ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

企画から4年越し 豊田城から平将門を訪ねて

2018年11月02日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年11月2日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成30度第22回(2018年第32回)、「豊田城から平将門を訪ねて(常総市)」ウォーキングに参加した。

この日のコースは、最初に計画したのは平成27年(2015)だったが、水害のため別の場所に変更を余儀なくされた。
翌年(平成28年)、またその翌年(平成29年)と続けて雨で中止となり、今回実に4年越しに実現の運びとなった。

第一集合場所の乙戸沼公園に集まったのは16名
車4台に分乗し、旧石下町の豊田城に向かった。


豊田城に直行した人は8名で、計24名が集まった。
久し振りに20名を超え、賑やかである。


10時16分、いつものようにTKさんを先頭に出発!


城横の道路脇には幼稚園や小学生の子供たちが作った「カカシコンテスト」の人形が並べられていた。


『可愛いわね~っ』


先ずは石下駅を目標に進む。
豊田城の周辺には5つの櫓があり、倉庫や車庫、水防倉庫などに使われている。


常総線の踏切を渡り、


県道332号を石下駅方面へ。


石下駅前の交差点を左に曲がり、石下橋方面へ。


間もなく石下橋が見えてきた。


鬼怒川に架かる石下橋を渡る。
『いやぁ 今日はほんとに良い天気だね~』


久し振りに参加のOG子さん。
2月9日の「氷川神社から盆栽町へ」以来なので、9ヶ月振りである。


鬼怒川を渡る。


石下橋から見た筑波山
『いつも見る筑波山と微妙に違うよねっ』


県道24号を左に折れ、将門公苑へ。


10時51分、将門公苑に隣接する法輪寺に到着した。


平将門公本據豊田館跡の碑
ここ豊田舘は、一代の英雄平将門が生まれ育った場所である。
平将門は、延喜三年(903)に桓武平氏、良将の第二子として常総市(旧石下町)向石下の
豊田城に生まれたとされている。
平将門が本拠地としていた豊田館跡地が小さな公園として整備されている。


将門公のレリーフが刻まれた石碑。


将門一代記の碑石があり、右に豊田館址と平将門公事蹟、左に史跡向石下城址、
中央にNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」のイメージ絵が描かれている。


豊田館址と平将門公事蹟
この地、平安の世には未だ毛野川の流れ定まらず、河川沼沢に囲まれた要害の地であり、
偉大なる歴史上の人物である悲運の武将平将門の本拠地であった・・・・・・
将門公の事跡が詳しく書かれている。
(以下略)


史跡向石下城址
豊田館跡のこの地に向石下城を建てた経緯が書かれている。


『長過ぎて読んでられないよねっ』とカメラを構えるTKさん。


一息入れて、


次の目的地へ向けて県道24号を西へ。


十二天神社前を通り、


県道24号を進む。


周り一面に田んぼの景色が広がる。
『のどかで良いわね~っ』


将門川(しょうもんがわ)とある。
『”まさかどがわ”じゃないんだっ』


将門川に架かる岡田橋を渡る。
『小さい川だけど有名な名前だよねっ』


県道24号を進む。


将門川から500mほど先、信号機のない交差点を左に折れて、次の目的地大杉神社を目指す。


左手に筑波山が見えた。


豊田城も見える。


立ち止まって見ているのは???


3年前の平成27年9月10日に台風18号による大雨の影響で、鬼怒川の堤防が決壊し、
水に浸かったと思われる想定浸水深4.5m、と表示されている。
また、”この場所は鬼怒川が氾濫すると浸水する可能性があります”とある。
『へぇ~こんな所まで水が来たんだぁ』


ジュピター石下店(パチンコ店)を過ぎ、


県道24号を横断して県道136号を進むと、


11時30分、大杉神社に到着した。


大杉神社にしてはちょっと寂しい感じのする社ではある。


境内でしばし休憩


軽いお茶タイムだ。


次の目的地である将門公赦免菩提供養之碑を目指して、大杉神社の100m先を右へ。


さらにその約300m先を右へ。


3年前に故OMさんと下見をしたのだが、どうやら道を間違ったようだ。
その時は車だったためか、距離感が掴めない。


一つ前の分岐点まで戻り、左側の道を進んで行くと、


右から”平将門公赦免菩提供養之碑”、”平将門公菩提供養之碑”、”鎮守府将軍平良持公菩提供養之碑”
が並んでいた。


将門公赦免菩提供養之碑
鎌倉幕府第五代執権北条時頼が、民政安定のためにこの地の先霊を慰めんと、豊田四郎の供養碑を建てたが、
その際に将門公の祭祀尚常ならぬと聞き、自ら執奏勅免を得て下総守護千葉氏第十五代胤宗に命じ、
将門の罪を赦しその霊を供養すべく碑の建立を命じて、建長五年(1253)に造られたもの。


