる」と
『徳川実記』は記している、そうである。 


明治維新以後は道路拡幅工事などによってその数を減らしている、とのこと。
何とか後世に残してもらいたいものである。


「行書東海道五十三次之内 袋井」 初代歌川広重 天保年間(1830~44)
童とともに凧あげを見上げる旅人を描いている。
大人が二人掛りであげている。


「東海道五十三次之内 袋井」 歌川芳員 嘉永六年(1853)
振分荷物と菅笠を放り出し、両手を合わせて命乞い。
農夫の声に促されてよく見ると、自分を狙っていると見えた弓の射手は「かかし」。
早とちりな旅人に農夫もあきれ顔。


富士浅間宮鳥居
赤鳥居と呼ばれ近隣の人に親しまれている。
木花開耶姫命を祀る冨士浅間宮本殿の参道入口に立っている。
現在は鳥居と社殿の間に国道1号や東名高速道路が通り、
周辺には多くの工場が立ち並んでいるために、
鳥居だけが取り残されたように見えるが、
江戸時代には東海道から社殿を見通すことができたという。


11時38分、磐田市境まで6.0Km地点を通過。


松並木はまだ続く。


日蓮宗上人父母顕彰の寺(妙日寺)辺りになって松並木が一時途絶えた。
この間約20分、松並木は1Km以上はあったのではないだろうか。


11時48分、久津部一里塚に到着
袋井東小学校の校地に久津部一里塚の南側の塚がある。
昭和47年の学校創立100周年記念で復元した、とのこと。
江戸日本橋から60番目の一里塚である。


久津部一里塚の裏に”どまん中東小学校”がある。
正式には、袋井市立袋井東小学校という。
袋井宿は東海道の日本橋・京都両方から27番目の宿にあるので、
どまん中と言っているのだ。


この辺りには道標が多い。
大抵の道路分岐点に何らかの道標を見ることが出来る。
油山寺道標
油山寺はここから3.3Kmほど北へ行ったところにある寺で、
1300年前に建てられた古刹、とのこと。


秋葉山常夜灯
昭和28年(1953)に久津部地区内の「村中安全」を祈って建てられた。


秋葉山常夜灯の少し先に村松・宇刈道標がある。
この道標も近年作られたもののようだ


磐田市境まで5.0Km地点を通過。


再び松並木が現れた。
何も目印が見つからない時に数本でもこのような松並木が現れると、ほっとする。


12時8分、七ツ森神社に到着


七ツ森神社拝殿


本殿裏から戦国時代の城跡、久野城址がとてもきれいに見えます、とあったが・・・
国道1号袋井BPの先に二つの小高い山が見えるが、このことだろうか?


時計は12時を15分ほど過ぎた。
拝殿がちょうど風避けになるので、ここで昼飯にしよう。
この日は静岡駅で買った鯛めし(900円)である。


思いの外美味しかった。
次もまたこれにしようかな。


12時40分、松並木を進む。


初代歌川広重作山田屋版「行書東海道五十三次之内 袋井」 


松並木の景色は昔と変わらないように見える。


「是より可睡三尺坊道」の石標


13時13分、現代版道標「東新屋」を通過。


旧道も終わり、県道と合流すると「新屋」の交差点がある。
この交差点を左折して再び旧道を袋井宿に向かって進むと、
「東海道五十三次 どまん中茶屋」の案内が現れた。


13時21分、袋井市役所を通過


袋井宿の東の入口に到着。
磐田市境まで3Km、とある。


袋井宿は元和二年(1616)に設置された。
東海道五十三次で言えば、27番目の宿でちょうど真ん中の宿である。
天保十四年(1843)の調査では、宿内の町並みは西端の中川まで五町十五間、
人口は843人、家数は本陣3軒、旅籠屋50軒を含め、195軒だった。


袋井宿の東の入口に東海道どまん中茶屋があった。
しかし、この日は月曜日、あいにく休業日だった。


どまん中茶屋の向いにも茶屋らしき店はあったが・・・


先へ進もう。


常夜灯
灯を灯す処にはまだ新しい神棚のようなものが備えつけてあった。


袋井宿には(東・中・西)の本陣が置かれていた。
東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々八郎左衛門を名乗っていた
田代家が営んでいた。
本陣の特色は門構えと玄関があり、また内部に「上段の間」が設けられていた。
東本陣敷地全体の坪数は1068坪、建坪288坪、間口13間半、奥行き31間もあり、
その規模の大きさが伺われる。


