ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧甲州街道を歩く 第八回 上野原宿から鳥沢宿へ

2016年11月23日 | ウマさんの「旧甲州街道」を歩く
2016年10月23日(日)

今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。

「甲州街道を歩く」第八回目は、上野原宿(JR上野原駅)から
鳥沢宿(JR鳥沢駅)までの約14Kmを歩いた。

東京駅の駅弁屋で


めいめいお好みの弁当を買い、


東京駅8時11分発の高尾行特別快速に乗車。
食べているのは、買ったばかりの”駅弁”ではもちろんなく、
それぞれが持参した朝食である。


終点の高尾で9時20分発の甲府行に乗り換え、


9時37分、スタート地の上野原駅に到着。


上野原駅では、「駅からハイキング」イベントが開催されており、
地図や時刻表などを無料で配布していたので、参考にもらった。


9時48分、前回の終点、疱瘡神社へ向かって出発!


この日の参加者は、またいつもの8名である。


疱瘡神社(塚場一里塚)を目指す。


右手に桂川を見ながら坂道を上る。


中央自動車道を跨ぎ、


10時10分、疱瘡神社(塚場一里塚)に到着。


前回参拝はしているが、あらためて旅の安全を祈願した。


疱瘡神社を後にして、上野原宿へ。


上野原市内を進む。
町を歩いていて、数軒の酒まんじゅう屋さんがあるのに気が付いた。
この日は、お茶タイムで皆さんに配るおやつを忘れたこともあり、
酒饅頭を買って分けることにした。


『甘さ控えめで美味しいねっ』
『酒まんじゅうは上野原の名物なのかねぇ』


自宅前を掃除していた人が、我々が甲州街道を歩いていることを知り、
近くに旧本陣の門があることを教えてくれた。
教えられた場所へ行ってみると、旧本陣の門だけが残されていた。


門の奥に現在の家があり、その門の表札には”旧本陣”とあった。


国道20号から旧甲州街道への分岐点を左に逸れ、


旧甲州街道を進む。


道標に従って進む。
このような道標は、初めて歩く者にとっては非常にありがたい。


国道20号を跨ぐ形で鶴川入口歩道橋を渡り、


旧甲州街道へ。
野田尻7Km、鳥沢15Kmと表示されている。
これから鳥沢まで15Kmというのはけっこう距離がある。
夕方までに鳥沢駅まで辿り着けるのだろうか?


旧街道から鶴川宿方向を見た景色。
『街道歩きらしくて、良い景色だねぇ』


旧街道を進む。


案内に従って旧街道(近道)を進む。


少しでも近道はありがたい。
案内があるので安心して歩ける。


鶴川に架かる鶴川橋を渡る。


鶴川橋から中央自動車道が見える。


鶴川橋を渡った右側に、”鶴川宿”と書かれた立派な石碑があった。
これより鶴川宿である。


鶴川宿の宿並は二町三十間と小さかったが、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠8軒があった、
そうである。
今はそれほど古い建物は残っているわけではないのだが、
こじんまりとしていて、どことなく”宿”の雰囲気が感じられる。


旧甲州街道の道標に従って進む。


街道は、左に分岐していた。


坂道を上る。


しばらく坂道が続く。
『けっこう堪える坂道だねぇ』


街道は、中央自動車道の脇道に繋がっていた。


中央自動車道に沿って進むと、左に跨ぐ形になっていた。
かつての街道を分断する形で中央自動車道が造られたのだ。


中央自動車道から数分進むと、11時34分、大椚(おおくぬぎ)一里塚に到着した。
大椚一里塚は江戸日本橋から19番目の一里塚である。
現在、その跡は残されていないが、鶴川宿から大椚集落に入る手前の
道の両側にあったことが江戸の絵図などに記されている、とのこと。


大椚一里塚で一休みしよう。


11時43分、大椚一里塚を後にする。


大椚の集落は、石垣で囲まれた家をあちこちで見掛けた。


整然と積まれた石垣が美しい。


「椚屋」の表札があった。
『大椚と関係がありそうだねっ』


大椚宿発祥の地と書かれた木柱があった。
大椚集落は、鶴川宿と野田尻宿の間に位置するが、
大椚宿に関する情報はWeb上には見当たらなかった。
右は、秋葉常夜灯と思われる。


大きな杉の木があった。
目通り約6m、根回り約10m、樹高約20mで、推定樹齢は約600年とある。


吾妻神社である。
境内に椚があったところから村名となった。
しかし、今は枯れてしまった。


拝殿に参拝して振り返ると、


一段下の境内では、地元の人たちが行儀よく昼食の真っ最中だった。
”歩け歩け大会に参加した人たち”とのことである。
時計を見ると11時57分を指していた。


境内には、千手観音堂もある。
弁当はもう少し先に適当な所があるだろう。


と言うことで、吾妻神社を後にした。
中央高速が見えてきた
談合坂SAまで1Kmの表示が見える。


中央自動車道の側道を進んで行くと、長峰砦跡の説明板があった。
この場所は、甲斐国と相模国との国境に当たり、ある時は甲斐の勢力によって、
またある時には関東勢の手によって、国境警備の役割をしていた、とのこと。


