ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅱステージ第3回 興津宿~府中宿

2016年11月06日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2016年11月6日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から挑戦している。
今回は、都合の良い時間(日程)に気ままに歩くことを目的に、一人で歩くことにした。

第Ⅱステージ第3回目は、興津宿(JR興津駅)~府中宿(JR静岡駅)を歩いた。

東京駅で駅弁を買って行こう。


7時前という時間だが、大勢の人が駅弁を求めて、店内は混雑していた。


7時3分発の岡山行「ひかり461号」に乗り込む。


この日は新幹線から富士山を見ることができた。
(新富士辺り)


静岡駅には定刻の8時5分に到着。
東海道線上り8時22分発の興津行は、日曜日ということもあって、空いていた。


8時40分、この日の出発地興津駅に到着


8時44分、府中宿(静岡駅)を目指し、興津駅を出発!
国道1号を西へ向かう。


興津駅を出発して少し進んだところに理源寺があった。


理源寺の開山は、身延山久遠寺26世知見院日暹。
江戸時代初期、疫病で多数の死者が出た。
寺の裏を沢端川が流れ、その向こうに七面山という山がある。
村の代表者が身延の七面山を信仰して厄を逃れたという縁故から、
沢端川を身延七面山の春木川になぞらえ、身延の地形に合わせて
この寺が建立された、とのこと。


境内には日蓮上人像や、


日蓮上人像の近くに目の神様「意眼さん」を祀った祠がある。
法号「覚智院意眼日明尊位」は、若狭の国宮津城主の子で盲人。
身延山日朝上人の許に参詣の折にこの地にて死す。
29歳、短い一生であったが、目の不自由な人々のために尽くす。
「日朝さん」 「意眼さん」として尊敬される。


理源寺の少し先に興津宿公園があった。
小さな公園で興津宿の案内板などがあった。
興津宿は、東海道五十三次のうち、日本橋から17番目の宿場として栄え、
興津郷と称されていた。
地名のいわれは、「宗像神社」の興津宮をこの地に勧請したことに由来する、とのこと。


興津宿東本陣跡
興津宿には本陣が2軒あった。
東本陣は、教敬山耀海寺を開いた市川法清を祖にもつ市川家が勤めた。
延宝八年(1680)興津宿の大火では、自分のところも焼けたというのに
300両以上の大金を宿の人々に無利息で融通したという。


水口屋
江戸時代、水口屋は興津宿の脇本陣であり、明治以降は西園寺公望や伊藤博文など、
日本の政治経済の大物たちが数多く宿泊した。


塀越しに中を覗くと興津宿脇本陣水口屋跡の石碑があった。


興津宿西本陣跡
興津宿には本陣が2軒あり、西本陣は手塚家が務めた。
寛永十二年(1635)から明治三年(1870)まで東本陣の市川家と月番で営んでいた。


シャッターにイチローの手書きと思しき大きな絵が。
イチローの大ファンの自分としては、東海道とは無関係だが、載せることにした。
並んで撮れれば良かったのだが・・・


右手に清見寺が見えてきた。
清見寺は、臨済宗妙心寺派に属し、開山は関聖上人。


総門
総門に掲げられている「東海名區」の扁額は、朝鮮人錦谷居士筆による。


清見寺の全体写真


東海道線(静岡方面を望む)を跨ぎ、山門へ。


山門は、慶安四年(1651)に建築され、屋根は檜皮葺であったが、
明治二十二年(1889)に現在の瓦葺に改められた。


清見寺の仏殿
本尊は『釋迦如来』
天保十三年(1842)の再建。
正面には釋迦如来の坐像(家康公姫君静照院寄付)を泰安し、
両脇に迦葉、阿難の両尊者の像が安置されている、とのこと。


清見寺の大方丈と臥龍梅
文政八年(1825)の改築で、内陣には十一面観世音菩薩の坐像を泰安する。
大方丈前に「徳川家康公御手植」と伝わる臥龍梅がある。
「龍臥して法の教えを聞くほどに 梅花の開く身となりにけり」
という与謝野晶子の歌も記されている。


