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ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第10回 箱根湯本から三島宿(2日目)

2014年10月20日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年10月20日(日)

この日は、前日に続いて、第Ⅰステージ第10回(2日目)、箱根関所から三島宿(JR三島駅)までの15Kmを歩いた。

8時からの朝食まで時間があったので、散歩に出掛けた。
「夕霧荘」前の町の様子。まだ人通りはない。


国道1号線に面した駅伝広場に駅伝の碑があった。
「襷」(たすき)と刻まれている。


芦ノ湖側に駅伝のゴール・スタート地点がある。
TVでお馴染みの場所だ。


芦ノ湖から富士山がちらりと見えた。
てっぺんに笠雲がかかっている。
笠雲がかかったあとの天気は、24時間後までに雨になる確率が高いそうだが・・・


穏やかな芦ノ湖に海賊船が停泊していた。


海賊船の近くに駅伝の碑があった。
台座には過去90回の優勝校名と記録が刻まれている。
因みに今年の優勝校は、東洋大(10時間52分51秒)だ。
来年はどこの大学が優勝の栄冠に輝くのだろうか?


宿に戻って朝食だ。


今日は途中ファミレスなど期待できないので、お腹いっぱい食べておこう、ということ?
皆さん、おかわりの連発である。
瞬く間におひつが空っぽになってしまった。


8時36分、三島宿目指して元気よく出発!


箱根町の国道1号線(東海道)を進む。


箱根峠への旧街道への入口を見落として、国道1号線を進んでしまった。
右手にちらりと駒形神社が見えたが、引き返すのも大変である。
仕方なく箱根峠までそのまま進むことにした。


「箱根やすらぎの森」付近から芦ノ湖を望む。


9時6分、道の駅「箱根峠」へ到着。


道の駅「箱根峠」から芦ノ湖を望む。
正面に見えるのは駒ヶ岳(1,356m)だ。
道の駅「箱根峠」は、芦ノ湖より約100m高い、そうだが、もっと高いような気がする。


道の駅で昼食用のパンを購入し、
箱根新道の箱根峠ICと国道1号線の合流点を真直ぐに進む。


箱根峠は豆相国境で標高846m。筑波山男体山(871m)とほぼ同じ高さだ。
国道1号線、箱根新道の出入り口、芦ノ湖スカイラインの合流点で道路が入り組んでいる。
歩道はないので、注意が必要。


国道1号箱根峠の信号を直進すると、箱根旧街道の入口があった。


箱根旧街道を進む。
この辺りの石畳は、現代風の平な石が敷き詰められている。
『やっぱり歩き易いわねっ』


奇妙な形をした石(石像)が並んでいた。
新箱根八里記念碑(峠の地蔵)である。
箱根旧街道を散策する人々にとって、旅のひとときの憩いにと、1985年に設置された。


そして2003年、国交省・三島市・函南町の協力により、新たに8人の女性著名人による揮毫を得て、
新石碑が誕生した、とある。
手前 「細心大胆」 橋本聖子
中央 「我が越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に浪の寄る見ゆ」 源実朝詠 杉本苑子
右 「おしん 辛抱」 橋田須賀子


静岡県に入った。


9時38分、箱根旧街道への入口に到着。


箱根旧街道西坂入口に道標があった。
左側には「是より京都百里」、右側には「是より江戸二十五里」の文字が。
『へぇ~っ 京都まで400Kmもあるんだぁ』


三島宿まで11Kmとなっている。


東屋で一休み。


東屋の左奥に、”北斗欄干”と刻まれた井上靖の八里記念碑があった。
氏は、北海道旭川市で生まれ、中学時代を三島・沼津で過ごした、とのこと。


9時50分、西坂を三島宿へ向け出発!


西坂は、いきなり篠竹のトンネルで始まった。


兜石跡の碑
この辺りが甲石坂と思われる。
坂名の由来は兜石(甲石)があったことによる。
兜石そのものは、旧街道を少し下った接待茶屋のところに移されている。


兜石坂を下る。
下りは楽で良いが、ゆっくり進まないと石で滑って捻挫しかねない。
『足元をしっかり見てないと危険だねっ』


いったん国道1号線に出た。


10時5分、接待茶屋跡に到着。


接待茶屋とは、峠を越える人馬のお助け所のこと。
お茶や飼い葉、薪などを無償で接待した。
明治天皇が接待茶屋で休んだとき、お礼にお金を置いたがそれも受け取らなかった、とか。


