2017年2月19日(日)
沖縄本島北部の丘陵上に位置する今帰仁城(なきじんじょう)を訪問した。
今帰仁城は、別名を今帰仁(なきじん)グスク、北山城(ほくざんじょう)と言う。
14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。
今帰仁城の創建は、明確ではないが、13世紀末から14世紀初めにかけて造られ、
14世紀前半頃に古期石灰岩を利用した石垣が積まれ、15世紀前半には
城域が拡張されて、主郭(本丸)・大隅・志慶真門郭(しげまじょうかく)など
10の郭からなる現在の姿になったと考えられている。
記録では、1383年に怕尼芝(はねじ)が今帰仁城主になり、その後3代にわたり、
北山王を名乗ってこの地を統治した。
琉球全土を統一しようとした中山王尚(しょう)氏の攻撃にも耐えたが、
調略によってついに1416年に城は陥落。
尚氏のものとなった城は、慶長十四年(1609)、薩摩軍に攻められて炎上、
廃城となった。
その後も城は聖域・拝所として存続した。
自分の予備知識としてはこの程度で、
沖縄の城を訪問するのは、もちろん初めてである。
先ず「今帰仁村グスク交流センター」の券売所で観覧チケット(400円)を購入する。
城跡入口の看板の先に、
今帰仁城跡屋外模型があった。
城跡には1.5Kmにも達する壮大な石垣が当時のまま残っている。
南北350m、東西800m、面積37,000㎡。
県内最大級の城(グスク)として名高い。
平成12年に世界文化遺産に登録されている。
順路に従って城跡へ。
前方に低い石垣が見えて来る。
外郭と発掘された建物跡
高さは2m前後と比較的低い石垣が延長数百m蛇行して続いている。
2007~2010年の発掘調査で、規模の大きな石造りの基壇と呼ばれる
石積み遺構が確認された。
基壇の上には木造の建物が建築されたと考えられるが、
建物の礎石などが失われていたため、建物の規模は分かっていない、そうだ。
城内の郭の中でも基壇や石積みが多用される建物は主郭や大庭、御内原など
城内中枢部に限られることから、ここに建てられた建物は重要な機能を担った
建物と推定されている。
発掘で見つかった建物跡の年代はおおよそ16世紀頃と考えられている、とのこと。
炉跡を伴う堀立柱建物跡
平成19~20(2007~2008)年の調査で炉跡とそれに伴う堀立柱建物が確認された。
炉の最下層から多くの炭化種子(イネ・ムギ・アワ等)が確認されたことから、
調理の際に使用された食に関わる遺構と考えられる。
この場所(外郭)は、台所として使用されていたものと考えられる、とのこと。
大隅(ウーシミ)の城壁
古期石灰岩を使用した大きくカーブした城壁は圧巻である。
「大曲り」の城壁
本土の城とは明らかに異なる曲線だ。
大隅の城壁をバックに記念撮影
快く撮ってくれたのは台湾からの観光客だった。
平郎門入口でチケットの半券を渡し、
平郎門を潜る。
平郎門の名称は、1713年に編集された『琉球国由来記』に
「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場する。
1742年に描かれた『今帰仁旧城図』の史料にはこの場所が本門として記されている。
2つの史料から今帰仁城の重要な門がこの門で、平郎門と呼ばれていたことが分かる。
現在見る門は昭和37年の琉球政府時代に修復されたもの。
銃眼を設けた石造りの門が特徴である。
平郎門を潜ると、その先の大庭へと続く石階段(戦後に造られたもの)の左右に
カンヒザクラ(寒緋桜)の並木がある。
別名ヒカンザクラで、花色は濃い桃色、全国で最も早く1月中旬には開花する。
毎年1月~2月には桜祭りが行われている、そうだ。
訪れた時(2月19日)は、満開を過ぎたばかりと思える状態だった。
一見桃の花か紅梅のようにも見えたが、間違いなく桜だった。
寒緋桜の並木が続く。
右手に旧道入口があった。
平郎門から直線的な石階段は、1960年代に整備された階段である。