鐘楼は、天正十八年(1590)四月、豊臣秀吉公伊豆韮山城攻伐の際、
陣中に於いて使用したと云われている。
また明治の文学者高山樗牛の「清見寺の鐘声」の名文は、
この鐘声を聞いて作られた、そうだ。
梵鐘は、正和三年(1314)の鋳造で、県指定文化財になっている。


聖観世音菩薩銅像
昭和十三年(1938)北村西望の作


五百羅漢
天明年間(1781~1788)の彫造にして、作者不詳なるも形相悉く神異非凡の作である。
又この羅漢尊者の群像は、島崎藤村の小説「桜の実の熟する時」の最後の場面になっている、
とのこと。


9時22分、坐魚荘(ざぎょうそう)跡に到着
西園寺公望公は、明治・大正・昭和三代を自由主義の政治家として貫き、
昭和15年11月24日、91年の長寿を全うしたわが国近代の元老の一人。
坐漁荘は、西園寺公が70歳になった大正八年(1919)に老後の静養の家として
風光明媚な清見潟に臨むこの地に建てた別荘である。


入館の9時半にはまだ少し時間があったが、ちょこっと覗いて見ることに。
入館見学は無料となっている。


坐魚荘の碑
西園寺公望公は、伊藤博文の側近を経て第一次・第二次西園寺内閣を組閣。
首相辞任後は元老に任じられ、大正天皇・昭和天皇を輔弼した。
現在の立命館大学の原型となった「私塾立命館」の創始者としても有名。


坐漁荘の建物は昭和45年に解体され、愛知県犬山市の明治村に移されたが、
元あったこの場所に、オリジナルに忠実に復元された。


旧東海道(現国道1号)を進む。
国道1号静清バイパスが見えてきた。


国道1号静清バイパスの下を通って、左の小径へ進み、


住宅地を進むと、東海道線の横砂踏切がある。


横砂踏切を渡って進むと再び国道1号に合流した。
合流点に横砂の延命地蔵尊があった。


『病は治せるが寿命は延ばせない』との無理な願いを叶えてくれるのが、
横砂の延命地蔵さん、だそうだ。
ここは、是非お参りして行かなくちゃ。賽銭も弾んでおこう。


旧道を少し進むと、


東光寺があった。
山門は、勅使が興津川の川止めで泊まる事になり、急遽造られたとされ、
門扉の作りから格子門と呼ばれる。


東光寺は、臨済宗妙心寺派(禅宗)の寺院である。
戦国時代の天文年間(1532~1554)に温仲和尚によって現在地より北方の地に創建。
本尊の薬師如来(秘仏)は行基作と伝わる。
9世共堂義範(明治41年没)の師が、清見寺蓉嶺維禎だったため
その頃に妙心寺派となった。


本堂の前に鑑真和上将来と書かれた中国菩提樹がある。
大宰府戒壇院から贈られたものなのだろう。


9時56分、庵原川を渡り、横砂西町に入ったちょうどその時、


前方から軽快なリズムのブラスバンドの隊列がやって来た。


小学校低学年と思える可愛い鼓笛隊の姿も見える。
何かの祭なのだろうか?


沿道の住居に貼られていたポスターを見て分かった。
静岡市袖師地区の青少年健全育成の推進パレードだったのだ。
それによると、先頭の演奏は、静岡学園吹奏楽部によるものだろう。
パレードは、300mほど続いた。
道路の反対側(自分の方)には、カメラを手にした父兄がずらり。


道が左右に分かれるところに、1本の松の木があった。
「細井の松原」である。
当時の細井の松原は太平洋戦争で松根油(航空機燃料)として伐採されてしまった。
現在は、その跡もなく植樹されたものが1本だけ植えられている。


元禄十六年(1703)の検地によると、辻村の戸数110戸、松原の全長199間2尺(約360m)
松の本数206本とあり、松原に「松原せんべい」を売った茶屋があったと伝えられている、
とある。