江戸時代になると、この場所を甲州街道が通過することになり、
当時に描かれた絵図には「城山」と描かれたりしている、そうだ。


さらに側道を進むと、


野田尻宿方面への案内標識があった。
中央自動車道を渡ることになるのだが・・・
女性陣から談合坂SAで昼食を摂りたいとの意見が上がっている。
地図を確認すると、甲州街道は、談合坂SA手前でいったん中央自動車道を渡るが、
談合坂SAを過ぎた辺りで再び中央自動車道を戻るルートとなっている。
その間の見どころとしては、犬嶋神社と西光寺があるが、
西光寺は談合坂SAから行けなくもなさそうだ。


ここは、野田尻宿をパスして直接談合坂SAへ向かうことにした。
「勘助本舗」ビルの前を通り、


道なりに進むが、談合坂SAに入れるような個所は見当たらない。
談合坂SAに入ることは出来るのだろうか、少々不安になってきた。


さらに進むと談合坂SAが右手下方に見えてきた。


そのまま進むと、入口があった。
ゲートで車の誘導を行っていた人に確認すると、ここから入れるとのこと。
『良かったぁ』と一安心。
入った所は、給油所の裏辺りで、トイレなども近い。


12時37分、談合坂SAに到着した


駐車場は、満車状態だ。
今日は勤労感謝の日で祝日、混んでいるのは仕方がない。


フードコーナーもかなり混んでいたが、何とか空席を見つけた。


中央自動車道のフードコーナーで駅弁(十日町のおいしいごはん弁当)
を食べるとは予想していなかった。


13時16分、弁当が終わり、談合坂SAを後にする。


右手の中央自動車道を潜って直ぐのところに、


西光寺があった。


赤いよだれかけを掛けたお地蔵さんがずらりと並んでいる光景は壮観だ。
子宝に恵まれるようにと参拝者が奉納したものである。


本堂にお参りを済ませ、


寺の右手を通っている旧甲州街道へ。
談合坂SAへ寄り道をしたが、ここで再び旧甲州街道に戻った。


しばらく緩やかな坂道を進み、


中央自動車道を渡る。
中央自動車道を渡るのは、これで何度目だろう。


中央自動車道を渡った所に道標がある。
右の犬目・鳥沢方面へ。


少し進むと、


13時33分、荻野一里塚の説明板があった。
日本橋から20里、20番目の一里塚で、甲斐国(山梨県)に入って3番目の一里塚になる。


一里塚説明板の後ろに階段があったので、何かあるのかと上ってみた。
しかし、周囲を見渡しても何も見つけることはできなかった。


萩野入口バス停前を通過。


中央自動車道に沿った道を進み、


中央自動車道を渡る。


中央自動車道を渡った先で、旧甲州街道は、右の細い道を上ることになる。


矢坪坂古戦場跡の説明板
長峰の古道を西に進み大目地区矢坪に出て、さらに坂を上ると新田に出る。
この矢坪と新田の坂を矢坪坂と言い、昔戦場となった所である。
(上野原教育委員会)


『銀杏がきれいに紅葉してるねっ』


銀杏の木


武甕槌(たけみかづちのみこと)を祀った武甕槌神社の鳥居前を通過すると、


旧甲州街道は、薄暗い林の中へと通じていた。


『随分細い道なんだねぇ』
人がすれ違うのがやっとという広さである。
しかも左側は、崖になっている。
柵がなければ、歩くのもままならない。


『昔の人はこんな狭い所を歩いたんだろうかねぇ』
信じられないと言った感じである。


また、暗い林の中へ通じていた。


14時3分、「座頭ころがし」の標識があった。


ここを盲人の一行が差しかかり、先行していた者の声を頼りに直進した盲人が
谷底に転落してしまったという場所である。


『ここから転げ落ちたんだぁ』
しげしげと崖下を見る。


「座頭ころがし」を後にして少し進むと、


住宅地に出た。
犬目のようだ。


大きな塀を構えた家があった。
米山家である。


門も立派である。まるで本陣のような構えである。


「旧甲州街道新田宿尾張の殿様定宿家」と書かれた札が掛かっていた。
甲州街道を利用したのは信州高遠の殿様だけだったが、名古屋から西の大名は、
行列の宿泊が他の大名の宿泊と重ならないよう、甲州街道も利用された。
米山家では、一時期尾張の殿様が泊る定宿だったことがあった。
犬目宿の本陣ではなく、脇宿である新田宿の米山家に泊った理由は、
この前の駐車場から富士山が良く見え、甲州街道で最も眺望が良いために
お殿様がお気に入りになり、定宿となったから、だそうだ。


道端に佇む念佛石経塔、庚申供養塔の碑


犬目宿のようだ。


まるでホテルのような建物は、石垣エンジニアリング社という、
高性能、高品質を必要とするコネクター端子の超精密金型製作(CAD/CAM)、
及び端子加工(高速自動プレス)に専門特化した会社だった。
『精密機器の会社だったのかぁ』


馬頭観世音碑は各地でよく見かけるが、牛頭観世音の石碑は初めて見た。


犬目の兵助の墓の標識
いったんは気付かずに通り過ぎてしまったが、Y子さんが、
『さっき見かけたよっ』と言うので、引き返した次第。
これでは、見落とす人も多いのではないだろうか?


