ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第10回 箱根湯本から三島宿(1日目)

2014年10月19日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年10月19日(日)

第十回目のこの日は、箱根湯本(小田急線箱根湯本駅)から箱根関所までの約13Kmを歩いた。

翌日は、JR三島から新幹線で帰る予定のため、「大人の休日倶楽部」を利用して、
往きを荒川沖⇒小田原、戻りを三島⇒荒川沖の連続切符を購入した。
連続切符とすることにより、200Km以上は、3割引となるためである。
新幹線自由席特急券も、「大人の休日倶楽部」で3割引となる。
3割引きは魅力である。

7時54分、常磐線上野駅に到着。
いつもの11名が集まった。
明日が最終回となるので、皆さんいつも以上に張り切っている感じ。


9時48分、小田原駅に到着。
この日は、途中にファミレスなど無いと思われるため、駅弁を買い求めた。
『何にしようかな~ 迷っちゃうな~っ』


箱根登山線へ乗り換える。


箱根登山電車乗り場は、かなり混雑していた。
日曜日で天気が良いということで観光客が多いのだろう。
(大半の人が箱根湯本から登山鉄道へ乗り換えていた)


10時25分、箱根関所を目指して出発!


国道1号から分かれ、早川に架かる湯本橋を渡る。
前回ここを歩いているので記憶に新しい。


須雲川の橋から見た箱根湯本のホテル「河鹿荘」


早雲通りを右に折れる。


10時40分、正眼寺(しょうげんじ)に到着。


正眼寺は、臨済宗大徳寺派の寺院で、建立は鎌倉時代まで遡る。
江戸時代には東海道を挟んで反対側に地蔵堂もあった。


慶応四年(1868)、戊辰戦争の「箱根山崎の戦い」において敗走する遊撃隊の放火により焼失。
現在の本堂は昭和47年に別荘を移築したもの。


早雲通りの坂道を進む。


正眼寺から10分ほどで石畳入口の標識が目に入った。
案内板には、
江戸幕府は延宝八年(1680)に箱根旧街道に石を敷き、舗装をした。
この先から255mは、その面影を残しており、国の史跡に指定されている。


この道は、県道に通じ、元箱根方面への近道となる、と紹介されている。
急な坂道を下って行くと、


沢に架かるさる橋があり、そこを渡って進むと、


県道732号(旧東海道)へ出た。


右手にはホテル「おかだ」や「南風荘」が見える。


11時4分、ホテルへの入口バス停で軽く給水タイム。
この日は思ったほど寒くない。意外に気温が高く首筋には汗が滲む。


葛原坂(くずはらざか
『新編相模国風土記稿』には、「海道(東海道)中、須雲川村境にあり。登り一町ばかり」
としか書かれていない。
地名が葛原で、この辺りは今も葛葉が生い茂っている。(説明板)
(一町(丁)は約109m)


箱根大天狗山神社 別院天聖院
随分と鮮やかな色彩の建物だなと、中を撮影しようとしたら、女の人が血相を変えて出て来て、
『撮影は止めて下さいっ』と大声である。
建物の撮影を禁止するなど、普通の寺院では考えられないことだ。


小田急ホテル「はつはな」辺りを通過すると、


須雲川の集落だ。
むかしは川端とも呼ばれていたそうで、この場所に集落ができたのは、江戸の初め寛永のころ。
天下の街道となった箱根道を往来する人々のため、また道を管理するために、
一定の間隔をおいて集落を作る必要があった、そうだ。


鎖雲寺(さうんじ
江戸の初め、当時早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺である。


夫唱婦随で見事仇討ちの本懐を遂げた物語「箱根霊験躄仇討」(はこねれいげんいざりのあだうち)の主人公、
飯沼勝五郎とその妻初花の墓がある。


箱根霊験躄仇討とは、
司馬芝叟(しばしそう)作の浄瑠璃、時代物、12段。享和元年(1801)初演。
足が不自由になった勝五郎が、兄の敵討ちをする物語。
通称「躄勝五郎」(いざりかつごろう)、「躄の仇討」(いざりのあだうち)と云われる。
建物は、初花堂である。


鎖雲寺の少し先、須雲川に架かる橋の手前に、「須雲川自然探勝歩道」への分岐点があったが、
旧街道を進むことにした。
これが、女転坂(おんなころばしざか)だろうか?