本来の登城道は、平郎門から城内に向かって石階段の右手側にある。
(旧道については、後述する)
石階段の左手に大隅(ウーシミ)への入口があったが、
現在、立入禁止になっている。
大隅は、かつて、戦時に備え馬を養い、城兵達の訓練場であったと伝えられている。
また、ここには城外に抜けることができる抜け穴(洞窟)がある、そうだが、
金網で塞がれていて中に入ることはできない、とのこと。
寒緋桜の並木を大隅辺りから平郎門方面を見たところ。
寒緋桜の並木を上って行くと、大庭(ウーミャ)と呼ばれる場所に出る。
大庭を取り囲むように正殿(主郭)、北殿、南殿の建物が配置していたと考えられ、
行事等に利用された重要な広場である。
(周囲の景色を見渡しているうち、撮影する機会を逃してしまった)
大庭の一角に歌碑が建てられていた。
志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑
『今帰仁の城 霜成りの九年母(くにぶ) 志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい』
およそ次のような意味だそうだ。
今帰仁城にようやく世継ぎが誕生した。
霜が降りるころ、つまり季節はずれに実ったみかんのようだ。
志慶真乙樽はこどもをあやして遊んでいる。
みかんを輪にして、首にかけたり、はずしたりしている。
ソイツギ(城内下之御嶽)
今帰仁城内には御嶽(ウタキ)のイベ(最も聖なる場所)が2つある。
大庭の北西にあるソイツギは、『琉球国由来記』(1713年)に「城内下之御嶽」、
神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、旧暦8月のグスクウイミという祭祀の時、
今帰仁ノロが五穀豊穣を祈願する。
御内原にあるテンチジアマチジ(城内上之御嶽)や神ハサギ跡とともに
祭祀場として拝まれる、とのこと。
ちょうど男性がお祈りをしており、その横で女性が三線を奏でていた。
北殿跡の北側の一段高いところを御内原(ウーチバル)と呼んでいる。
御内原は、今帰仁城に仕えた女官の生活の場所と伝えられ、
城内で最も重要な御嶽(ウタキ)のイベがある。
御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて
今帰仁城の大隅の城壁の全てを望むことが出来る。
御内原跡からは今帰仁の集落と東シナ海が一望できる。
手前は大隅
戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられている。
御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて
今帰仁城大隅の城壁の全てを望むことが出来る。
御内原跡からの眺望(パノラマ画像)
テンチジアマチジ(城内上之御嶽)
御嶽(ウタキ)とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、
神が存在、あるいは来訪する場所のことである。
テンチジアマチジは御内原の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽である。
最も神聖な場所とされ、昔は御内原とこの区域は男子禁制で、城内の女官によって
子孫繁栄・国家安泰・五穀豊穣を祈願したと伝えられている。
大庭から志慶真門郭(しげまじょうかく)を望む。
大庭の主郭(俗称本丸)へ。
主郭に設けられた展望台
主郭展望台から志慶真門郭(しげまじょうかく)を望む。
曲がりくねった城壁が眼下に一望できる。
主郭(本丸)
城内で最も中心的な建物があった場所である。
主郭にある火の神の祠
この祠は、「今帰仁里主所火の神」と呼ばれ、第二尚氏時代の
北山監守一族の火の神が祀られている。
北山監守は1665年に首里に引き揚げるが、かつての根所(旧宅地)の
火の神として崇められてきた。
旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人が城ウイミの祭祀を現在も行っている。
祠の中には香炉と火の神を象徴する石が置かれており、今でも門中の行事である
今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えない、そうである。
志慶真門郭(しげまじょうかく)へ。
志慶真門を潜ると、
正面にクバの御嶽が現れる。
今帰仁城の西にある古生代~中生代の石灰岩からなる丘陵である。
琉球の時代から続く聖地で、地元ではウガーミと呼ばれる神域で、とのこと。
右手には主郭の高い石垣が続いている。
左手に志慶真門郭への階段がある。
この郭は、志慶真門郭と呼ばれている処で、城内で最も東に位置する郭である。
ここには城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられる、そうだ。
志慶真門郭は昭和55年度~57年度に発掘調査が実施され、
志慶真門郭と大庭(ウーミャー)との通路石敷が確認されている。
発掘調査で4つの建物があったことが分かった、そうだ。
建物は6m x 6m、あるいは4m x 5m程度の規模で中に炉跡が見つかっている。
瓦が出土していないことから、茅か板葺き屋根の堀立柱建物だったと考えられている。
出土遺物には武具類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、
「家族単位」の生活が営まれていたと考えられている、とのこと。
石垣は地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工法がなされている。
志慶真門郭から主郭(本丸)の城壁を望む。
志慶真川に面して築かれた城壁がそそり立つ様は壮観である。
志慶真門郭を後にして、主郭に戻る。
旧道の近くにカラウカーと呼ばれる所があった。
カラウカーは、常時水をたたえている場所で、かつて女官たちが髪を洗ったり、
水量で吉凶を占ったりした場所と伝えられている。
旧暦7月盆明けに行われる今泊区の大折目の際には、
今帰仁ノロ率いる神人たちが巡拝する場所となっていた、とのこと。
旧道(下り口)
1980年代の発掘調査によって石敷きの小道が発見された。
曲がりくねった大きな岩盤の谷間を利用し、防衛機能上幅は狭く急な小道となっている。
大きな岩盤の谷間を利用して道幅を狭く造り、敵兵が攻め入っても
大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないよう工夫された造りになっている。
岩だらけの下り道は歩き難いことこの上ない。
旧道を下る時に見えたカーザフ
城内でも一段と低い所で、カーは川や湧泉を、ザフは迫で谷間を意味する。
ここの谷間は自然の石が露頭しており、岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、
かつての城壁として鉄壁を誇ったものと想像されている。
旧道を下って行くと、寒緋桜の並木道の旧道上り口に出た。
寒緋桜の並木道の先は、平郎門となる。
平郎門の脇に今帰仁城跡碑があった。
外郭の外れにミームングスクがあるとのことなので、行ってみることに。
今帰仁ノロ殿内火の神の祠と書かれた標識があった。
かつて今帰仁ノロの居住地であったとされ、現在は火の神が残されている。
ハンタ道
現今泊集落から今帰仁城への里道は「ハンタ道」と呼ばれている。
この道は今帰仁城が城として機能していた頃の登城道として利用された
歴史の道である。
ハンタ道のハンタとは崖を意味する。
今帰仁城の東側を流れる志慶真川は、深い谷になっていて、断崖絶壁が続く。
そこから、ハンタという名前が付けられた、そうだ。
ハンタ道を下って行くと、
「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」があった。