無縁さんの碑
辻村の東辺りから西久保にかけて細井の松原と呼ばれた松並木が続いていた。
この並木は昭和19年、松根油採取のため、伐採されたが、
この折多量の人骨が出土した。
東海道で倒れた旅人を埋葬したものと推察されたが、町内の人は寺に葬り、
松原の一隅に記念碑を建て霊を慰めた。
平成十三年、東海道四百年を記念し、この石碑を建立した。
「活き活き」街づくり辻の会


旧東海道を進む。


旧東海道江尻宿の標示がところどころに貼ってあった。
この辺りが宿場の中心地だったのだろう。


東木戸跡付近
この付近には道路が桝形ではないが「く」の字形に曲がり、
外から宿内を見通すことが出来ないように工夫してある。


近くにいた地元の方に訊くと、「江尻・辻の一里塚跡」と「東木戸跡」を示す標識は、
かつてはこの付近にあったが、いつの間にか無くなってしまった、とのこと。
残念! 歴史を示す標識くらいは残しておいて欲しかった。


10時47分、清水駅前を通過
実は、10時30分に一度はここを通過したのだが、「江尻・辻の一里塚跡」と「東木戸跡」
を見落としたと思い、先ほど通った江尻宿の標示まで引き返して探すも、見つけられず、
地元の方に撤去されたことを聞き、2度目の清水駅前通過となった次第。


清水駅前を過ぎ、何度か街中の角を折れ曲がって進むと、


巴川に架かる稚児橋に到着した。
慶長十六年(1611)9月、家康公の命でここに橋が架けられた。
渡り初めで、一番の老夫婦が先頭を歩いていたら、
巴川より童子が突然現れて橋の上を駿府の方角に歩き去ったという。
このためこの橋を稚児橋というようになった。
これは河童の類と云われている。


4本の親柱の上には可愛い河童の童子像が乗っている。


巴川の下流は清水港に繋がっている。
かつてクロダイ釣りで何度か訪れ、渡しの舟でこの川を下り、
清水港貯木場へ渡してもらったことを思い出した。


橋の上から釣りをしている人も。
ハゼを狙っているそうだが、潮が下げているので、当りはないとのこと。


河童のこしかけ石
平成三年の秋の台風により石垣が崩れ、修復工事を行った際、
五つの石が掘り出され、誰言うとなく、稚児橋の河童伝説にちなみ、
「河童のこしかけ石」と呼ばれるようになった、そうである。


船高札
江戸時代初頭、河川交通の重要地巴川河畔に、現在の掲示板にあたる
「船御高札」が建てられていた。
その内容には、暴風などに遭っている船には助け船を出すことや、
船が破損したときには力を合わせて荷を引き上げること、
(引き上げてもらったものは褒美を渡すこと)などが書かれていた。


入江2丁目交差点を右に曲がって旧道を進む。


門柱の脇に江尻宿木戸跡の碑があった。
実は、最初は見落としていたのだが、この先の入江生涯学習交流館前の案内板を見て、
ここまで引き返して撮影した。


入江生涯学習交流館
館の前に「江尻宿」の地図があり、江尻宿の歴史的史跡場所を標示している。


追分羊かん
創業元禄八年(1695)の老舗。
羊羹は日持ちがしたため、道中食でもあった、そうだ。
あいにくこの日は定休日だった。


追分羊かんの脇に、追分の道標がある。
正面に「是より志ミづ道」、左に「南無妙法蓮華経」と彫られている。


都田の吉兵衛供養塔
文久元年(1861)、清水次郎長は子分の森の石松の恨みを晴らすために、
遠州都田の吉兵衛(通称都鳥)をここ追分で討った。
この地の人が、吉兵衛の菩提を弔う人が稀なのを憐れみ、
供養塔を建て、侠客の霊を慰めたとされる。