昔、馬に乗って箱根街道を登っていた婦人が馬から落ちたと言われている、らしい。
『いやぁ これはさすがにきついわっ』


11時49分、箱根大天狗山神社前を通過


旧街道(県道732号)は、車が多く危険なため、須雲川自然探勝歩道を歩くことにした。


石畳の道に入り、旧箱根道を歩く気分が高まってきた。


ここから先は江戸時代の石畳
岩だらけという感じで、気をつけないと足を挫きそうになる。


須雲川自然探勝歩道からいったん県道732号(旧東海道)へ出て、
畑宿発電所の導水管前を通過


県道732号(旧東海道)を少し進むと、箱根旧街道への入口があった。
石畳の坂道を下る。


旧街道らしい雰囲気のある道だ。


小さな沢を渡ると、その先は「大澤坂」になる。
登り三町余とあるから、約330mほどか。


大澤坂を上る。


沢から約9分ほど上ると、畑宿に出た。


『一休みさせて~っ』


12時22分、本陣跡を通過
畑宿の本陣は、屋号を茗荷屋と呼ばれた名主の本屋敷跡。
家屋は大正元年(1912)全村火災の折に消失したが、庭園は昔を偲ぶそのままの姿で残された、とのこと。
(残念ながら庭園は見落とした)


畑宿の集落


この先「七曲り」が待ち構えていると思うと身が引き締まる。
その前に腹ごしらえをしておこう、と街道を進むと、


畑宿の外れに守源寺があった。
守源寺は、寛文元年(1661)に乗善院上人によって建立された、日蓮宗平賀本工寺末の寺。
たびたびの災害で本堂を失い、昭和五年豆相大地震の後再建され、現在に至っている、とのこと。


寺の人に『裏の駐車場をどうぞっ』と薦められ、裏の駐車場で弁当だ。
めいめい、小田原の駅弁に舌鼓を打つ。


とり弁当(1,030円)はボリュームがあり、満腹になった。


腹ごしらえして、箱根旧街道へ。


箱根旧街道入口に畑宿一里塚があった。
江戸日本橋から数えて23番目にあたる一里塚だ。


薄暗い街道の石畳を進む。
箱根八里は東海道最大の難所である。
標高800mを越える山中であることに加え、ひとたび雨や雪が降ると旅人はすねまで泥につかる有様で、
歩くことが大変困難なところだった、そうだ。
そこで、旅人の便宜を図るために造られたのが石畳の道である。
当初は箱根山に群生している「箱根竹」を使ったが、腐ってしまうため毎年敷き変えなければならず、
多くの人手と費用がかかることから、竹に代えて石畳にした、とのこと。
『だけど、よく造ったわよねぇ』


途中には石段もある。


七曲りの近道を進む。


日本橋を目指して京都から来たと言う一行とすれ違った。
東下りをする人もいるのだ、とその時思った。


橿の木坂バス停を通貨


橿の木坂は、かつての急坂の殆どが崩れ落ち、今は石段の連続となっている。
『新編相模国風土記稿』には、「峭崖(高く険しい崖)に橿樹あり、故に名を得」とあり、
『東海道名所日記』には、険しきこと道中一番の難所なり、と記されている、そうだ。
おとこ、かくぞよみける。
橿の木の さかをこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの涙こぼるる


すぐ横は七曲り(県道732号:旧東海道)である。


橿の木坂の石段を上ること15分、


見晴し茶屋に到着した。
ここが箱根の樫の木平、下に見ゆるは畑の茶屋」と馬子唄にも歌われた「見晴茶屋」の跡である。


『見晴らしが良いわねぇ』
馬子唄に歌われていただけのことはある。


相模湾も見える。


見晴し茶屋から約10分で、猿すべり坂バス停へ到着。
まだ坂道は続くようだ。
ここで突然K子さんが、『疲れたからバスで行きたいっ』と言い出した。
橿の木坂でかなり堪えたようである。
無理はしない方が良いので、先に行ってもらうことにした。


猿すべり坂の階段を上る。


猿すべり坂は県道と並行しており、階段を上ると平坦になっていた。


猿すべり坂は短く、直ぐに県道732号(旧東海道)に合流した。


続けて、追込坂(おいこみざか)があった。
説明板には、
『新編相模国風土記稿』のふりがな(万葉がな)をみると、フッコミ坂と言ったのかも知れない、とのこと。
甘酒茶屋までのゆるい坂道の名称、とのこと。


緩やかな追込坂の先に、


甘酒茶屋があった。
江戸時代、箱根には13箇所に「甘酒茶屋」があった。
ここには3~4軒の甘酒茶屋が軒を並べていた、そうである。


現在は、無料休憩所になっている。


中は資料館になっていて、当時の面影を偲べるように、籠や長持ちなどが展示されていた。


奥の部屋には、赤穂浪士の大高源吾が馬方国蔵に詫びて証文を書いている場面も。
時代は流れ、大高源吾は神埼与五郎へ、舞台も三島宿から箱根山中甘酒茶屋へと変化して、
今に伝えられている、とのこと。


現在の甘酒茶屋
疲れた身体に甘酒(400円)でもと思ったが、箱根宿でのビールを美味しく飲みたいので、ここは我慢我慢。


甘酒茶屋を後にして、緩い坂を進む。


県道732号(旧東海道)を横断した先に、箱根旧街道石畳への入口があった。


現在「白水坂」と表記されている坂道を土地の古老は「城見ず坂」と呼ぶ、そうだ。
天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原攻略の時、小田原北条方の軍勢が、
尾根上から大量の石を落したため進軍を阻まれ、やむなく引き返した、という云われがある。