犬目の兵助の墓
天保四年(1833)以来凶作が続き、同七年(1836)犬目の竹七と兵助が指導し、
一揆を起こした。
この騒動は国中に広がり、鎮圧後竹七は捕らえられ牢死した。
平助は逃げ切り、維新後奈良氏を名乗った。


14時31分、犬目宿の碑前に到着
正徳三年(1713)に犬目宿が構成された。
本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠15軒であった。
しかし、昭和45年の大火で宿の6割を焼失してしまう。
「この地極めて高き所にて、房総の海、富士の眺望奇絶たる所」と云われた。


犬目の兵助の生家
甲州一揆の首謀者兵助はこのとき40歳で、妻や幼児を残して参加したが、
一揆の首謀者は当然死罪になる。
家族に類が及ぶのを防ぐための「書置きの事」や、妻への「離縁状」などが、
この生家である「水田屋」に残されている。
説明板の裏は普通の民家となっており、車が停まっていた。


犬目バス停を通過


14時38分、宝勝寺前を通過
周囲が大分薄暗くなってきたので、それほど大きなお寺や神社でない所はパスすることに。
完全に暗くなる前に鳥沢駅に着きたい。


白馬不動尊の赤い鳥居があった。
ここを上ると本尊があるそうだが、ここもパスしよう。


白滝山不動明王


14時54分、恋塚一里塚に到着
日本橋から21里で21番目の一里塚である。
塚は直径12m、高さ5mの円丘で原形をよく残している。
『随分ポッコリしてるよねっ』


鳥沢駅を目指す。
『早く行かなくちゃ。まだ大分あるんでしょっ?』
女性陣は元気が良い。


山住神社の鳥居
階段を上ってみたが、小さな社があるだけだった。


道端の道標に旧甲州街道石畳の文字が読みとれる。


落ち葉に埋もれた山道を上って行くと、
細い緩やかな坂道に石が敷き詰められていた。
『これが、甲州街道の石畳かぁ』
距離は10m余ととても短い。箱根路の石畳とは比べものにならない。
『今日の最後の見ものだったねっ』


15時8分、大月市に入った。


鳥沢駅を目指す。


麓の民家が見えてきた。


鳥沢駅を目指す。


坂下橋を渡り、中野バス停付を通過。


中央自動車道が見えてきた


中央自動車道下を潜り、


15時44分、国道20号に合流した。
ゴールの鳥沢駅は間もなくだ。


国道20号を鳥沢駅へ向かう。


15時54分、この日のゴール鳥沢駅に到着した。


次の東京行は16時21分、少し時間があったので、
駅前の酒屋で缶ビールを買い、喉を潤した。


鳥沢駅のホームで電車を待っているところ。
辺りはかなり暗くなってきた。
『まぁ 明るいうちにゴール出来たから良しとしようっ』


東京行快速に乗車
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』


「旧甲州街道を歩く」第八回目(上野原宿~鳥沢宿間約14Km)を歩き終わった。
14Kmほどであったが、意外に時間がかかってしまった。
あちこち立寄りをしながらの「街道歩き」ということがその理由である。
今の時期、このくらいの距離が良いところと思われる。

次回(12月)は、鳥沢宿(鳥沢駅)から大月宿(大月駅)までを予定している。
どんな駅弁にしようか、今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。

今回のハプニングと言えば、
談合坂SAで昼食を摂ったことだが、誰も全く予想していなかった。
次回はどんなハプニングが待っているのだろう。

この日の万歩計は、32.000歩を超えていた。

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1 コメント

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とても参考になりました (若輩者)
2016-12-02 15:40:36
最近、東京から上野原市内に転居した者です。
長旅、お疲れ様でございました。

「上野原 グルメ」でネット検索すると、中央道談合坂SAの情報ばかりがヒットする地域。
足も無いため、どのように談合坂へ行けるか検索していたらこちらにたどり着きました。

山登りは苦手ですが、歩き旅は好きなので、こちらの情報を励みに近々実践してみようと思います。

今年は、市内でも熊の目撃情報が頻発したのですが、その気配は全然無かったでしょうか。

今後の旅情報も楽しみにしています。
お気をつけて。
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