2016年10月23日(日)
今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。
「甲州街道を歩く」第七回目は、小原宿(JR相模湖駅)から上野原宿(JR上野原駅)までの約10Kmを歩いた。
東京駅のホームで好みの駅弁を買い、
東京駅8時39分発の高尾行中央特快に乗車。
この日の参加者は8名、4ヶ月振りにMさんが参加してくれた。
9時26分、高尾駅に到着し、9時47分発の松本行に乗り換える。
松本行の車内は、それほど混んではいなかった。
9時56分、この日のスタート地相模湖駅に到着。
めいめい準備を整えて、10時6分、相模湖駅を出発!
相模湖駅から数分歩いた所の柿の木が、びっしりと実を付けていた。
高枝切狭で採取しているところだった。
甘柿(富有柿)で、今年は豊作だそうだ。
『それにしても凄い数だね~』
『自由に採って持って行っても良いよっ』と仰るので、採らせてもらった。
『では遠慮なくいただきますっ』
満面の笑みのKさん、思わず表情が緩む。
皆に一つづつ分けてもらった。
お昼のデザート代りにでも食べることにしよう。
『ほんと 甘いよこの柿』
早くも丸かじりしている人もいる。
明治天皇与瀬小休所阯の碑
この辺りに与瀬宿本陣があるはずなのだが、見落としたようだが・・・
明治天皇が小休止されたということは、ここに本陣があったということ?
与瀬宿は、相模川の渓谷に沿った宿で、木材の川流しや舟運が盛んだった地域。
本陣は武田家の旧家臣(旧坂本家)が勤め、
江戸時代、鮎料理が評判の宿として知られていた、そうである。
道標などがないため、与瀬宿の次の宿場吉野宿への道が分からず、
10分ほど近くを探し回った。
まあ、慈眼寺の入口を進めば何とかなるだろう。
坂道を上って行くと、与瀬神社の鳥居が建っていた。
いきなり急な石段だが、直ぐ近くに慈眼寺もあるようだし、
ちょこっと見るだけにしておこう。
石段を上ると、中央高速道の上に出た。
(山梨方面を望む)
高速道路を跨いだ先に慈眼寺と与瀬神社の鳥居があった。
慈眼寺は、金峰山慈眼寺と号する高野山真言宗の寺院。
天正年間、頼源阿舎利により開創された寺で、明治五年の神仏分離以前は、
与瀬蔵王大権現の別当寺だったそうだ。
与瀬神社
吉野山の蔵王権現を勧請した古社で「与瀬の権現様」と呼ばれている。
祭神は日本武尊で4月13日に例大祭が行なわれる、そうである。
社殿は、さらに石段を上った先にあるため、参拝は見合わせた。
中央高速道から見る相模湖の眺望は素晴らしい。
『こんなに急な階段だったっけ』
『下りる時の方が大変だよねっ』
旧甲州街道は、中央高速道に沿って進む。
中央高速道の下を潜って国道20号沿いに進むと、
ら~めん屋があった。
ら~めん屋手前の小さな道を進むが、
車両通行止めになっていた。
人は大丈夫だろうと少し進んでみたが、街道らしき道は見つけることは出来なかった。
甲州古道の木柱を見つけた。
目指す吉野宿は左手前を指している。
たった今上って来た道のようにも見える。
仕方なく国道20号まで戻り、ら~めん屋の方へ。
中央高速道を潜ると、国道20号の右側に道があった。
『こっちの道じゃないのっ?』
その道は、再び中央高速を潜るように続いていた。
中央高速道を潜り、左手に中央高速道を見ながら坂道を進む。
かなり勾配のある坂道である。
さらに坂道を上って行くと、
甲州古道横道の木柱があった。
左吉野宿とある。
道が間違っていなかったことに安堵した。
左手に相模湖を見ながら、
甲州古道を進むと、
11時14分、秋葉神社があった。
鳥居は傾いているうえ、珍しく竹で出来ている。
赤い常夜灯は木製で簡素なものだ。
鳥居の先に社殿があるのかは分からない。
道路脇には石仏などが並んでいた。
庚申塚や供養塔、お地蔵さんなどもあった。
甲州古道を進む。
甲州古道橋沢と書かれた木柱があった。
隣に県立神馬相模湖自然公園と書かれた木柱もある。