元追分


巴川の支流に架かる金谷橋を渡る。
橋の脇には、追分と金谷橋の今昔が次のように記されている。
昔からこの辺りは東海道と清水湊への道(志ミづ道)との分岐点であることから
「追分」と呼ばれていた。
周囲には数軒の家が並び、街道の両際には松並木が続き、
その外側には田んぼが広がり、遠くには富士山が望めた。
往来の旅人は土橋であった金谷橋を渡ったが、重い荷物を運搬する牛馬は、
橋横の土手を下り、渡川して土手を上り、街道に合流した。
古来、牛道と言われた名残を今に留めている東海道の史跡である。


11時41分、東海道線を横断した先に


上原堤(うわはらづつみ)「宗丹池」(そうたんいけ)があった。


11時54分、「宗丹池」の少し先の上原(うわはら)延命子安地蔵に到着した。
延命子安地蔵は、鎌倉時代かそれ以前の創建とされる。
天正十年(1582)、徳川家康が武田勝頼を攻めるに先立ち、
武田の宿将で江尻城主の穴山梅雪と、この地蔵堂で会見した。
その結果梅雪は家康に降り、武田氏滅亡のきっかけとなった、
というエピソードがある。


延命子安地蔵の入口に槙の古木がある。
樹齢約230年、樹高10m70Cm、枝張り東西4m、南北7mとあったが、
隣の家の邪魔になったのか、あちこち伐採(剪定)されて小ぶりになっていた。


延命子安地蔵で弁当タイムにした。
東京駅で買った秋田の”鶏わっぱめし”(1,050円)だ。


いぶりがっこ・鮎甘露煮・じゅんさいなどもあって、なかなか美味しかった


弁当が終わり、12時27分、府中宿(静岡駅)目指して出発!
延命子安地蔵から2分ほどの所に千手寺という寺があった。
山門の先に、


千手寺の本堂が。
千手寺は、黄檗(おうばく)宗の寺院で、
明の僧隠元によって江戸時代もたらされた禅宗。
本山は京都万福寺。


境内には庚申塔や


古井戸もあった。


12時38分、清水有度(うど)第一小学校を通過。


府中宿境まで一里二十六町(6.8Km)とある。


旧東海道は、県道407号に合流した。


12時43分、草薙一里塚碑を通過
江戸日本橋より43番目の一里塚である。
塚の脇には高札場があり、榎の大木の枝が繁っていたという。


草薙一里塚の横に何故か狸(身長10尺:3.3m 重量500Kg)の像が・・・
”狸八相縁起”なるものが書いてあったので紹介しておこう。
笠 ・・・思はざる悪事災難避けるため用心、常に身を守る笠。
目 ・・・何事も前後左右に気を配り、正しい判断をする。
顔 ・・・世間は広く互いに愛想よく暮らし、真を以って務め励む事。
徳利・・・恵まれた飲食だけで満足し、人徳を見に付けよ。
通 ・・・世渡りは、先づは信用が第一だ、活動常に跳躍前進する事、
腹 ・・・もの事は、常に落ち着きながら決断、力の大胆を持て。
金袋・・・金銭の宝は常に自由になる運用をしろ。
尾 ・・・何事も終り大きくしっかりと身を立てる事こそ真の幸福なり。


草薙神社の鳥居を左手に見ながら、草薙駅前の交差点を左折し、
中之郷の住宅地を進む。


植木などの園芸屋の看板が目立つなと思っていたら、


この辺りは生産緑地地区になっていた。
『どうりで・・・』納得である。


東名高速道下を通過し、


再び県道407号に合流。
コンビニがあったのでここで一休み。


13時41分、静鉄県総合運動場駅を通過


旧東海道記念碑が建てられていた。
昭和37年、国鉄操車場の建設により、「栗原」の西側が分断され、
更に静清土地区画整理事業による新しい町づくりが行われたことから、
栗原地内の旧東海道もその姿を消すこととなった。
その昔を偲びなおかつ旧東海道とともに発展してきた「栗原」の歴史を
正しく後世に伝えたいとの願いを込めて、この記念碑を建てることにした、とのこと。