ノロとは琉球国の神職で、琉球王国統一後は首里の印が押された辞令書が発行され、
ノロが任命されていた、そうである。
今帰仁ノロは今帰仁・親泊・志慶真ムラの3つのムラの神役を統率して
今帰仁城内及び城跡周辺の聖地で年中祭祀を司祭していたノロである。
祠の内部
コンクリートブロックの上に香炉が3つ並んでいた。
薄暗いハンタ道を下って行くと、
別の祠があった。
「供のかねノロ殿内火の神の祠」である。
今帰仁ノロの次位神役で、「供の」は「お供(従者)」の語意と解されている。
この祠は別名「下の殿」と呼ばれる。
現在は、他の拝所と同様に祠だけが残るが、
ノロ屋敷の旧宅であったと考えられている。
少し広い道に出た。
ハンタ道は右の方へ案内されている。
70mほど進むと、ミームングスクへの案内標識があった。
進んでみると、岩が無造作に積み上げられたような状態になっていた。
ミームングスクは今帰仁城の出城ではなかったかと考えられている。
高さ約1.5mの石積みが方形状に積まれている、とのことだったが、
かなり崩れている状態で、原形を留めていない。
模型のミームングスクとはかなり異なる。
修復が必要ではないかと思われるが・・・
ミームングスクからの帰りは、ハンタ道とは別の道を通った。
「阿応理屋恵(あおりやえ)火の神之祠」の案内標識があった。
今帰仁城跡周辺には3つの火の神の祠があるようだ。
①「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」
②「供のかねノロ殿内火の神の祠」
③「阿応理屋恵火の神の祠」
今帰仁城のすぐそばには、ノロが3人いたことになる。
阿応理屋恵ノロは国頭地方全体を管理するノロで、
今帰仁ノロや供のかねノロより上位の役職らしい。
今帰仁ノロが地方公務員なら、阿応理屋恵ノロは、
国家公務員ということになる、そうだ。
「阿応理屋恵火の神の祠」の内部
「今帰仁村歴史文化センター」
今帰仁城の入場券の半券で入ることができる。
今帰仁城跡から出土した出土品の展示や今帰仁村の歴史に関する企画展を行っている。
最初に観覧チケットを購入した「今帰仁村グスク交流センター」で
念願の今帰仁城の「100名城」スタンプを押した後、古宇利島へ向かった。
沖縄の「100名城」中城城・首里城は翌20日を予定している。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。
沖縄本島北部の丘陵上に位置する今帰仁城(なきじんじょう)を訪問した。
今帰仁城は、別名を今帰仁(なきじん)グスク、北山城(ほくざんじょう)と言う。
14世紀、琉球王国成立以前に存在した北山の国王・北山王の居城であった。
今帰仁城の創建は、明確ではないが、13世紀末から14世紀初めにかけて造られ、
14世紀前半頃に古期石灰岩を利用した石垣が積まれ、15世紀前半には
城域が拡張されて、主郭(本丸)・大隅・志慶真門郭(しげまじょうかく)など
10の郭からなる現在の姿になったと考えられている。
記録では、1383年に怕尼芝(はねじ)が今帰仁城主になり、その後3代にわたり、
北山王を名乗ってこの地を統治した。
琉球全土を統一しようとした中山王尚(しょう)氏の攻撃にも耐えたが、
調略によってついに1416年に城は陥落。
尚氏のものとなった城は、慶長十四年(1609)、薩摩軍に攻められて炎上、
廃城となった。
その後も城は聖域・拝所として存続した。
自分の予備知識としてはこの程度で、
沖縄の城を訪問するのは、もちろん初めてである。
先ず「今帰仁村グスク交流センター」の券売所で観覧チケット(400円)を購入する。
城跡入口の看板の先に、
今帰仁城跡屋外模型があった。
城跡には1.5Kmにも達する壮大な石垣が当時のまま残っている。
南北350m、東西800m、面積37,000㎡。
県内最大級の城(グスク)として名高い。
平成12年に世界文化遺産に登録されている。
順路に従って城跡へ。
