ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.100 首里城

2017年02月21日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2017年2月21日(火)

この日は、「日本100名城」99番目の「中城城」に続いて、
100番目の「首里城」へ登城した。
首里城に関する事前の知識としては、「日本100名城」ガイドブックに
紹介されている、以下のようなものだ。

首里城は、1427年の記録に城の整備について記されていることから、
創建はそれ以前だと推定される。
城の基本的な縄張が完成したのは尚真王と尚清王の時代(1477~1555)と
考えられている。

城は東西約400m、南北約200mの規模を誇り、内部と外部で構成されていた。
内部は御庭を中心とした行政空間、その南側の「京の内」という祭祀空間、
東側の「御内原」という居住空間からなり、正殿・南殿・北殿など
主な建物は内部に置かれていた。

首里城は、王位争いや失火で3度焼失したが、その都度再建された。
明治になって軍が入った後、学校となった。
太平洋戦争では城のすべてが灰燼に帰したが、平成14年には正殿など
城の建物が再建されている。

平成12年(2000)に世界文化遺産に登録された。
また、平成18年(2006)に「日本100名城」に選定されている。

道路を渡った所が首里城公園になる。
”守礼門”の文字が見える。


道路を渡ると、”甦る首里城の碑”が建てられていた。


首里城公園の石碑前で記念撮影
小雨が降りだした。傘を差しての見学になりそう。


首里城の案内看板に従って進むと、


総合案内所があった。
入場券を売っている所かと思ったが、違った。


時計は12時40分を回っており、お腹も空いていたので、
先ずは腹ごしらえをしようということに。
レストセンター首里社館のレストラン「首里社」で昼食を摂った後、
首里城公園の資料を入手して守礼門へ向かった。


守礼門への途中、民族衣装の女性たちが記念撮影を奨めていた。


首里城の見取り図


13時27分、守礼門に到着
1527年~1555年の4代目・尚清王代に初めて建立。
扁額に「守禮之邦(守礼之邦)」と掲げられていることから
守礼門と呼ばれるようになったと言われている。


「守礼」とは単に礼節・マナーを守るという意味だけではなく、
儒教の「礼」、つまり「琉球は礼節を重んずる国である」、
「琉球は清との間に結ばれた、臣下・親子のような国際関係の秩序を守る」
という意味を持っている。


守礼門を潜った先に園比屋武御嶽石門(そのひやんうたきいしもん)がある。
石門とその奥の森を園比屋武御嶽と云い、王府の祈願所であった。
石門は、神社で言う拝殿にあたるが、本殿に相当する建物はなく、
石門の後ろに広がる森がそれにあたるという。
石門の創建は、尚真王時代の1519年。
1933年には旧国宝に指定されたが、沖縄戦で大破、1957年に復元され、
後に解体修理し、1986年に完成した。
石材は主に琉球石灰岩を用い、板葺唐破風屋根を表す屋根の飾りなどに
日本と中国の様式を合わせて用いた沖縄独特の優れた石造建築である。
(沖縄県教育委員会)


園比屋武御嶽石門は、世界文化遺産に登録されている。


歓会門(かんかいもん
首里城の城域内に入る第一の正門である。


石垣の隅頭石は、城壁の飾りの一種で、角の部分を上方に緩やかに突出させたもの。
石垣の角が反り返っているのは、中城城で見たのと同じだ。


13時33分、歓会門に到着
大きく湾曲した城壁中央をアーチ形に開けて門としている。
中国皇帝の使者「冊封使」(さっぽうし)などを歓迎するという意味で
この名が付けられた。「あまへ御門」とも言う。
「あまへ」は沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」を意味しており、
「歓会」はその漢訳である。
門の両側の一対の獅子像「シーサー」は、魔除けの意味を持っている。
1500年ごろの創建だが、沖縄戦で焼失し、昭和49年(1974)に復元された。


歓会門の内側には、当時の服装をした守衛らしき人がいた。


歓会門を過ぎて、緩やかな石段の先に瑞泉門が見える。


瑞泉門の手前左側に久慶門(きゅうけいもん)が見えたので、
1枚だけ撮って瑞泉門に戻った。
久慶門は、別名「ほこり御門」とも云う。
「ほこり」は、歓会門の別名「あまへ(よろこび)」と対になっていて、
「よろこびほこる」の意味になる。
歓会門が正門であったのに対し、ここは通用門で主に女性が利用したと云われている。
また国王が寺院にお参りする時や北の地方に行幸する時などにも使われた。
沖縄戦で焼失し、昭和58年(1983)に復元された。