この道は、ウォーキングコースにもなっているらしい。
道の分岐点手前に甲州古道子の入と書かれた木柱があった。
この辺りに馬頭観音像があるはずなのだが・・・近くには見当たらない。
ここに30年近く住んでいると言う地元の方に訊いてみたが、
『知らない』とのこと。
わざわざ家から出て来て一緒に探してくれたのには恐縮した。
厚くお礼を述べ、左手の甲州道中へ。
(後で調べたら、馬頭観音像はもう少し山の方ということが分かった)
子の入で左に分岐して、中央高速道を跨ぎ、
(山梨方面)
坂道を下って行くと、
観福寺の屋根が見えてきた。
11時45分、観福寺に到着
本尊は千手観世音菩薩で、不動明王・毘沙門天を従えている。
観福寺を後にして坂道を下って行くと、
甲州古道桜野と書かれた木柱があった。
さらに下ると、
甲州古道矢部と書かれた木柱があった。
矢部と書かれた木柱の所を右折して下る。
細くて急な坂道になっている。
甲州古道椚戸(くぐど)と書かれた木柱があった。
『木偏に門って、クヌギじゃないっ?』
さすが物知りのKさんである。
道なりに進むと、
左手に相模湖が見えてきた。
『相模湖が直ぐ近くだねっ』
坂道を下ると、
吉野宿高札場と書かれた木柱があった。
『吉野宿に入ったんだっ』
高札場跡碑の横には六地蔵が鎮座していた。
聖蹟の碑の隣に吉野本陣跡の説明があった。
吉野宿本陣は、上り下りの大名が宿泊する規模の大きな本陣であった。
かつては5階建ての巨大な建物があったが、明治29年の大火で消失した。
隣に焼け残った土倉が残る。
郷土資料館
かつての旅籠「ふじや」が、現在は郷土資料館として公開されている。
屋根裏を含め、3層の展示場に藤野町の民具や
養蚕などの用具が展示されている。
管理人によると、蚕は今年のものだそうだ。
吉野宿のミニジオラマ
街道沿いに民家が立ち並んでいる。
吉野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒と小さな宿であった。
吉野宿本陣も見える。
吉野本陣のミニチュア
本陣は名主吉野家で同家は問屋をも兼ねた。
本陣の建坪は150坪で、与瀬本陣坂本家とともに甲州街道の本陣の中では規模が大きい。
右の建物は、明治29年の大火でも消失せずに残った土倉である。
郷土資料館の壁に破風が展示されていた。
(破風は、日本の建築で切妻造や入母屋造の屋根の妻の板)
郷土資料館を後にして上野原宿を目指す。
12時23分、吉野橋に到着
吉野橋は、沢井川に架かる橋である。
かつてこの橋の南寄り「小猿橋」と呼ばれる橋があった。
長さ十四間(25m)、幅二間(3.6m)、高さ五丈八尺(25m)の欄干付きの板橋だった。
大月の「猿橋」と工法と形も同じで、その規模が少し小さいことから「小猿橋」と呼んだ。
吉野橋の架設に伴い消滅した。
そのうち観ることになるであろう大月の「猿橋」に期待しながら吉野橋を渡る。
吉野橋から湖を観る。
今は相模湖があるため、沢井川の流れは見られない。
『静かだねっ』
国道20号を分岐して旧街道を進む。
分岐した旧道は殆ど坂道になっている。
坂道はやはりきつい。
7分ほどで再び国道20号へ合流した。
国道20号を進む。
この辺りは歩道はないうえ、車が多いので危険を感じる。
12時47分、藤野駅に到着した。
駅舎の前に上手い具合にベンチがあったので、ここで弁当タイムだ。
『この駅弁美味しいわよっ』
この日の駅弁は五目わっぱめし(950円)だ。
お腹が空いていたこともあるが、なかなか美味しかった。
弁当も終わり、13時22分、上野原宿を目指して藤野駅を出発。
藤野駅前の国道沿いに「シーゲル堂」と言う店があった。
店主の横山茂さんは、「わらび座」という歌舞団活動を戦後から27年行っていた、とのこと。
その後、藤野の駅から真っ直ぐ降りた所で薬局屋を30年近く営んでいたが、
その薬屋を廃業して、平成13年に藤野に住むアーティスト達と一緒に作りだした、