梵字が彫られているようだが、はっきりとは分からない。


将門公菩提供養之碑
慶長六年(1601)、その赦免碑に歓喜した縁者伴類達が豊田、小田両氏の助力を得て将門菩提供養の碑を建てた。
これらの碑は、以前は御子埋(みこのめ)台地引手山(「平親王将門公一族墳墓之地」石碑辺り)にあったが、
河川堤防改修に際し、建長五年の碑と七年の碑と将門の父良将の供養碑とは、現在の蔵持阿弥陀観音堂の
境内に移設された。
慶長六年の碑は、この時に妙見寺に移され、後に妙見寺が廃寺になり今は西福寺にある。


蔵持公民館の境内には、観世音堂、阿弥陀堂の他、


大師堂・お釈迦堂がある。


こういった歴史には女性たちはあまり興味がなさそう。
久し振りの再会で話はもちきりである。


将門公赦免菩提供養之碑を後にして、県道136号を次の目的地である六所塚古墳を目指す。


県道136号を道なりに進むと、


三日月神社と刻まれた石があった。
周りにはこの石の他には何も見当たらない。


その石の所を左に折れ、田んぼのあぜ道のような径を進む。


六所塚古墳
平将門もしくは将門の父良將が埋葬されているとも云われているが、詳細は定かではない。
全長70mの前方後円墳で古墳群中最大の規模を誇る。
六所塚は六十六塚と云われ、かつては85基の古墳が確認された神子女古墳群の一角にある。


標柱があったが、常総市指定文化財(史跡)だけしか読めない。


説明板の文字は消えかかっていて読めない。
この地の御子埋(みこのめ)古墳群の中に前方後円墳の「六所塚古墳」があり、ここには将門の父良将が
葬られていると言い伝えられ、東側の通称六所谷には将門の遺体を埋葬したとも伝えられており、
かつて数多くの石塔婆が出土したと云う。


六所塚古墳
始めは五所塚(御所)と呼ばれていたが、将門が逆賊の汚名を受けたために、
これを隠し六所塚と呼んだとも伝えられている、そうである。


六所塚古墳を後にして鬼怒川の堤防を目指す。


畦道を通り、


鬼怒川の堤防へ。


堤防の上に上がってみると、目の前に鬼怒川の景色が広がっていた。


上流を目指す。
『この道出来たばっかりって感じだよねっ』
堤防修復工事の一環と思われる。


土手の芝生は養生中で立入禁止となっていた。


鬼怒川の土手下に平親王将門公一族墳墓之地と刻まれた碑が建っていた。
この地は平将門の父鎮守府将軍平良持と兄将軍太郎将弘等の墳墓の地であったが、
将門が戦死すると、郎党は遺骸を馬に乗せてこの地に葬ったともいう。
ここら一帯の丘陵を、「御子埋(みこのめ)台地引手山」というそうだ。


平親王将門公一族墳墓之地の碑


弁当に相応しい場所を求めて鬼怒川の上流方面へ。
右斜め前方に筑波山と豊田城が見える。


さらに堤防上を進み、


篠山水門を通過すると、


左手に小さな公園のような芝生の広場があった。
『あそこで弁当だねっ』


ということで、12時27分、小さな芝生広場で弁当タイム(1)


弁当タイム(2)


弁当タイム(3)


弁当タイム(4)


弁当が終ってウォーキングを再開しようとしていたら、年配の方達(我々と同年代か?)が集まって来た。
これからグラウンドゴルフを始めるのだそうだ。
『お邪魔しましたぁ』 芝生広場を後にした。