記念碑の右側に線路の反対側へ通じる小さなトンネルがあった。
入口(出口)はかなり狭い。
途中で車が来たらどうしよう。


しかし、トンネルの中央部は、車がすれ違えられる広さになっていた。
新幹線が頻繁に走り抜ける音がトンネル内に響く。


トンネルを潜って反対側(西側)に出た。


線路沿いの道が左右に分かれていたので、右方向へ。


少し進み後久(ごきゅう)橋を渡ると、


古庄の道標があり、旧東海道に間違いなかったことが分かり一安心。
府中宿境まで3.3Kmの表示。


国道1号線に合流した所に駿河三大名物「兎餅」跡地と書かれたでっかい看板が。
「安倍川餅」「追分ようかん」「兎餅」が駿河三大名物とのこと。
「安倍川餅」以外は食べたことがない。


国道1号


国道1号長沼交差点を渡り、国道1号の一本裏の道を進む。


長沼一里塚碑があった。
江戸日本橋から44番目の一里塚だ。


14時13分、静鉄長沼駅を通過


右手に静岡県護国神社の鳥居を見ながら進むと、


国道1号沿いの「MARK IS 静岡」の前に出た。
大型のショッピングセンタ-のようだ。


静鉄柚木駅で、横断陸橋で国道1号を横断。


国道1号静岡方面


国道1号を渡った先で、新幹線・東海道線の線路を潜ることになる。


新幹線・東海道線の線路を潜り、


線路を潜った先の道路を右に曲がると・・・
曲金コンフォートの前に曲金(まがりかね)の道標があった。
府中まで0.9Km、間もなくゴールだ。


また新幹線・東海道線の線路に沿って進み、


三度新幹線・東海道線の線路を潜ると、


国道1号東町交差点に合流した。


東町交差点の一つ先の日出交差点を右折し、


つつじ通りを150mほど進むと、


旧東海道の伝馬町通りの横田町西交差点がある。


横田町西交差点を左に曲がり、伝馬町通りを進む。


15時3分、府中宿に到着した。
この日のゴール静岡駅まであと少し。


花陽院(けよういん)
徳川家康の祖母源応尼(華陽院)の菩提寺として知られている、浄土宗京都智恩院の末寺。
もともとは真言宗知源院という名称であったが、華陽院の法名により改められた。
境内には華陽院の墓のほか、家康の五女である市姫の墓もある。


家康公お手植えのみかんの木
随分可愛らしい木だが、何代目になるのだろう?


艾(もぐさ)の店とは、珍しい。
今でもこうやって店が続いているのだ。


静鉄新静岡駅辺りの繁華街


ビルの谷間に本陣・脇本陣跡の碑がポツンとあった。
歴史の移り変りを感じさせる光景である。


府中宿伝馬町の道標
この辺りが一番賑っていたのだろうか。


人通りが一段と多くなって来た。
静岡駅は近いと思われる。


通りのあちこちで大道芸などが行われていた。
この日は日曜日、どおりで人が多いはずである。


15時25分、この日のゴール静岡駅に到着


静岡15時37分発の東京行「ひかり470号」自由席はほぼ満席、
だったが、何とか座れて一安心。
座れずに立っている人も何人かいた。


立っている人には申し訳なかったが、缶ビールで喉を潤した。
興津駅から16Km以上歩き、疲れた身体に心地良い味がした。


この日は、興津宿~府中宿(約16Km)を歩いたが、正直けっこう疲れた。
初めての道の歴史を辿りながら歩くのは楽しいが、距離が長いため、
たくさんあり過ぎて、ゆっくりと時間をかけて鑑賞している時間がなかったのが、
やや残念ではある。
しかし、次回はさらに距離が長くなる可能性がある。
適当な宿泊先がないためである。
まあ頑張って精力的に観て回わるしかなさそうだ。

この日も歩く途中で富士山の雄姿を見ることは出来なかったが、
朝方静岡に向かう途中、新幹線から富士山が見れたのは、
せめてもの救いだった、と思っている。

この日の万歩計は、34,000歩を越えていた。

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