怪しく楽しいお店『シーゲル堂』がスタートした、そうである。
ちゃんとした商品から、ヘンテコな商品、怪しい商品、ユニークな作品・・・
とにかく、「なんでもあり」なお店、らしい。
しかし、なぜか全体がうまく調和している不思議な店、だそう・・・
しばらく国道20号を進むと、
中央高速道の下を進むことになる。
関野本陣跡の説明板があった。
説明板によると、明治21年とその後の大火で本陣及び宿場の面影を残す建物は、
ほとんど焼失してしまった、とのこと。
関野宿は、相模国の西端の宿で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒だった。
また、関野宿は長谷川伸の戯曲「関の弥太ッぺ」の舞台でもある、そうだ。
増珠寺
石段の入口は、閉まっていたが、簡単に開けることが出来た。
急な石段を上ると、
増珠寺本堂があった。
増珠寺は、永世年間、北約2Kmの大日野原古寺に、功雲七世潮翁能音大和尚により開創。
黒沢山陰棲寺と称したが、後の天明五年八世一堂快ごう大和尚の時、現在地に移転された。
御本尊は延命地蔵菩薩
境内のあちこちにお地蔵さんが鎮座していた。
可愛らしい六地蔵尊
このお地蔵さんは、屋根付きの祠に祀られていた。
石段を下り、国道20号へ戻る。
『下りの石段は怖いねぇ』
増珠寺を過ぎた辺りから、坂の上・御留坂・下小淵下といった木柱道標が続く。
甲州古道坂の上の分岐を右方向へ
坂の上の分岐点には何故かウルトラマンの像が・・・
『これは良い目印になるねっ』
少し進むと、甲州古道御留坂(ごりゅうざか)の木柱道標があり、
坂道を下ると、また国道20号へ戻った。
甲州道中は、短い分岐路が多い。
えのき坂という坂道があったので、上って行ったが、
『どこまで行けば国道に戻れるんだろうねぇ』
えのき坂の分岐から400m以上進んだ辺りで、道を間違っていることに気が付いた。
えのき坂を300mほど戻ったところで、地元の人に、
写真の道が国道20号へ出られることを教えて貰った。
『ありがとうございま~すっ』
しばらく道なりに進み、国道20号に合流出来て一安心。
『また木柱があるよっ』
『何て書いてあるのっ?』
甲州古道下小淵下と書いてある。
『こっちの道だよねっ』
国道20号から分岐して坂道を下る。
境沢橋を渡る。
境沢橋は、境川に架かる橋で、相模国(神奈川県)と甲斐国(山梨県)の国境だった。
相模川に架かる橋(境川橋)があった。
相模川の水面は鏡のようでさざ波ひとつない。
『まるで湖みたいだねっ』
上野原宿への道は反対側だった。
上野原市方面へ。
右の道は先ほど下小淵下の木柱道標から下りて来た道である。
急な坂道を上って行くと、
14時32分、道路の一段上の斜面に諏訪関跡の石柱があった。
諏訪関の説明板に見入る。
諏訪関跡の名称は、諏訪番所(境川番所・境川口留番所)とも呼ぶ。
もともと、この付近は相模国と甲斐国との国境であり、
かつ甲斐国の東側入口に当たったため、重要視された。
通行取り締まりと物資出入り調べ・高瀬舟取締りと徴税(二割二分)
・鶴川「渡し場」取締り・通行手形改め・番所坂所在茶店よりの
情報聴取などがあった。
坂道を上って行き、14時38分、上野原自動車教習所を通過
上野原宿を目指す。
船守寺を通過
船守寺は、十界曼陀羅を本尊とする日蓮宗の寺院である。
14時48分、諏訪神社に到着
諏訪神社に参拝
かつて、小田原攻めをした武田軍が諏訪神社で休息を取った際、
あまりの疲労と寒さのため、拝殿の板を燃やして暖を取ったとされ、
このため、諏訪神社の氏子の怒りを買い、武田勝頼が謝罪の上、
修繕したと伝えられる、そうである。
上諏訪バス停を通過
『信州と同じ地名だねっ』
14時59分、諏訪橋に到着
ゴールの上野原駅は間もなくだ。
諏訪橋は、中央自動車道に架かる橋である。
東京方面は、行楽帰りの車で混んでいた。
15時3分、諏訪橋から3分で、この日最後の訪問地疱瘡(ほうそう)神社に到着した。