13時34分、袋井宿場公園


「東海道宿村大概帳」天保十四年(1843)の袋井宿の図


問屋場跡の標柱


袋井宿の西端の御幸橋(中川土場)の手前に東海道名所旧跡案内絵図があった。
同心橋の先の原川からこれから目指す木原までの地図である。


袋井宿西本陣跡碑


袋井宿の西端の美由紀橋の袂に小さな公園があり、


宿を囲む土塁・高札場・秋葉山常夜灯などが復元されている。


13時42分、袋井宿の西端の御幸橋(中川土橋)を渡る。


御料牓示杭跡


「東海道 どまん中西小学校」
正式には、袋井市立袋井西小学校である。


川井地区の旧東海道沿いにある寺澤家長屋門。
明治元年(1868)に建てられたと伝えられており、
東海道沿いには珍しい長屋門、とのこと。


13時57分、川井標識を通過
見付境まで一里十一町(5.15Km)とある。


県道413号を進む。
磐田まで6Kmの表示


木原一里塚
日本橋から61番目の一里塚。
これは復元されたもので、本来の木原一里塚は60mほど東にあった。


14時16分、郷社許禰神社に到着


徳川家康公腰掛石
関ケ原の戦の勝利祈願のためここを訪れた折、腰かけた石と云われている、そうだ。
座り心地が良さそう。


許禰神社拝殿
かつては木原権現社と呼ばれ、古代末期に創建されたと考えられている。
許禰神社は古代の神社名帳(式内社)のなかに見られる神社で、
一説には古代の許禰神社が木原権現社になったとも云われている。


徳川家康公腰掛石の傍に木原畷(きはらなわて)古戦場の説明板があり、
次のような説明があった。
元亀三年(1572)鷲巣の久野城を攻めた武田信玄が木原に陣を布き、
浜松城の徳川家康の偵察隊とここでぶつかった。
この戦いが世にいう木原畷の戦いである。


県道413号と合流する手前に木原の標識がある。
見付宿の宿境まで一里二町(4.1Km)とある。


14時27分、西木橋を渡り、磐田市に入った。


太田川に架かる三ヶ野橋を渡る。


国道1号袋井BPの所を左折して、


直ぐ右に曲がると、松並木が現れる。


松並木を進んで行くと・・・


鎌倉時代の古道の案内が・・・


案内に誘われて進むと、


鎌倉時代の古道の入口(右側)があった。


大日山の斜面を蛇行しながら上って行くと、


4分ほどで江戸時代の古道との合流点に到達した。
正面は古戦場大日堂への道である。


江戸時代の旧道


真ん中の道を戻る形で50mほど進むと、古戦場大日堂の説明板があった。
次のように記述されている。
戦国時代の始め頃、遠江地方は駿河の今川氏の支配下に治められていたが、
今川氏滅亡後は家康によって治められた。
そこに元亀三年(1572)上洛を目指す武田信玄が遠江へ進出し、木原に陣を布いた。
これを迎え撃つため徳川勢は浜松城を出て、三ヶ野・見付宿・一言坂と戦った。(続)


大日堂
創建年代は養老元年(717)、本尊は大日如来。
明治時代に入り、寺社制度の改革が行われ、従来の仏堂が存続できなくなり、
仏堂は極めて小さなお堂に改められ、大正十一年(1922)に
現在ある大日堂が復興された。


大日堂石碑


(古戦場大日堂の続き)
この大日堂の高台には、本多平八郎物見の松と伝えられる大松があった。
この丘陵に立てば、太田川から遠く袋井まで一望でき、
本多平八郎の物見もさぞやと頷ける戦国ロマンが漂う。
(三ヶ野橋がよく見える)


