ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第6回 掛川宿~浜松宿(2日目)

2017年02月07日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2017年2月7日(火)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第6回目は、掛川宿(JR掛川駅)~浜松宿(JR浜松駅)を
2日間かけて歩いた。
2日目は、見付宿から浜松宿までの約15Kmを歩いた。

ホテルの朝食
野菜を中心に和食にした。


7時57分、ホテルを出発!
今日も風が強い。


コンビニで風除け用にとマスクを購入。
まともに風が顔に当たるのを防げるので寒さ凌ぎにもなるだろう。


8時13分、磐田北小学校前を通過し、


8時18分、県道86号と宿場通りの交差点に到着。
昨日の続きである宿場通りを右に進むと、直ぐに見付宿の標識があった。
この辺りが見付宿の中心だったようだ。


見付宿の標識の裏手に旧見附小学校があった。
学制発布後まもない明治八年(1875)に落成した現存する日本最古の
洋風木造小学校校舎である。
当初は4階建てだったが、明治16年に増築されて今の5階建てとなった。


旧見附小学校の隣に淡海国玉(おうみくにたま)神社がある。
遠江国の総社であり、本殿・幣殿・拝殿からなる。
創立年は不詳であるが、平安時代の貞観年間(759年~877年)に創立されたと伝えられ、
「延喜式」に記録される神社である。


淡海国玉神社の門を潜ると、


拝殿がある。
御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと
古来より遠江国の総社として広く崇敬されている。
総社とは国司が国内(遠江国)の神社を巡拝するのに便宜をはかり、
総社をお参りすれば国内(遠江国)のすべての神社をお参りしたのと同様とされた。
つまり遠江の各神社の神様が祀られているということになる。


見付宿脇本陣大三河屋門
大三河屋は初めは旅籠屋だったが、文化二年(1805)に脇本陣となった。


この門は、2本の本柱上に冠木を渡し、その上に梁と切妻屋根を載せている。
武家や商家の屋敷の門には棟門が使われるが、脇本陣の玄関を飾るためか、
小さいながら薬医門の形をした門である。


姫街道追分
姫街道は、東海道見付宿と御油宿を結ぶ東海道の脇街道である。
浜名湖の北側、本坂峠を越える道で、本坂道・本坂通りとも言う。


追分の道案内表示
府八幡宮0.8Kmとある。


府八幡宮方面へ進むと、歩道に木戸跡と書かれた看板が。
この位置に木戸があったということだろうか・・・


加茂川を渡り、ひと際目を引くのがこの表門である。
これは徳川家康が「別荘」として中泉村に築かせた中泉御殿の門を
移築したものと伝えられている。
もともとは城門の一種といわれる総欅造りで、素朴な建築美を湛え、
市内に残る代表的な江戸時代の門として、昭和57年(1982)11月、
市の文化財に指定された。


表門の脇を進むと寛政元年(1789)建立の山門(鐘楼堂)がある。


階段を上ると時宗の宗祖一遍上人像が建てられている。
『よろず生きとし生けるもの 山河草木 吹く風立つ波の音までも
念仏ならずと言うことなし』


山門を潜ると、右側に楠の巨木が現れる。
樹高18m、根回り13.7m、胴回り7.5m、推定樹齢500年という老大樹で、
そのばかでかさに圧倒される。


今なお樹勢は極めて旺盛で、保存状態もよく、昭和57年(1982)11月、
市の文化財(天然記念物)に指定された。


この梛(なぎ)の木は、マキ科の常緑高木で、幹が堅く、直立して3m以上になる木で、
葉は楕円形で先が鋭く尖って厚く、多数の埋もれた脈が縦に平行しているため
横には切れにくゝなっている。
そのためか、昔婦人がこの葉を鏡の裏に入れておき、男性と縁が切れない
おまじないにしたとか、弁慶が力自慢にこの葉を千枚重ねて横に切ろうとして
失敗した・・・という話も残っている、そうである。
昭和57年(1982)11月、隣の楠とともに市の文化財(天然記念物)に指定された。


東福山西光寺
このお寺は東福山西光寺と言い、阿弥陀如来をご本尊とする時宗の古刹である。


本堂内部
文永二年(1265)真言宗の傾木和尚によって創建されたが、
建治・弘安年間(1280年前後)この地を訪れた時宗の開祖である
一遍上人(1239~89)を迎えて改宗し、時宗の修業道場となった。


本尊の阿弥陀如来像


日限地蔵(右)と薬師如来坐像(左)