疱瘡神社
この地に残る伝承と記録によると、江戸時代の初め、疱瘡神と縁のある
越前国(福井県)湯尾峠(ゆのおとうげ)生まれのあばた顔の老婆が、
諸国遍歴の途中、この地で倒れ、村人の手厚い看護に感謝して
『この地を疫病から護る。疱瘡の神を作れ』と言い残して亡くなった。
そこで村人は湯尾峠から疱瘡の神を勧請して、萬治四年(1661)三月、
疱瘡神社を建立した。
疱瘡神社の裏に、塚場一里塚がある。
日本橋より17番目の一里塚で、塚木はカヤであった。
現在私有地のため、中には入れない。
カヤの木は切り倒されたままで塚だけが残っていた。
疱瘡神社を後にして上野原駅へ向かう。
中央高速道はかなり混んできている。
中央高速道を跨いで上野原駅を目指す。
上野原駅周辺の住宅地と中央本線の線路が見えてきた。
上野原駅は近い。
上野原駅への階段を下りると、
上野原駅舎の真ん前に出た。
15時24分、ゴールの上野原駅改札口に到着
上野原駅の改札口は少々変わっている。
上り・下りの改札口が別々になっている。
こちらは上りの改札口で、下りの改札口は後ろにあるのだ。
(どちらからでも入れると思う)
電車を待つ間に缶ビールでもと思ったが、あいにくKIOSKは、閉まっていた。
土日祝日は、13時30分までの営業となっていた。
『土日祝日の午後はお客がいないってことなんだろうねっ』
駅舎を出て外まで缶ビールを買いに行ってる時間はない。
ここは東京まで我慢するしかなさそうだ。
15時41分発東京行快速電車がやって来た。
上野駅のコンビニで好みの缶ビールを買い、
『かんぱ~い』 『お疲れさま~っ』
やはり、常磐線は落ち着いて飲める。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧甲州街道を歩く」第七回目(小原宿~上野原宿間約10Km)を歩き終わった。
相模湖駅を出発して直ぐに道を間違えたのを皮切りに、途中で何度も道を間違え、
どうなることかと心配されたが、何とか最後まで無事歩くことが出来た。
帰宅後、相模湖駅近くで戴いた柿を食べたが、甘くてとても美味しかった。
次回(11月)は、上野原宿(上野原駅)から鳥沢宿(鳥沢駅)までを予定している。
どんな駅弁にしようか、今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。
この日の万歩計は、24.000歩を超えていた。
”ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次”
今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。
「甲州街道を歩く」第七回目は、小原宿(JR相模湖駅)から上野原宿(JR上野原駅)までの約10Kmを歩いた。
東京駅のホームで好みの駅弁を買い、
東京駅8時39分発の高尾行中央特快に乗車。
この日の参加者は8名、4ヶ月振りにMさんが参加してくれた。
9時26分、高尾駅に到着し、9時47分発の松本行に乗り換える。
松本行の車内は、それほど混んではいなかった。
9時56分、この日のスタート地相模湖駅に到着。
めいめい準備を整えて、10時6分、相模湖駅を出発!
相模湖駅から数分歩いた所の柿の木が、びっしりと実を付けていた。
高枝切狭で採取しているところだった。
甘柿(富有柿)で、今年は豊作だそうだ。
『それにしても凄い数だね~』
『自由に採って持って行っても良いよっ』と仰るので、採らせてもらった。
『では遠慮なくいただきますっ』
満面の笑みのKさん、思わず表情が緩む。
皆に一つづつ分けてもらった。
お昼のデザート代りにでも食べることにしよう。
『ほんと 甘いよこの柿』
早くも丸かじりしている人もいる。
明治天皇与瀬小休所阯の碑
この辺りに与瀬宿本陣があるはずなのだが、見落としたようだが・・・
明治天皇が小休止されたということは、ここに本陣があったということ?