15時7分、先ほどの古道合流点へ戻り、見附宿へ向かう。
見附宿まで2.3Kmだ。


立場跡
旅人の休憩所(峠の茶屋)があった所だ。


二子塚・古墳とある。
ちょっと立寄ってみよう。


公園に隣接して古墳があった。
全長55mで、
前方部先端幅33m・高さ4.5m、


後円部径30m・高さ3mの前方後円墳だった。
二ッ塚古墳・二ッ山古墳と呼ばれることもある、そうだ。


街道へ戻り、静岡県立磐田学園を過ぎて、東大久保を進むと、


15時24分、”従是西見付”の牓示杭があった。


行人坂を進むと、県道413号に合流する。


行人坂を振り返る。
ここには行人(山伏)が多く住んでいて、村のまつりごとや社会奉仕に携わっていたので、
この坂を行人坂と言うようになった、とのこと。
今はそうでもないが、かつては、急勾配の坂道だったそうだ。


15時29分、行人坂を少し進むと、道路右側の小高い所に「遠州鈴ヶ森刑場」跡があった。
遠州金谷の生れで、美濃から相模の八ヶ国で、50~60人の盗賊団を率いて
暴れ回っていた大盗賊、日本左衛門の首がここで晒されたと伝えられる。


江戸の火付け盗賊改め方に捕えられ、江戸で斬首されてこの地に運ばれた。
日本左衛門は実在の人物だが、「白浪五人男」日本駄右衛門のモデルとされる。
南無妙法蓮華経と刻まれた題目碑と、


その隣りに「妙法無縁之萬霊」と刻まれた供養塔が残る。


15時35分、富士見町東交差点付近を通過。


三本松橋。別名を「なみだ橋」と云う。
遠州鈴ヶ森刑場で処刑される罪人が、裸馬に乗せられて護送されると、
この橋の袂で隠れるようにその縁者が涙ながらに別れを告げたところから
「なみだ橋」の名前があるのだろう。
東京の鈴ヶ森刑場跡近くを流れる立会川に架かる浜川橋も
別名で「涙橋」と呼ばれる。


秋葉灯籠
遠州地方では古くから秋葉信仰が盛んで、各村や町には必ず秋葉灯籠が建てられ、
常夜灯として絶やすことなく火が焚かれた。
この富士見町の秋葉石灯籠は、大正4年に建てられたもので、毎年12月に
例祭・秋葉神社祭りが行なわれる。


15時46分、県道413号の富士見町西交差点に”これより見付宿”の看板が。
ようやく見付宿に着いたという安堵感とともに疲れが出て来た。


東海道五十三次見附宿 天竜川図
当時の見付宿 
宿内人別3935人(男1898人、女2037人)家数1029軒(本陣2・脇本陣1・旅籠56)
江戸へ60里京都へ60里と紹介されている。
見付宿は、距離的には東海道の”どまん中”なのである。


振り返ると、小高い崖の上に愛宕神社の鳥居が見えた。


見付宿愛宕橋を通過


見付宿東木戸跡付近に木戸風モニュメントが建っていた。


JA遠州中央見付前に宿の案内板があったが、覚えきれない。
この日の宿(ホテル)へ一刻も早く辿り着きたい一心なのである。


問屋場跡を過ぎ、


宿場通りの案内が書かれた交差点で、ホテルに電話して場所を確認。
ホテルは国道1号BP付近ということである。


ここは、JA遠州中央見付前で見た案内板の北井上小路辺りと思われる。
道路標識には、国道1号BPまで1Kmとある。
従ってホテルはここから1Kmほど北になる。
近くにはいろいろと見所もあるようだが、明日にしよう。
ホテルへ向かうことにした。


時宗の寺院省光寺前を素通りし、


道路向いの磐田北小学校を横目に見ながら進む。


しばらくすると遠鉄のショッピングセンターがあり、


その先に予約していたホテルがあった。
16時37分、ホテルに到着


夕食はホテル内レストランへ。


先ずは生ビール


味噌味の鍋を注文。
最後はご飯セット(ご飯と味噌汁)で締めた。
歩き過ぎてちょと足を傷めてしまったが、明日も頑張って歩こう。


この日は、掛川宿から見付宿までの約16Kmを歩いた。
強風の中を歩いたので体力を消耗し、正直言って疲れた。
見付宿に着く頃には注意力も散漫になり、いくつかの見どころを
見過ごすことになった。

この日の万歩計は、33,000歩余を計測していた。

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