瑞泉門への坂道の途中、石段の横に四文字の碑が並んでいた。
この石碑は、龍樋の水の清らかさを称賛した冊封使(さっぽうし)
たちの書を刻んだもので、冊封使七碑と呼ばれている。
沖縄戦でほとんどが破壊されたが、1996年(平成8年)、
拓本を下に復元された。


13時39分、瑞泉門(ずいせんもん)に到着
瑞泉門の名は、龍樋の水が瑞泉(りっぱな、めでたい泉という意味)と
讃えられたことに由来する。別名「ひかわ御門」とも云う。
「ひ」は樋のことで、「かわ(川)」は、沖縄では井戸や泉をことを指す。
さきほどの歓会門と違い、双璧の石門の上に櫓が乗っている。
この形式は、日本本土の主な城の門と共通している。


内側から見た瑞泉門
創建は1470年頃。
沖縄戦で焼失したが、平成4年(1992)に復元された。


13時40分、漏刻門(ろうこくもん)に到着
漏刻とは、中国語で水時計という意味。
この門の上の櫓の中に水で時間を計る水槽(水時計)が設置されていた。
水が漏れる量で時間を計っていたと云われている。
門を過ぎた広場には日時計があり、その二つで時刻を計り、
太鼓をたたいて時を知らせた。


漏刻門の別名は「かご居せ御門」とも云う。
駕籠で登城することを許されていた身分の高い役人も、国王に敬意を表し、
この門で駕籠から下りたということからそのように呼ばれた。


創建は15世紀頃、老朽化のため昭和初期には撤去されていたものを
平成4年(1992)に復元した。
内側から見た漏刻門


13時41分、広福門(こうふくもん)前の広場に到着
「広福」とは「福を行き渡らせる」という意味。
建物そのものが門の機能を持っているのが特徴。
門の正面に向かって左側(東)が戸籍の管理をする「大与座」、
右側(西)が神社仏閣などを管理する「寺社座」という役所になっていた。
創建年は不明、明治末期頃に撤去され、平成4年(1992)に復元した。


広福門前の広場の日影台(にちえいだい
漏刻が水時計であるのに対し、日影台は日時計のこと。
琉球王国時代、首里城では日時計を用いて、正午およびその前後の時刻をはかり、
また漏刻でくわしい時刻をはかったと云われている。
1739年から使われ始めたと云われ、1879年の廃藩置県まで王国の時を刻み続けた。


日影台から久慶門辺りを望む。


日影台から市街地を望む。
見えている建物は、沖縄県立芸術大学だ。


広福門を潜り、「下之御庭(しちゃぬうなー)」に出て、中から広福門を見る。
下之御庭とは、沖縄の表現で「下の庭」という意味である。
首里城正殿のある「御庭(うなー)」へ入る前の広場で、
正殿前で行われる様々な儀式の控え場所となっている。


広福門は戸籍の管理をする「大与座」と神社仏閣などを管理する「寺社座」
という役所であったが、現在、御庭へのチケット売り場になっている。
一般の入館料金は、820円だ。


13時47分、奉神門(ほうしんもん)を潜る。
奉神門は、神を敬う門という意味で、首里城正殿のある御庭へ入る最後の門である。
3つの入口のうち、中央は国王や中国からの冊封使(さっぽうし)などの
身分の高い人だけが通ることができた、そうである。
別名「君誇御門」
ここから有料になる。


奉神門を潜ると、御庭(うなー)に出る。
御庭から奉神門を見る。


御庭の正面向いに正殿がある。
御庭では、元旦の儀式など重要な祭事や、中国からの使者を迎える儀式をはじめとした
外交上の儀礼が行われた。
敷かれているタイルは磚(せん)という敷瓦で、この色違いの列は儀式のときに
諸官が位の順に並ぶ目印であった。
中央の道は「浮道」と言い、国王や冊封使など限られた人のみ通ることができた。


正殿
国王の政務やさまざまな儀式が行われた建物。
平成4年に再建された琉球最大の木造建築である。
中国北京の天安門を模しているとも・・・


正面の石階段の両脇の龍の彫刻を「大龍柱」と言い、
その奥にはもう一対の「小龍柱」がある。
その他に屋根や柱などにも龍はたくさんあり、
首里城の中心的な建物に相応しい装飾が施されている。


南殿(なんでん)・番所(ばんどころ
平屋部分が番所で、首里城へ登城してきた人々の取次をする
受付的な役割を持つ建物だった。
左側の2階建て部分が南殿である。
南殿は別名「南風の御殿」とも言い、日本式の年賀・節句などの行事、
薩摩藩の役人の接待が行われた。
創建は17世紀前半で日本風の建物となっている。
二つの建物とも日本式ということで、彩色はされなかった。