与瀬宿は、相模川の渓谷に沿った宿で、木材の川流しや舟運が盛んだった地域。
本陣は武田家の旧家臣(旧坂本家)が勤め、
江戸時代、鮎料理が評判の宿として知られていた、そうである。
道標などがないため、与瀬宿の次の宿場吉野宿への道が分からず、
10分ほど近くを探し回った。
まあ、慈眼寺の入口を進めば何とかなるだろう。
坂道を上って行くと、与瀬神社の鳥居が建っていた。
いきなり急な石段だが、直ぐ近くに慈眼寺もあるようだし、
ちょこっと見るだけにしておこう。
石段を上ると、中央高速道の上に出た。
(山梨方面を望む)
高速道路を跨いだ先に慈眼寺と与瀬神社の鳥居があった。
慈眼寺は、金峰山慈眼寺と号する高野山真言宗の寺院。
天正年間、頼源阿舎利により開創された寺で、明治五年の神仏分離以前は、
与瀬蔵王大権現の別当寺だったそうだ。
与瀬神社
吉野山の蔵王権現を勧請した古社で「与瀬の権現様」と呼ばれている。
祭神は日本武尊で4月13日に例大祭が行なわれる、そうである。
社殿は、さらに石段を上った先にあるため、参拝は見合わせた。
中央高速道から見る相模湖の眺望は素晴らしい。
『こんなに急な階段だったっけ』
『下りる時の方が大変だよねっ』
旧甲州街道は、中央高速道に沿って進む。
中央高速道の下を潜って国道20号沿いに進むと、
ら~めん屋があった。
ら~めん屋手前の小さな道を進むが、
車両通行止めになっていた。
人は大丈夫だろうと少し進んでみたが、街道らしき道は見つけることは出来なかった。
甲州古道の木柱を見つけた。
目指す吉野宿は左手前を指している。
たった今上って来た道のようにも見える。
仕方なく国道20号まで戻り、ら~めん屋の方へ。
中央高速道を潜ると、国道20号の右側に道があった。
『こっちの道じゃないのっ?』
その道は、再び中央高速を潜るように続いていた。
中央高速道を潜り、左手に中央高速道を見ながら坂道を進む。
かなり勾配のある坂道である。
さらに坂道を上って行くと、
甲州古道横道の木柱があった。
左吉野宿とある。
道が間違っていなかったことに安堵した。
左手に相模湖を見ながら、
甲州古道を進むと、
11時14分、秋葉神社があった。
鳥居は傾いているうえ、珍しく竹で出来ている。
赤い常夜灯は木製で簡素なものだ。
鳥居の先に社殿があるのかは分からない。
道路脇には石仏などが並んでいた。
庚申塚や供養塔、お地蔵さんなどもあった。
甲州古道を進む。
甲州古道橋沢と書かれた木柱があった。
隣に県立神馬相模湖自然公園と書かれた木柱もある。
この道は、ウォーキングコースにもなっているらしい。
道の分岐点手前に甲州古道子の入と書かれた木柱があった。
この辺りに馬頭観音像があるはずなのだが・・・近くには見当たらない。
ここに30年近く住んでいると言う地元の方に訊いてみたが、
『知らない』とのこと。
わざわざ家から出て来て一緒に探してくれたのには恐縮した。
厚くお礼を述べ、左手の甲州道中へ。
(後で調べたら、馬頭観音像はもう少し山の方ということが分かった)
子の入で左に分岐して、中央高速道を跨ぎ、
(山梨方面)
坂道を下って行くと、
観福寺の屋根が見えてきた。
11時45分、観福寺に到着
本尊は千手観世音菩薩で、不動明王・毘沙門天を従えている。
観福寺を後にして坂道を下って行くと、
甲州古道桜野と書かれた木柱があった。
さらに下ると、
甲州古道矢部と書かれた木柱があった。
矢部と書かれた木柱の所を右折して下る。
細くて急な坂道になっている。
甲州古道椚戸(くぐど)と書かれた木柱があった。
『木偏に門って、クヌギじゃないっ?』
さすが物知りのKさんである。
道なりに進むと、
左手に相模湖が見えてきた。
『相模湖が直ぐ近くだねっ』
坂道を下ると、
吉野宿高札場と書かれた木柱があった。
『吉野宿に入ったんだっ』
高札場跡碑の横には六地蔵が鎮座していた。
聖蹟の碑の隣に吉野本陣跡の説明があった。
吉野宿本陣は、上り下りの大名が宿泊する規模の大きな本陣であった。
かつては5階建ての巨大な建物があったが、明治29年の大火で消失した。
隣に焼け残った土倉が残る。
郷土資料館
かつての旅籠「ふじや」が、現在は郷土資料館として公開されている。
屋根裏を含め、3層の展示場に藤野町の民具や
養蚕などの用具が展示されている。
管理人によると、蚕は今年のものだそうだ。