前方に低い石垣が見えて来る。
外郭と発掘された建物跡
高さは2m前後と比較的低い石垣が延長数百m蛇行して続いている。
2007~2010年の発掘調査で、規模の大きな石造りの基壇と呼ばれる
石積み遺構が確認された。
基壇の上には木造の建物が建築されたと考えられるが、
建物の礎石などが失われていたため、建物の規模は分かっていない、そうだ。
城内の郭の中でも基壇や石積みが多用される建物は主郭や大庭、御内原など
城内中枢部に限られることから、ここに建てられた建物は重要な機能を担った
建物と推定されている。
発掘で見つかった建物跡の年代はおおよそ16世紀頃と考えられている、とのこと。
炉跡を伴う堀立柱建物跡
平成19~20(2007~2008)年の調査で炉跡とそれに伴う堀立柱建物が確認された。
炉の最下層から多くの炭化種子(イネ・ムギ・アワ等)が確認されたことから、
調理の際に使用された食に関わる遺構と考えられる。
この場所(外郭)は、台所として使用されていたものと考えられる、とのこと。
大隅(ウーシミ)の城壁
古期石灰岩を使用した大きくカーブした城壁は圧巻である。
「大曲り」の城壁
本土の城とは明らかに異なる曲線だ。
大隅の城壁をバックに記念撮影
快く撮ってくれたのは台湾からの観光客だった。
平郎門入口でチケットの半券を渡し、
平郎門を潜る。
平郎門の名称は、1713年に編集された『琉球国由来記』に
「北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス」として登場する。
1742年に描かれた『今帰仁旧城図』の史料にはこの場所が本門として記されている。
2つの史料から今帰仁城の重要な門がこの門で、平郎門と呼ばれていたことが分かる。
現在見る門は昭和37年の琉球政府時代に修復されたもの。
銃眼を設けた石造りの門が特徴である。
平郎門を潜ると、その先の大庭へと続く石階段(戦後に造られたもの)の左右に
カンヒザクラ(寒緋桜)の並木がある。
別名ヒカンザクラで、花色は濃い桃色、全国で最も早く1月中旬には開花する。
毎年1月~2月には桜祭りが行われている、そうだ。
訪れた時(2月19日)は、満開を過ぎたばかりと思える状態だった。
一見桃の花か紅梅のようにも見えたが、間違いなく桜だった。
寒緋桜の並木が続く。
右手に旧道入口があった。
平郎門から直線的な石階段は、1960年代に整備された階段である。
本来の登城道は、平郎門から城内に向かって石階段の右手側にある。
(旧道については、後述する)
石階段の左手に大隅(ウーシミ)への入口があったが、
現在、立入禁止になっている。
大隅は、かつて、戦時に備え馬を養い、城兵達の訓練場であったと伝えられている。
また、ここには城外に抜けることができる抜け穴(洞窟)がある、そうだが、
金網で塞がれていて中に入ることはできない、とのこと。
寒緋桜の並木を大隅辺りから平郎門方面を見たところ。
寒緋桜の並木を上って行くと、大庭(ウーミャ)と呼ばれる場所に出る。
大庭を取り囲むように正殿(主郭)、北殿、南殿の建物が配置していたと考えられ、
行事等に利用された重要な広場である。
(周囲の景色を見渡しているうち、撮影する機会を逃してしまった)
大庭の一角に歌碑が建てられていた。
志慶真乙樽(しげまうとぅだる)の歌碑
『今帰仁の城 霜成りの九年母(くにぶ) 志慶真乙樽が ぬきゃいはきゃい』
およそ次のような意味だそうだ。
今帰仁城にようやく世継ぎが誕生した。
霜が降りるころ、つまり季節はずれに実ったみかんのようだ。
志慶真乙樽はこどもをあやして遊んでいる。
みかんを輪にして、首にかけたり、はずしたりしている。
ソイツギ(城内下之御嶽)
今帰仁城内には御嶽(ウタキ)のイベ(最も聖なる場所)が2つある。
大庭の北西にあるソイツギは、『琉球国由来記』(1713年)に「城内下之御嶽」、
神名「ソイツギノイシズ御イベ」と記され、旧暦8月のグスクウイミという祭祀の時、
今帰仁ノロが五穀豊穣を祈願する。