北殿はかつては北の御殿、議政殿とも呼ばれていた。
創建は1506~1521年頃とされ、中国風の建物となっている。
記録では、1709年の首里城の大火で他の建物とともに焼失し、1712年頃再建された。
通常は王府の行政施設として機能し、表15人衆(大臣)や筆者、
里之子(さとぅぬし)と呼ばれる役人等が働いていた。
米海軍のペリー提督が黒船を率いて琉球を訪れた時にも、ここで式典が行われた。
沖縄サミットの晩餐会に利用された場所である。
館内では、パネルなどで首里王府の位置やしくみ、冊封式典(さっぽうしきてん
などを解説している。


御庭のパノラマ写真


御庭の全体図


13時50分、内部を見学するため南殿の番所へ。
14時にボランティアガイドの方の案内がスタートすると言うので、
イヤホンを借りて、付いて廻った。
琉球王国時代に製作された漆器、絵画等の美術工芸品などを中心に
展示している。
ただしここから先は、撮影禁止となっている。


途中で撮影OKの個所があった。
御書院である。
国王が日常の執務を行った建物であり、取次役や近習など側近の者が
その周辺に控えていた。


また中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人を招き、
ここで接待を行うこともあった。


書院の庭園
城内で唯一の本格的な庭園である。
自然の露岩を利用し、琉球松と蘇鉄で築山や谷が表現されている。
書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える歌を詠んだ、とのこと。


鎖之間(さすのま
鎖之間は琉球王朝時代、王子の控所であり、諸役の者たちを招き、
懇談する施設であった。


内炉之間(うちろのま
御書院の裏座にあたり、お茶を点てて客人に振る舞っていた場所である。


順路には、諸所に琉球王朝時代の服装をした人がもの静かに立っていて、
我々見学者を迎えてくれる。


南殿から御庭を見る。


黄金御殿(くがにうどぅん)・寄満(ゆいんち
黄金御殿は、国王、王妃と王母のプライベートゾーンといえる建物で、
2階には居間や寝室があった。
寄満は、国王とその家族の食事の用意をした所で、御台所筆者、包丁、
あがま(女中)、御水使、下代などがいた。


近習詰所(きんじゅうつめしょ
近習頭や近習役、筆者、側近など、約20名あまりの役人が詰めていた場所。


表(行政)空間と内(居住)空間との取次
首里城は、政治を行う御庭側の「表」の空間と、居住スペースである御内原の
「内」の空間に分けられ、その境界は近習詰所と黄金御殿の間にあった。
一方が他方に用事がある場合、近習詰所の”鈴”を鳴らして合図を送った。


2階御差床(うさすか)と御書の扁額
2階の御差床は国王の玉座としてさまざまな儀礼や祝宴などが行われたところである。
儀式の際には床の間に香炉・龍の蝋燭台・金花・雪松などが置かれ、
壁には孔子像の絵が掛けられていた。
部屋の上部には、かつて中国皇帝から贈られた御書の扁額が掲げられていた。
「中山世土(ちゅうざんせいど)」の扁額はその一つであり、
”中山は代々、琉球王国の国である”との意味。


「輯瑞球陽(しゅうずいきゅうよう)」
”琉球が幸せであることを祈っている”の意味


「永祚瀛壖(えいそえいぜん)」
”海の向こうにある琉球を永く幸いに治めよ”の意味とされている。
これらの扁額は、古記録をもとに再現された。


唐幬豊(からはふ
この部屋は唐幬豊と呼ばれ、正月の儀式や中国皇帝への親書(上表)を
送る時などに、国王が唐衣装で椅子(御幬椅)に座り、御庭に並ぶ諸官とともに
儀式を執り行った重要な場所である。
御庭からこの部屋を眺めると、唐破風造りの屋根や龍の飾りに囲まれた
格式ある空間になっている、そうだ。


熱心に説明をしてくれているボランティアガイドのお嬢さん。
説明は、イヤホンを通してなので、離れていても良く聞こえる。


1階御差床(うさすか
中央の一段高い床が正殿で行われる政治や儀式の際に、
国王が出御する玉座「御差床」である。
この裏側には2階に通じる階段があり、国王はこの階段を降りて「御差床」についた。
左右には国王の子や孫が着座した「平御差床」がある。
御差床の両脇の朱柱には金龍と五色の雲が描かれ、天井は丸く上部に折り上げて
格式を持たせている。


17世紀に与えられた琉球国王印
中国の明朝(1368~1644)が滅びた後、清朝(1644~1912)の皇帝から
尚質王に与えられた国王印。
この前に琉球は、明朝から与えられた国王印を返している。