次の目的地西福寺を目指す。
『弁当が終わったばかりでベストタイミングだったよねっ』


堤防内側は白菜の畑になっていた。
『いやぁ凄いね~っ これ全部白菜なんだぁ』


右側には筑波山と豊田城が見える。


豊田城


堤防上を進む。


前方に石下大橋が見えて来た。


石下大橋が目の前だが、橋に上がる階段のようなものは見当たらない。
『どうやったら橋に行けるんだろうねっ』


橋へ通じる階段がないため、橋のずっと手前の道路まで歩くことに。
畑の畦道を進む。
『歩くだけなら道なんてなくても何とかなるよねっ』


途中で畦道もなくなってしまったが、畑の脇を通り抜け、


県道24号を石下大橋へ。


石下大橋を渡る。


この日の鬼怒川は、鏡のように静かだ。
『さざ波一つ立っていないねっ』


石下大橋を渡る。


石下大橋を渡りきり、西福寺へ。


13時30分、西福寺に到着


平将門公菩提供養之碑は、入口の直ぐ左にあった。
もともと鬼怒川沿岸の引手山の蔵持の板碑とともにあったものが、後に新石下の妙見寺に移され、
明治四年(1871)妙見寺が廃寺になった祭、現在の西福寺に移された。


六地蔵前を進むと、


西福寺の鐘楼門が構えていた。


銀杏の大木
大粒のぎんなんが落ちており、独特の匂いを漂わせていた。


西福寺本堂
壽廣山観音院西福寺と号し、寛永九年(1632)に了学上人の隠居所として建設された。


境内弁天社


浄土宗の寺院としては珍しく、境内に四国88ヶ所の霊場が祀られている。


西福寺を後にして、お墓の中を裏口へ向かう。


県道24号を常総線を跨ぐ陸橋方面へ。


常総線を跨ぐ陸橋を渡ると、


回転寿司の「はま寿司」やコンビニなどが見えて来た。


陸橋を渡り切ると間もなくゴールだ。


常総市地域交流センター(豊田城)へ。


14時3分、常総市地域交流センター(豊田城)に到着
豊田城は、1,100人収容のホール及び図書室と石下の歴史を紹介した展示室からなる文化施設である。
平安時代末期から戦国時代までこの地方を支配した桓武平氏一族の豊田氏が、東部に流れる
小貝川べりに館を築き、豊田城と呼ばれていたため、センターの別称を「豊田城」とし、
5層7階建て(高さ48.5m)の天守閣を市のシンボルとし、平成4年(1992)に開館した。


豊田城入口に建てられた地元出身の歌人・小説家「長塚節」像


入館料は通常400円(20名以上の団体割引320円)だが、平成31年3月末までは
リニューアル記念で無料となっている。


豊田城へ
3~6階は展示室、7階は展望室で筑波山をはじめ、富士山、日光連山を望み、空が澄み切った時には
スカイツリーを見晴らすことができる。
常総市は平将門ゆかりの町として、「石下将門まつり」が行われている。


入口受付でパンフレットをもらい、


エレベータで6階へ
6階は、長塚節に関する資料が展示されている。


短歌


土の人 長塚節の教育スライド


長塚節の像


7階展望室東側の眺望(パノラマ)


東側の眺望


西側の眺望


南側の眺望


南側の眺望


北側の眺望


『東京スカイツリー見えるっ?』


ぼんやりとだが東京スカイツリーが見えた。

この後、4~3階の常総の産業・企画展示室・歴史などを見学しながら階段を下ったが、写真は割愛する。

14時46分、豊田城を後にする。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


4年ぶりに実施したこの日のコースだが、これ以上ないという好天に恵まれ、楽しい一日を過ごすことが出来た。
今回訪れた平将門にゆかりのある場所はほんの一部に過ぎないが、古き時代に思いを馳せ、歴史を感じることが出来た。
豊田城からの眺望は本当に素晴らしかった。
平成31年3月31日まで入館料無料ということもあるが、近くを通ることがあれば、また立ち寄ってみたい。

この日の万歩計は、18,000歩を計測していた。

ウマさんの「健康ウォーキングの会」の目次”へ戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 旧東海道第Ⅲステージ第5回 ... | トップ | スタジアムに歓声 鹿島神宮... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウマさんの「健康ウォーキングの会」」カテゴリの最新記事