山中新田一里塚碑
接待茶屋一里塚とも呼ばれる。
江戸日本橋から26番目の一里塚である。


接待茶屋跡から少し先へ進むと、兜石があった。
兜を伏せた様な形をしていることから兜石と言われている。
『どうしてここへ運んだんだろうねっ?』


明治天皇御小休跡
『明治天皇もこの石畳を通ったんだぁ』


石原坂を下る。


石原坂の途中に念仏石があった。
石碑は、行き倒れの旅人を山中集落の宗閑寺で供養したもので、
「南無阿弥陀仏・宗閑寺」と刻まれている。


杉林の中を進む。


大枯木坂辺りを進むと、


民家のあるところに出た。
庭先のようなところを進むと、


国道1号線に出た。
信号のない横断歩道、車の交通量が多いので、横断には注意が必要だ。


国道1号線を進んで行くと、三島市の標識が。
『ついに三島市に入ったねっ』


旧街道への入口を下る。


願合寺(がんごうじ)地区の石畳復元・整備の説明に見入る。


小枯木坂
平成7年に三島市が整備したもので、願合寺石畳と呼ばれる。


函南町の先の雲助徳利墓手前まで長い下りの小枯木坂が続く。


小枯木坂を下って行くと、雲助徳利の墓があった。
雲助が酒飲みの元武家の仲間のために建てた墓である。
酒でしくじって国許を追放された剣道指南の元武家が、この地で雲助になった。
その武芸・教養ゆえに仲間に親分として慕われるようになった。
墓は、生前お世話になったお礼にと、雲助仲間がお武家を偲んで造られた。


11時2分、山中城の箱根寄り入口(山中新田)に到着


山中城は、北条氏康が小田原防衛のために築城した。
秀吉の小田原征伐のとき、この城は北条方の拠点として秀吉の軍勢と戦った。
味方4千に対し、敵方3万とも5万弱ともいう圧倒的勢力差のため、半日で落城した。
本丸曲輪跡
山中城の中心となった曲輪で、中央の藤棚辺りに本丸曲輪の館があった。


本丸堀を渡って二の丸へ。


山中城二の丸
あまりの天気の良さに、芝生の上で横になってしばし休息。
皆さん、疲れが出てきた感じ。


箱井戸跡
城兵の飲料水として使われていたと考えられている。
この左手にある田尻の池は、洗い場や馬の水飲み場として利用されていた。


山中城を後にして宗閑寺へ
この辺りは山中城三の丸跡でもあった。


宗閑寺は、北条・秀吉の敵味方両軍の戦死者を弔うため江戸期に作られた。
敵味方である北条軍と豊臣軍双方の武将のお墓がひっそりと佇んでいる。


旧街道を進む。


芝切地蔵
山中村で行き倒れになった旅人が、死の間際に『自分を地蔵尊として祭って欲しい。
亡くなった後も、故郷の常陸が見えるよう、芝で塚を造って欲しい。
そうすれば村人の健康を守ってあげます』と言い残した。
村人は地蔵を祭って毎年7月19日を縁日として供養した。
その際作った「小麦まんじゅう」の味が大そう良く、有名になり売れたので、
山中の費用が賄えたと云われている、とのこと、


山中城入口に到着


『三島宿まで8Km、まだ半分も歩いてないのかぁ』
先は長い。


山中城入口前の国道1号を横断して、三島宿を目指す。


司馬遼太郎の八里記念碑を過ぎた辺り、旧街道は工事中のため、通れなくなっていた。


国道1号へ迂回するしかない。


国道1号から沼津方面が見える。
迂回しなければこの景色は望めなかった訳だ。


食堂富士見前から旧街道へ戻ろうとしたが、


何とここも工事中で通れない。


旧街道の傍に迂回路があり、そこを下ったが、一部工事中のところを通るしか道はない。
ちょうど昼飯時だったせいか、工事関係の姿は見えなかった。
工事個所は僅か30mほど、今のうちに通ってしまおう。


上長坂を進むと笹原新田に出た。


箱根西麓・三島大吊橋の工事中である。
日本一の大吊橋になるそうだ。


笹原地区の旧街道石畳を進む。
『そろそろお腹が空いてきたなぁ』
時計は12時7分を差していた。


ということで、眺めの良い場所があったので、そこで昼食を摂ることにした。
『いやぁ なかなか良い眺めじゃん』


昼食と言っても、道の駅「箱根峠」で買ったパンで我慢するしかない。


休憩地には、山梨がびっしりと生っていた。
『これだけの梨が生るって凄いわねぇ』
自分も初めて見た。


旧街道笹原一里塚辺りを進む。


三島宿まで6Kmとある。


強飯(こわめし)坂
東海道箱根西坂(笹原新田)ではもっとも険しい坂で、下長坂と呼ぶ。
頑強な男でも尻込みをするほど急な坂道だった。
人夫の背負った米が、あまりの汗と熱で強飯になるほどだったという。


そんな急な坂道が「強飯坂」と呼ばれるようになった。


強飯坂を過ぎ、国道1号を進む。


”軒下の美術館”の文字が目立つようになってきた。


松雲寺
正保元年(1644)玉沢妙法華寺の松雲院日明が創建。


宝暦十三年(1763)朝鮮使節の江戸参府、文久三年(1863)家茂の上洛などで利用した大名の休憩施設で、
寺本陣としても利用された。


本堂の左手に浄行菩薩像が祀られている。
参詣者は、浄行菩薩に水を潅ぎ、一心にお題目を唱えながら、各自の病気のところをこすれば、
諸々の苦しみが清められる、そうだ。


三ツ谷新田
元和年間(1615-1624)、この付近に3軒の茶屋があったので三ツ屋と呼ばれるようになった。
元和四年、家康より任命された大久保長安が、箱根西坂に5つの新田を作った際に、
この地域を転訛(本来の音がなまって変化)して三ツ谷新田としたとのこと。