御内原にあるテンチジアマチジ(城内上之御嶽)や神ハサギ跡とともに
祭祀場として拝まれる、とのこと。
ちょうど男性がお祈りをしており、その横で女性が三線を奏でていた。
北殿跡の北側の一段高いところを御内原(ウーチバル)と呼んでいる。
御内原は、今帰仁城に仕えた女官の生活の場所と伝えられ、
城内で最も重要な御嶽(ウタキ)のイベがある。
御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて
今帰仁城の大隅の城壁の全てを望むことが出来る。
御内原跡からは今帰仁の集落と東シナ海が一望できる。
手前は大隅
戦時に備え馬を養い、兵馬を訓練した場所として伝えられている。
御内原の北端からの眺望は、城内でも最も開けていて
今帰仁城大隅の城壁の全てを望むことが出来る。
御内原跡からの眺望(パノラマ画像)
テンチジアマチジ(城内上之御嶽)
御嶽(ウタキ)とは、琉球固有の祭祀施設、琉球の信仰における聖域の総称で、
神が存在、あるいは来訪する場所のことである。
テンチジアマチジは御内原の南東側、低い石垣で囲まれる御嶽である。
最も神聖な場所とされ、昔は御内原とこの区域は男子禁制で、城内の女官によって
子孫繁栄・国家安泰・五穀豊穣を祈願したと伝えられている。
大庭から志慶真門郭(しげまじょうかく)を望む。
大庭の主郭(俗称本丸)へ。
主郭に設けられた展望台
主郭展望台から志慶真門郭(しげまじょうかく)を望む。
曲がりくねった城壁が眼下に一望できる。
主郭(本丸)
城内で最も中心的な建物があった場所である。
主郭にある火の神の祠
この祠は、「今帰仁里主所火の神」と呼ばれ、第二尚氏時代の
北山監守一族の火の神が祀られている。
北山監守は1665年に首里に引き揚げるが、かつての根所(旧宅地)の
火の神として崇められてきた。
旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人が城ウイミの祭祀を現在も行っている。
祠の中には香炉と火の神を象徴する石が置かれており、今でも門中の行事である
今帰仁上りの重要な拝所として参詣者が絶えない、そうである。
志慶真門郭(しげまじょうかく)へ。
志慶真門を潜ると、
正面にクバの御嶽が現れる。
今帰仁城の西にある古生代~中生代の石灰岩からなる丘陵である。
琉球の時代から続く聖地で、地元ではウガーミと呼ばれる神域で、とのこと。
右手には主郭の高い石垣が続いている。
左手に志慶真門郭への階段がある。
この郭は、志慶真門郭と呼ばれている処で、城内で最も東に位置する郭である。
ここには城主に仕えた身近な人々が住んだと考えられる、そうだ。
志慶真門郭は昭和55年度~57年度に発掘調査が実施され、
志慶真門郭と大庭(ウーミャー)との通路石敷が確認されている。
発掘調査で4つの建物があったことが分かった、そうだ。
建物は6m x 6m、あるいは4m x 5m程度の規模で中に炉跡が見つかっている。
瓦が出土していないことから、茅か板葺き屋根の堀立柱建物だったと考えられている。
出土遺物には武具類・陶磁器・装飾品・子供用遊具などがあり、
「家族単位」の生活が営まれていたと考えられている、とのこと。
石垣は地山を削り、自然の岩を利用して積み上げる工法がなされている。
志慶真門郭から主郭(本丸)の城壁を望む。
志慶真川に面して築かれた城壁がそそり立つ様は壮観である。
志慶真門郭を後にして、主郭に戻る。
旧道の近くにカラウカーと呼ばれる所があった。
カラウカーは、常時水をたたえている場所で、かつて女官たちが髪を洗ったり、
水量で吉凶を占ったりした場所と伝えられている。
旧暦7月盆明けに行われる今泊区の大折目の際には、
今帰仁ノロ率いる神人たちが巡拝する場所となっていた、とのこと。
旧道(下り口)
1980年代の発掘調査によって石敷きの小道が発見された。
曲がりくねった大きな岩盤の谷間を利用し、防衛機能上幅は狭く急な小道となっている。