日限地蔵尊は、江戸時代の元和年間(1615~1624)に
東福門院(2代将軍徳川秀忠の娘・源和子)が寄進したもの。
昔から霊験あらたかな尊像として信仰者が多く、11月14日の大祭及び
毎月14日の例祭には多くの参拝客で賑わう、そうである。


薬師如来坐像
遠江四十九薬師霊場第48番札所として、病気平癒を願う人々の
篤い信仰を受けている、とのこと。


加茂川橋の傍に西木戸跡のモニュメントがあった。
往時は、加茂川橋に西木戸があった。


西光寺を後にして県道44号(旧東海道)を進むと、遠江国分寺跡があった。


この手洗石は、今から1250年前の奈良時代に聖武天皇の勅願で建立された
国分寺の礎石をくり抜いて作られたもの。(説明板)


遠江国分寺は、遠江四十九薬師霊場の一番札所でもある。


ここ遠江国分寺は、昭和26年(1951)に全国の国分寺調査に先がけて発掘調査が行われ、
昭和27年(1952)国指定の特別史跡(国宝と同格)となった。
国分寺は金堂を中心に七重塔・講堂・中門・回廊などの伽藍が配置されていた。


金堂跡
金堂は、本尊を安置した主要な仏殿である。
礎石及び根石から間口27.6m、奥行14.4mの重層入母屋瓦葺であったと推定される。
(案内板)


講堂跡
堂舎・僧坊・経蔵・食堂・政所・鐘楼など
講堂の周辺に多くの建物があったと推定されるが、未調査のため不明。
(案内板)


塔跡
15m四方の基壇の上に、高さ66mに及ぶ七重塔が立ち、
紫紙金字の「金光明最勝王経十巻」が納められていたと推定される。
(案内板)


築地塀跡
国分寺の西境を表すもので、昭和の初め頃には南北270m、幅3m、高さ1mの
土塁状の高まりがあったと記録されている。
(案内板)


遠江国分寺の向いに府八幡宮がある。


奈良時代に桜井王が遠江国司として赴任した時、
国内がよく治まるようにと、建立したと伝えられている。
楼門は、嘉永十二年(1635)の建立。
入母屋造りの純和様建築の随身門で、静岡県指定文化財。


中門
嘉永十二年(1635)に建立、その後文化年間(1804~1818)に再建された。
楼門は純和様建築だが、中門は禅宗様式となっている。
磐田市指定文化財


拝殿付幣殿は、嘉永十二年(1635)に建立された。
正徳四年(1714)に再建され、今日に至っている。


拝殿内部
祭神は、誉田別命・足仲彦命・気長足姫命


本殿
元和三年(1617)に建立された。
三間社流造となっている。


武内社の御祭神武内宿禰(たけうちのすくね)は、
景行・政務・仲哀・応神・仁徳と五代の天皇に仕えた方で、
古来より長寿の神様として崇敬されている。
長寿すなわち永きに亘り、健康でボケる事無く活躍されたという故事により、
”ボケ封じの神様”とされているので、参拝して下さい、との案内がある。
授与所で「ぼけ封じ成す守」を授与している、とのこと。


磐田と言えばサッカーのジュビロ磐田のホームタウン。
ビル街の歩道には監督や選手の足型を見ることができる。


足型だけではなく、手形もある。


9時34分、磐田駅2つ手前の交差点を右折し、旧東海道を進む。


緩やかに上り下りする旧東海道が続く。


9時43分、中泉交流センター前を通過


9時51分、県道261号に合流し、振り返ってみたところ。
旧東海道(右側)のこの坂道を大乗院坂と云う、そうだ。
この坂道の途中に山伏の寺「大乗院」があった、とのこと。


県道261号に合流して直ぐ、左手に「くろん坊様」が祀られている。
黒棒大権現は、旧東海道筋で、現在地の西約100mの田んぼの中にあった祠を移したもので、
咳や熱病の神様とされている。
インド人の旅僧が、手にかけられて金品を奪われてしまったので、土地の人々が
手厚く葬ったものと云われており、毎年11月3日が縁日とされている。


松の木が点在する。


10時3分、宮之一色一里塚跡に到着した。
日本橋から数えて63番目の一里塚である。


現在の一里塚は昭和46年に復元されたもの。


宮之一色秋葉山常夜灯
この常夜灯(灯籠)は、平成8年に部分改修された。
棟札から文政十一年(1828)に建てられたものと判明。
竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ、数ある灯籠の中でも大変貴重なもの。
風よけに灯籠の周りを板で囲み、上部は灯りが漏れるよう格子になっている。