吉野宿のミニジオラマ
街道沿いに民家が立ち並んでいる。
吉野宿は本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒と小さな宿であった。
吉野宿本陣も見える。
吉野本陣のミニチュア
本陣は名主吉野家で同家は問屋をも兼ねた。
本陣の建坪は150坪で、与瀬本陣坂本家とともに甲州街道の本陣の中では規模が大きい。
右の建物は、明治29年の大火でも消失せずに残った土倉である。
郷土資料館の壁に破風が展示されていた。
(破風は、日本の建築で切妻造や入母屋造の屋根の妻の板)
郷土資料館を後にして上野原宿を目指す。
12時23分、吉野橋に到着
吉野橋は、沢井川に架かる橋である。
かつてこの橋の南寄り「小猿橋」と呼ばれる橋があった。
長さ十四間(25m)、幅二間(3.6m)、高さ五丈八尺(25m)の欄干付きの板橋だった。
大月の「猿橋」と工法と形も同じで、その規模が少し小さいことから「小猿橋」と呼んだ。
吉野橋の架設に伴い消滅した。
そのうち観ることになるであろう大月の「猿橋」に期待しながら吉野橋を渡る。
吉野橋から湖を観る。
今は相模湖があるため、沢井川の流れは見られない。
『静かだねっ』
国道20号を分岐して旧街道を進む。
分岐した旧道は殆ど坂道になっている。
坂道はやはりきつい。
7分ほどで再び国道20号へ合流した。
国道20号を進む。
この辺りは歩道はないうえ、車が多いので危険を感じる。
12時47分、藤野駅に到着した。
駅舎の前に上手い具合にベンチがあったので、ここで弁当タイムだ。
『この駅弁美味しいわよっ』
この日の駅弁は五目わっぱめし(950円)だ。
お腹が空いていたこともあるが、なかなか美味しかった。
弁当も終わり、13時22分、上野原宿を目指して藤野駅を出発。
藤野駅前の国道沿いに「シーゲル堂」と言う店があった。
店主の横山茂さんは、「わらび座」という歌舞団活動を戦後から27年行っていた、とのこと。
その後、藤野の駅から真っ直ぐ降りた所で薬局屋を30年近く営んでいたが、
その薬屋を廃業して、平成13年に藤野に住むアーティスト達と一緒に作りだした、
怪しく楽しいお店『シーゲル堂』がスタートした、そうである。
ちゃんとした商品から、ヘンテコな商品、怪しい商品、ユニークな作品・・・
とにかく、「なんでもあり」なお店、らしい。
しかし、なぜか全体がうまく調和している不思議な店、だそう・・・
しばらく国道20号を進むと、
中央高速道の下を進むことになる。
関野本陣跡の説明板があった。
説明板によると、明治21年とその後の大火で本陣及び宿場の面影を残す建物は、
ほとんど焼失してしまった、とのこと。
関野宿は、相模国の西端の宿で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠3軒だった。
また、関野宿は長谷川伸の戯曲「関の弥太ッぺ」の舞台でもある、そうだ。
増珠寺
石段の入口は、閉まっていたが、簡単に開けることが出来た。
急な石段を上ると、
増珠寺本堂があった。
増珠寺は、永世年間、北約2Kmの大日野原古寺に、功雲七世潮翁能音大和尚により開創。
黒沢山陰棲寺と称したが、後の天明五年八世一堂快ごう大和尚の時、現在地に移転された。
御本尊は延命地蔵菩薩
境内のあちこちにお地蔵さんが鎮座していた。
可愛らしい六地蔵尊
このお地蔵さんは、屋根付きの祠に祀られていた。
石段を下り、国道20号へ戻る。
『下りの石段は怖いねぇ』
増珠寺を過ぎた辺りから、坂の上・御留坂・下小淵下といった木柱道標が続く。
甲州古道坂の上の分岐を右方向へ
坂の上の分岐点には何故かウルトラマンの像が・・・
『これは良い目印になるねっ』
少し進むと、甲州古道御留坂(ごりゅうざか)の木柱道標があり、
坂道を下ると、また国道20号へ戻った。
甲州道中は、短い分岐路が多い。
えのき坂という坂道があったので、上って行ったが、
『どこまで行けば国道に戻れるんだろうねぇ』
えのき坂の分岐から400m以上進んだ辺りで、道を間違っていることに気が付いた。
えのき坂を300mほど戻ったところで、地元の人に、
写真の道が国道20号へ出られることを教えて貰った。
『ありがとうございま~すっ』
しばらく道なりに進み、国道20号に合流出来て一安心。
『また木柱があるよっ』
『何て書いてあるのっ?』