昼でも暗い旧街道
『おっとっとっと ほんと歩き難いわねぇ』


天ヶ石坂を通過


石畳の両側には水捌けも設けられている。
『どこからこんなに石を運んできたのかしらねっ』


旧街道入口から10分ほど進むと、


二子山が見えてきた。
初めて知ったが、二子山は二つあって、こちらは上二子山(1,091m)で、


こちらが下二子山(1,065m)である。
よく似ている。


こちらは、駒ケ岳(1,356m)、ロープウェイが見える。


馬子唄の碑
箱根八里は 馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と刻まれている。


二子山を過ぎると、権現坂の下りになる。


権現坂
小田原から箱根路を上る旅人が、いくつかの急所・難所を喘いで辿り着き、
一息つくのがこの場所だった。
坂の長さが八町(約870m)あるので八町坂とも云われている。
目前に芦ノ湖を展望し、箱根山に来たという旅の実感が、体に伝わってくるところ、とあるが、
木々に遮られて芦ノ湖はほとんど見えない。


関所破りをした玉という娘が処刑された場所が近くだったことから、
「お玉が池」と名付けられた、ゆかりのお玉観音堂への参拝道を過ぎ、


二子山が見えた所から、権現坂の石畳を7分ほど下ると、階段がある。


階段の下にケンベル・バーニーの功績を称える石碑があった。
およそ300年前に来日したドイツ人医師である博物学者のケンベルが、
日本の山々や自然の美しさなどを称え、記したのが「日本誌」。
その後イギリス人貿易商バーニーはケンベルの書いた「日本誌」に感激し、
箱根の自然保護を訴えた、とある。


箱根七福神の布袋尊を祀っている興福院を過ぎると、


元箱根に到着した。
箱根関所へは1,200mとある。
時計は15時12分を差していた。なんとか目標の16時には旅館に着きそうだ。


元箱根の街を進む。


箱根神社一の鳥居
箱根神社は、関東総鎮守として、源頼朝をはじめ後北条氏など代々の武将の信仰を集めた。
紅葉の時期、対岸から観る箱根神社は人気の写真撮影スポットとなっている。


右手に芦ノ湖が見えた。
富士山は見えなかったが、箱根に到着した、という実感が湧いてきた。


身替り地蔵
宇治川の先陣争いで名高い梶原景季(かげすえ)は、
ある年箱根を通りかかった時、何者かに襲われた。
当時弁舌巧みでたびたび人を陥れた平景時と間違えられたらしい。
幸いにもかたわらにあった地蔵が身替りになってようやく命が助かった。
それ以来、この地蔵を景季の身替り地蔵と呼んだ、とのこと。、


箱根の杉並木を爆音を響かせながら格好良く走るバイク集団


箱根一里塚
杉並木に入って直ぐのところにある。
日本橋から24番目の一里塚である。


箱根旧街道杉並木入口


慶長九年(1604)江戸幕府は街道に並木を植えるように命じた。


箱根の杉並木は樹齢350年ほどで、現在約400本余の大木が並んでいるが、


100年後には1/3程度になると危惧されている、とのこと。


箱根関所へ向かう。


箱根関所・江戸口御門から入る。
箱根関所は、主として諸大名の謀反防止のために開設されたと云われ、


箱根関所・大番所・上番休息所
「出女」を厳重に取り締まった。


箱根関所・足軽番所
平成19年に足掛け9年の歳月をかけて、幕末の関所が江川文庫に残っていた史料をもとに、
当時の姿に忠実に復元された。


箱根関所・厩
江戸時代、箱根関所に建てられていた厩には、5頭の馬を繋ぐことができるようになっていた。
しかし、実際には2頭しかおらず、空いた場所には、関所の周りに廻らされた木柵の予備や外掃除の道具、
火を消す道具などが納められていた。厩は納屋と兼用だった、そうだ。


箱根関所・京口御門へと抜ける。
通り抜けは無料である。


関所前の土産物店前を通過


この日の宿「夕霧荘」を地図で確認


「夕霧荘」への入口を入って進むと、


15時46分、「夕霧荘」に到着
目標の16時には何とか間に合った。
既にK子さんは到着していて、近くを散歩中とのことだった。


玄関前で整理体操を済ませ、ひと風呂浴びて汗を流した。


18時から大広間で夕食開始だ。
先ずは、『かんぱ~いっ』 


『今日はお疲れさまでしたぁ』


この日の料理


豚鍋もある。


『美味しいねぇ』


最後に全員揃って記念撮影だ。
『明日も元気で頑張りましょうっ』


「旧東海道を歩く」第十回目(箱根湯本宿~箱根関所)を無事歩き終えた。
距離は幾分長かったが、道中のハイライトである箱根の石畳歩きを楽しめた。
いよいよ明日は最終回を迎える。
皆さんと揃って、元気に三島宿へゴールインしたい。

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