法禅寺旧址碑
市山新田の坂小学校の裏手に、法禅寺旧址碑がある。
現在の法禅寺は題目坂の下へ移転している。
市山新田の謂れは、この辺が、箱根に登る時の一番目の山であったことから一の山、
それが転訛して市山になったという。


大時雨坂(題目坂)
市山新田の三島市立坂幼稚園の横が旧東海道で、この急坂を大時雨坂という。
法善寺は日蓮宗のお寺で、江戸時代に寺への道案内の題目碑が出来たことから、
大時雨坂は題目坂と呼ばれた。


市山新田辺りを進む。


帝釈天王法善寺前で一休み。


地蔵堂
旧東海道に面して2組の六地蔵があった。
衆生の苦患を救ってくれるという六地蔵が、蔭から旅行く人を見守っている。
生垣がちょっと邪魔をしている感じ。


臼転坂(うすころばしさか)入口
右手の坂を進む。


古い石畳が残されている臼転坂。
牛がこの道で転がったからとか、臼を転がしたためこの名がついたとも云われている。


塚原新田に入り、左手に普門庵があった。
馬頭観音や観音坐像等多数の石造仏がある、そうだ。


何故か、道端に巨大なカボチャが置かれていた。
ハロウィンが近い。


国道1号線との合流点辺り。


国道1号線との合流点にあった箱根路の碑


東駿河湾環状道路の三島・塚原ICを横断して少し進むと、


初音ヶ原の松並木が始まる。
初音の名は、源頼朝が蛭ヶ小島に配流されていたとき、この高原で鶯の初音を聞いことから
名付けられたと云われている。
このあたりは、富士山景観の素晴らしい場所として知られている、とのこと。


松並木の横には国道1号線(東海道)が走っている。


晴天の日には、素晴らしい富士山を眺めることができる、らしいが、あいにく今日は見えない。
雲が被っているのは愛鷹山(1,187.5m)である。


錦田一里塚は、国道1号の両側に形よく残っており、国の史跡に指定されている。
江戸日本橋から28番目の一里塚。


国道1号線の反対側の錦田一里塚。


初音ヶ原の松並木は、1㎞に渡り残されている。


三島市内に唯一残っている旧東海道の松並木である。


松並木が終わった辺りで一休み。
『最後の2Kmは長いねぇ』


愛宕坂は急な坂道なので、東海道になるまでは竹を敷いてあったが、人も馬も滑って大変だった。
そこで、幕府が石を敷いて石畳の道に改修した。


東海道線の踏切を渡ると、


今井坂である。


新町橋
大場川(通称:神川)に架かる橋で、この辺りが新町と呼ばれていたことから名付けられた。
江戸時代には三島宿の出入り口として多くの旅人が渡っていた。


『ここからこんな風に富士山が見えたんだ』


この橋から富士山が美しい容姿を見せることで知られている、とのこと。
江戸時代、安藤広重が、ここから見た雪景色の富士山(東海道五十三次三島狂歌入り佐野喜版)を描いている。


あいにく曇っていて何も見えない。
『誠に残念!』


守綱八幡神社を通過


莨屋(たばこや)肥料店
莨屋とは珍しい。


三嶋大社の駐車場を通過


14時39分、三嶋大社大鳥居に到着


本殿へ向かう。


神池の厳島神社は、北條政子が勧請し、殊の外信仰したと伝えられる、とのこと。


総門を潜る。


七五三参りの親子が目立つ。


神門を通り抜けると、


本殿の前に舞殿がある。


三嶋大社の金木犀は、樹齢1,200年の老木だが、9月上旬から中旬にかけて一度開花し、
9月下旬から10月上旬にかけて再び開花し満開になる、そうだ。
昭和九年に国の天然記念物に指定されている。


三嶋大社は、伊豆国の一宮で、三嶋大明神を祀っている。
頼朝旗揚げ成功以来、武門武将の崇敬も篤く、三嶋大明神の称は広く天下に広まっていった。
本殿前で記念撮影


桜川に沿って三島駅へ向かう。


桜川には富士山の雪解け水が流れる。


白滝公園で水を飲もうとしたら、最初はチョロチョロとしか出なかったが、
突然、子供の声がして、二人でポンプを押し始めた。すると水が勢いよく出てきた。
水は美味しかった。


15時19分、三島駅に到着


上りの新幹線には少し時間があったので、駅前でビールで喉を潤した。
Mさんが大鳥居の前で買ってきたコロッケの差し入れがあり、これが実に美味しかった。
『Mさんっ ご馳走さまぁ』


新幹線で東京駅に向かった
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』



「旧東海道を歩く」第十一回目(最終回)(箱根関所~三島宿約15Km)を全員無事歩き終えた。
天気にも恵まれ、秋の旧東海道箱根路を存分に味わった。
旧東海道歩きは、今回で一応終わったが、この先京都三条へは、個人的にも行ってみた気持ちはある。
その時は、また皆さんにも声を掛け、一緒に楽しく歩きたいと思っている。

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