大きな岩盤の谷間を利用して道幅を狭く造り、敵兵が攻め入っても
大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないよう工夫された造りになっている。
岩だらけの下り道は歩き難いことこの上ない。
旧道を下る時に見えたカーザフ
城内でも一段と低い所で、カーは川や湧泉を、ザフは迫で谷間を意味する。
ここの谷間は自然の石が露頭しており、岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、
かつての城壁として鉄壁を誇ったものと想像されている。
旧道を下って行くと、寒緋桜の並木道の旧道上り口に出た。
寒緋桜の並木道の先は、平郎門となる。
平郎門の脇に今帰仁城跡碑があった。
外郭の外れにミームングスクがあるとのことなので、行ってみることに。
今帰仁ノロ殿内火の神の祠と書かれた標識があった。
かつて今帰仁ノロの居住地であったとされ、現在は火の神が残されている。
ハンタ道
現今泊集落から今帰仁城への里道は「ハンタ道」と呼ばれている。
この道は今帰仁城が城として機能していた頃の登城道として利用された
歴史の道である。
ハンタ道のハンタとは崖を意味する。
今帰仁城の東側を流れる志慶真川は、深い谷になっていて、断崖絶壁が続く。
そこから、ハンタという名前が付けられた、そうだ。
ハンタ道を下って行くと、
「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」があった。
ノロとは琉球国の神職で、琉球王国統一後は首里の印が押された辞令書が発行され、
ノロが任命されていた、そうである。
今帰仁ノロは今帰仁・親泊・志慶真ムラの3つのムラの神役を統率して
今帰仁城内及び城跡周辺の聖地で年中祭祀を司祭していたノロである。
祠の内部
コンクリートブロックの上に香炉が3つ並んでいた。
薄暗いハンタ道を下って行くと、
別の祠があった。
「供のかねノロ殿内火の神の祠」である。
今帰仁ノロの次位神役で、「供の」は「お供(従者)」の語意と解されている。
この祠は別名「下の殿」と呼ばれる。
現在は、他の拝所と同様に祠だけが残るが、
ノロ屋敷の旧宅であったと考えられている。
少し広い道に出た。
ハンタ道は右の方へ案内されている。
70mほど進むと、ミームングスクへの案内標識があった。
進んでみると、岩が無造作に積み上げられたような状態になっていた。
ミームングスクは今帰仁城の出城ではなかったかと考えられている。
高さ約1.5mの石積みが方形状に積まれている、とのことだったが、
かなり崩れている状態で、原形を留めていない。
模型のミームングスクとはかなり異なる。
修復が必要ではないかと思われるが・・・
ミームングスクからの帰りは、ハンタ道とは別の道を通った。
「阿応理屋恵(あおりやえ)火の神之祠」の案内標識があった。
今帰仁城跡周辺には3つの火の神の祠があるようだ。
①「今帰仁ノロ殿内火の神の祠」
②「供のかねノロ殿内火の神の祠」
③「阿応理屋恵火の神の祠」
今帰仁城のすぐそばには、ノロが3人いたことになる。
阿応理屋恵ノロは国頭地方全体を管理するノロで、
今帰仁ノロや供のかねノロより上位の役職らしい。
今帰仁ノロが地方公務員なら、阿応理屋恵ノロは、
国家公務員ということになる、そうだ。
「阿応理屋恵火の神の祠」の内部
「今帰仁村歴史文化センター」
今帰仁城の入場券の半券で入ることができる。
今帰仁城跡から出土した出土品の展示や今帰仁村の歴史に関する企画展を行っている。
最初に観覧チケットを購入した「今帰仁村グスク交流センター」で
念願の今帰仁城の「100名城」スタンプを押した後、古宇利島へ向かった。
沖縄の「100名城」中城城・首里城は翌20日を予定している。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(日付順)に戻る。
ウマさんの「日本100名城巡り」の目次(お城順)に戻る。