「うなぎ屋」が現れた。
浜松と言えば”うなぎ”というイメージがある。
この日は、できれば”うなぎ”を食べたいものだが、
まだ10時13分、ちょっと早すぎる。
この日のゴール浜松駅に着いてからでも遅くはないだろう。


森下付近で道が二つに分かれていた。
何も標識はなかったが、左の道を進むことにした。


住宅地を進むと、「東海道と歴史の道」の標識があった。


「東海道と歴史の道」の標識の直ぐ先に郷社・若宮八幡宮があった。
明治時代に周辺の29の村社を合祀した郷社である。


若宮八幡宮の拝殿


拝殿内部
簡素だが、厳かな雰囲気が漂う。


若宮八幡宮の例大祭は、10月第2土・日曜日に行われる、とのこと。
土曜日には奉納相撲が行われ、日曜日には17台の山車が神社に集まる、そうだ。
さぞ賑やかなことだろう。


長森立場
江戸時代、宿場と宿場をつなぐ街道筋の主な村(間村)には立場という、
旅人や人足、駕籠かき、伝馬などの休憩所が設けられていた。
明治時代以後は人力車や馬車などの発着所、またその乗客・従業員の
休憩所となった。
浜松宿境まで二里十七町(9.7Km)とある。


木内建設㈱量産住宅遠州工場の前を右に曲がって進むと、


源平新田公民館の前に天竜橋跡の碑があった。
天竜川は、明治の初年まで渡船によって通行していたが、明治六年(1873)
架橋の第一段階として船橋の計画が出され、翌明治七年(1874)二月、
源平新田から中野町村に船橋が完成した。
明治九年になり、木橋に架け替えられ、昭和八年、国道に現在の鉄橋が完成した。


11時2分、天竜川の堤防に出た。


これが天竜川橋か、けっこう長い!
1000m以上はあるだろう。


県道261号が走る天竜川橋には歩道はなかった。
交通量も多く、これでは人が歩いて渡るのは難しい。


50mほど上流に国道1号が走る新天竜川橋があった。
こちらには立派な歩道があった。


11時6分、新天竜川橋を渡る。
向い風がめっちゃ強い。風速10-15mはあるだろう。
帽子は被らないで進むことにした。


新天竜川橋の真ん中を少し過ぎた辺り。
まだ先は長い。


対岸が近づいてきた。


11時20分、新天竜川橋を渡り終わった。
14分かかったことになる。
渡り切った所に小さな公園があった。


天竜川橋の歴史
明治9年から昭和8年までは「木橋」
江戸時代は渡船で往来していたが、その後小舟を並べて連結した「舟橋」が設けられ、
明治9年に「木橋」が完成した。


天竜川橋の歴史
昭和8年完成の天竜川橋
国道1号天竜川橋の渡り初めの写真。
それまで有料だった橋が無料で渡れるようになった。


そしてこれが現在の天竜川橋だ。


天竜川沿いに旧東海道が続いている。


横町通り
天竜川上流で切り出された木材は、「いかだ」に組まれて川を下り、中野町で陸揚げされた。
ここ横町通りは、筏師や帆掛け船の船頭さんが泊る船宿や銭湯・床屋・魚屋・小料理屋
などが立ち並ぶ、大変賑やかな通りだった、とのこと。


天竜川を渡った旅人は、六所神社から真っ直ぐ西へ伸びる東海道を京へ向かう。
その前に六所神社に参拝して行こう。


六所神社


天竜川の堤防に、舟橋跡・天竜川木橋跡の木柱碑があった。


中町通り辺りから六所神社方面を望む。
真っ直ぐな道である。


東橋
昔ここには小さな川が流れていて、東橋という土橋が架かっていた。
この橋から天竜川に至る東海道沿いには旅館や料理屋が軒を連ねていた、そうだ。


旧東海道を西に進む。


軽便鉄道軌道跡
説明板によると、
明治四十二年(1909)から、浜松~中野町の11駅間を走っていた。
「けいべん」と親しまれたこの列車は、ラッキョウ型の細長い煙突を持ったミニSLで、
客車一両を引いて、家並みの軒先すれすれをのんびり走っていた、そうである。


かやんば(萱場)高札場と書かれた表示杭があった。
説明板の文字はすっかり消えていて、何と書かれているか全く読むことが出来ない。
新しいものに取り換えてもらいたいが・・・