甲州古道下小淵下と書いてある。
『こっちの道だよねっ』
国道20号から分岐して坂道を下る。
境沢橋を渡る。
境沢橋は、境川に架かる橋で、相模国(神奈川県)と甲斐国(山梨県)の国境だった。
相模川に架かる橋(境川橋)があった。
相模川の水面は鏡のようでさざ波ひとつない。
『まるで湖みたいだねっ』
上野原宿への道は反対側だった。
上野原市方面へ。
右の道は先ほど下小淵下の木柱道標から下りて来た道である。
急な坂道を上って行くと、
14時32分、道路の一段上の斜面に諏訪関跡の石柱があった。
諏訪関の説明板に見入る。
諏訪関跡の名称は、諏訪番所(境川番所・境川口留番所)とも呼ぶ。
もともと、この付近は相模国と甲斐国との国境であり、
かつ甲斐国の東側入口に当たったため、重要視された。
通行取り締まりと物資出入り調べ・高瀬舟取締りと徴税(二割二分)
・鶴川「渡し場」取締り・通行手形改め・番所坂所在茶店よりの
情報聴取などがあった。
坂道を上って行き、14時38分、上野原自動車教習所を通過
上野原宿を目指す。
船守寺を通過
船守寺は、十界曼陀羅を本尊とする日蓮宗の寺院である。
14時48分、諏訪神社に到着
諏訪神社に参拝
かつて、小田原攻めをした武田軍が諏訪神社で休息を取った際、
あまりの疲労と寒さのため、拝殿の板を燃やして暖を取ったとされ、
このため、諏訪神社の氏子の怒りを買い、武田勝頼が謝罪の上、
修繕したと伝えられる、そうである。
上諏訪バス停を通過
『信州と同じ地名だねっ』
14時59分、諏訪橋に到着
ゴールの上野原駅は間もなくだ。
諏訪橋は、中央自動車道に架かる橋である。
東京方面は、行楽帰りの車で混んでいた。
15時3分、諏訪橋から3分で、この日最後の訪問地疱瘡(ほうそう)神社に到着した。
疱瘡神社
この地に残る伝承と記録によると、江戸時代の初め、疱瘡神と縁のある
越前国(福井県)湯尾峠(ゆのおとうげ)生まれのあばた顔の老婆が、
諸国遍歴の途中、この地で倒れ、村人の手厚い看護に感謝して
『この地を疫病から護る。疱瘡の神を作れ』と言い残して亡くなった。
そこで村人は湯尾峠から疱瘡の神を勧請して、萬治四年(1661)三月、
疱瘡神社を建立した。
疱瘡神社の裏に、塚場一里塚がある。
日本橋より17番目の一里塚で、塚木はカヤであった。
現在私有地のため、中には入れない。
カヤの木は切り倒されたままで塚だけが残っていた。
疱瘡神社を後にして上野原駅へ向かう。
中央高速道はかなり混んできている。
中央高速道を跨いで上野原駅を目指す。
上野原駅周辺の住宅地と中央本線の線路が見えてきた。
上野原駅は近い。
上野原駅への階段を下りると、
上野原駅舎の真ん前に出た。
15時24分、ゴールの上野原駅改札口に到着
上野原駅の改札口は少々変わっている。
上り・下りの改札口が別々になっている。
こちらは上りの改札口で、下りの改札口は後ろにあるのだ。
(どちらからでも入れると思う)
電車を待つ間に缶ビールでもと思ったが、あいにくKIOSKは、閉まっていた。
土日祝日は、13時30分までの営業となっていた。
『土日祝日の午後はお客がいないってことなんだろうねっ』
駅舎を出て外まで缶ビールを買いに行ってる時間はない。
ここは東京まで我慢するしかなさそうだ。
15時41分発東京行快速電車がやって来た。
上野駅のコンビニで好みの缶ビールを買い、
『かんぱ~い』 『お疲れさま~っ』
やはり、常磐線は落ち着いて飲める。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧甲州街道を歩く」第七回目(小原宿~上野原宿間約10Km)を歩き終わった。
相模湖駅を出発して直ぐに道を間違えたのを皮切りに、途中で何度も道を間違え、
どうなることかと心配されたが、何とか最後まで無事歩くことが出来た。
帰宅後、相模湖駅近くで戴いた柿を食べたが、甘くてとても美味しかった。
次回(11月)は、上野原宿(上野原駅)から鳥沢宿(鳥沢駅)までを予定している。
どんな駅弁にしようか、今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。
この日の万歩計は、24.000歩を超えていた。
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