18世紀に与えられた琉球国王印
1756年に清朝の乾隆帝から与えられた国王印。
この国王印は、琉球王国が崩壊した時から行方不明になっている、とのこと。


正殿の木組み模型


南殿・正殿の見学が終わり、続いて北殿へ。


北殿には、御庭の模型があり、儀式の様子をビジュアルに見ることができる。
また、パネルなどで首里王府の位置や仕組みなどが解説されている。


儀式の様子
正殿の王に向かって深々と頭を垂れる、家臣たち。
整然と並んだ様は壮観である。


こちらは、冊封式典(さっぽうしきてん)の儀式の様子


この日案内をしてくれたボランティアガイドのお嬢さんともここでお別れだ。
『ありがとうございましたぁ』


北殿内の土産物売り場はけっこう広い。
かなりの人で賑っていた。
ここで100名城スタンプを押し、一安堵である。


ここでもいろんなシーサーが売られていた。


相変わらず土産物探しに余念がないかみさんたち・・・


出口へ向かう前に南殿の茶室でお茶をいただくことにした。
再度南殿の番所から入り、茶室へ向かった。
南殿の茶室(鎖之間:さすのま)入口
見学の時にこの傍を通ったが、このような案内には気が付かなかった。
かみさんたちはしっかり見ていたということである。


廊下を通って鎖之間に案内される。
鎖之間は琉球王朝時代、王子の控所であり、諸役の者たちを招き、
懇談する施設と言われていた。


「わだかまった松」
書院に招かれた冊封使たちは、この庭園の魅力を讃える詩を詠んだ。
その様子を「わだかまった松と蘇鉄とを、奇怪な格好をした石の間に、
互い違いに植えている」と伝えている。
(わだかまった松:地を這うような広がりのある樹高の低い樹形の松)


裏御座
鎖之間の裏座にあたり、お茶を立てた場所。
御書院にあったものと同じ造りである。


我々がお茶をいただくのは御鎖之間だ。


出されたのは、琉球王朝時代の伝統菓子とジャスミンの香りがするさんぴん茶。
お茶はお代り自由である。


琉球王朝時代の伝統菓子は、
花ぼうる・くんぺん・ちいるんこう・ちんすこうの4種類。
これで310円というから安い。


首里城の全てとまではいかないが、大方の所は見たので、
出口へ向かった。


京の内(きょうのうち
城内最大の祭祀空間(信仰儀式の場)である。


京の内は、神聖な御嶽が数多くあり、”聞得大君”などの神女により、
王家繁栄・航海安全・五穀豊穣が祈られた。


西(いり)のアザナ(展望台)へ。


展望台からの景色(1)
那覇市内
あいにくの雨模様で遠くまでは見渡せなかった、残念!


展望台からの景色(2)
奉神門とその後ろに正殿の屋根が見える。


展望台からの景色(3)
首里社館(首里城公園レストセンター)


木洩門(こびきもん
王朝時代、首里城の建物の建設や修理、石積修復工事の
資材搬入時に使用され、普段は石を詰めて閉じられていた。
現在は、見学ルートの入口になっている。


木洩門を出た所に首里城跡の碑があった。


レストセンター首里社館レストラン
昼食を摂った所である。


レストセンター首里社館の中を抜けると、総合案内所の前に出た。


首里高校の向いには玉陵(たまうどぅん)がある。
玉陵は、第二尚氏王統の陵墓である。


駐車場へ戻る前に、玉陵を見ておきたい。
かみさんたちは先に駐車場に戻りたいと言うので、一人で玉陵へ。


玉陵奉円館入口で、観覧券(300円)を購入。


玉陵に関する資料は奉円館の地下室に展示されていた。


玉陵全体模型
玉陵は1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、
第二尚氏王統の陵墓となった。


墓室は3つに分かれている。
東室(左側)は、洗骨後の王と王妃の墓室となっている。


西室(右側)には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られた。


中室(中央)は洗骨前の遺骸を安置する部屋であった。
通常は何も置かれていない。


歴代王の蔵骨器(写真)
玉陵の墓室には遺骨をおさめた蔵骨器が全部で70基あり、
ここではその中の27基を展示している。


歴代王の蔵骨器(写真)


骨壺が展示されていたが、
この骨壺は、那覇市内から発見されたもので、玉陵のものではない。


こちらはサンゴ石製石厨子


奉円館を後にして、ガジュマロの並木道を進むと、


玉陵に到着した。
高い石の塀に囲まれている。


最初の門を潜ると、


中庭のような広場がある。


次の門を潜った先に・・・


玉陵が現れた。
全体のパノラマ写真


東室(左側)


中室(中央)


西室(右側)


狛犬(左)
雌獅子


狛犬(中央)


狛犬(右)
雄獅子


首里城・玉陵の見学が終わり、この日の宿泊先がある、
那覇市内へ向かって車を走らせた。


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