松林禅寺
遠江四十九薬師の第八番札所である。
寅年に開帳されるので「寅薬師」と呼ばれる。
入口には鎖が張られており、工事中のため中には入れなかった。


金原明善翁(めいぜんおきな)生家
金原明善は天保三年に生まれた。
明治に入り「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川の治水・利水事業に
私財を投じ天竜川の治水事業に取り組んだ明治時代の実業家である。


金原明善記念館
明治大正に亘って一世の先覚者・事業家として、不朽の偉業徳行を実践した
天竜翁金原明善の業績を顕彰し、その遺風を永く後世に伝えるため設立された。
記念館には明善の遺品遺墨を始め、関係資料や明善と親交のあった人の
遺墨関係文書など、貴重な資料が数多く陳列保存されている。


本坂通(姫街道)安間起点
この地点は本坂通(姫街道)の起点であり、もと「□□(従是)鳳来寺」と
期された道標があり、本坂通(姫街道)が鳳来寺道でもあったことを示している。
この起点の西には江戸から64番目の安間一里塚が街道の両脇にあったが、
現存しない。


旧東海道(右)は県道312号(左)と合流。
(東の方を振り返って見ているので左右逆になっている)


安間川を渡り、


国道1号浜松BPを潜って進む。


この辺りの松並木は、何故か片側だけが多い。
枯れてしまったのか、道路拡幅工事で伐採されてしまったのか・・・


斜めに伸びている松の木の傍に立場跡の説明板が。
立場は宿場と宿場の間に設置された休息所で、旅人や駕籠かき、馬子が一休みした。
多くの場合茶屋があって、土地の名物を販売していた。
見付宿と浜松宿の間に置かれたここの立場には藤棚があり、
旅人の目を楽しませていたそうだ。


12時24分、浜松まで5Kmの地点を通過
天竜川駅まで左折して0.4Kmとある。


天竜川駅入口交差点を渡った道路右側に村社・六所神社が見えた。
道路の反対側だったので、写真だけにした。


12時半を過ぎ、少しお腹が空いて来た。
道路沿いのしゃぶしゃぶバイキング店や、


牛丼屋、うどん屋などの看板が気になりだした。
しかし、この日は”うなぎ”を食べることに決めているのでここは我慢。


12時45分、浜松アリーナ前を通過


植松原の標識を過ぎ、
国道152号と合流する子安交差点を左折し、50m先をさらに左に折れると、


12時59分、子安神社に到着した。
当地の庄屋伊藤家の祖先が寛永十二年(1635)浅間神社の分霊を祭り、
家の守護神としたことに始まるが、


伝説には源範頼が娘の無事出産を願って創建した話が残されている。


13時14分、浜松市街まで3Km地点を通過


芳川に架かる琵琶橋を渡り、


13時30分、浜松東警察署を通過し、


東鎧橋を渡ると、


浜松駅まで2Kmの表示が。
間もなくゴールだ。


旧掛塚街道入口と書かれた木柱を過ぎ、


馬込橋を渡ると、


浜松宿外木戸跡と書かれた木柱があった。
家康が長年住みなれた浜松城を去り、馬込橋を渡り駿府城に向かう時、
なごり惜しんで何度も浜松城を振り返ったという。
この辺りにあった見返りの松は、大正十年(1921)の火事により
焼失してしまったそうだ。


高層ビルが多くなり、浜松市の中心街に入ったことを実感する。


浜松駅入口の国道152号板屋町交差点を左折し、


広小路を浜松駅へ向かう。


左にアクトシティ、右を見ると、


浜松駅ビルのメイワンが迫る。


13時58分、浜松駅に到着した。


浜松駅東口で見つけた創業明治42年の老舗うなぎ屋は、
何と閉店していた。


”うなぎ屋”を求めて駅南側のガード下へ行ってみると・・・
”うなぎ”の文字が。


「丸浜」と言う”うなぎ”専門店だった。
『良かったぁ これで”うなぎ”が食べられる』一安心である。


先ずは生ビールを注文。
お腹が空いて、疲れもあったので、殊の外美味かった。


うな重竹(2600円)を注文した。
久しぶりのうなぎ、本当に美味しかった。


帰りの新幹線から見えた掛川城


この日の富士山は、最高の姿を見せてくれた。
『ありがとうっ 富士山っ』


この日は、見付宿から浜松宿までの約15Kmを歩いた。
正面からの強風に悩まされながらも天竜川を無事渡ることができ、
ほっとしている。
その一方、見処がたくさんありすぎ、中には見落としてしまったものもあり、
その点が悔やまれる。

この日の万歩計は、32,000歩余を計測していた。

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