ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

今回が初めて 水戸市城東エリアをめぐる

2023年03月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和5(2023)年3月17日(金)

隔週金曜日(2020年度から隔週に変更)、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が
主催する、令和4年度(2022年度)第21回、令和5年(2023年)第6回、「水戸市城東エリアをめぐる」ウォーキングに参加した。

水戸市内は下記のとおりこれまで4回歩いているが、今回5年9か月振りの水戸(城東エリア)は
今回が初めてとなる。
2017/07/07 緑がいっぱい 水戸駅から逆川緑地
2016/07/01 初の水戸芸術館展望タワー 千波湖・偕楽園散策
2011/06/10 水戸城跡廻りと千波湖一周
2009/09/18 見頃は過ぎた? 水戸偕楽園萩まつり

荒川沖駅改札口に集まったのは12名、ほぼいつものメンバーである。


8時24分発勝田行の電車を待っているところ。


8時24分、時刻表通り勝田行の電車がやって来た。


常磐線車内は、比較的空いていた。


車内風景(1)


車内風景(2)


9時32分、水戸駅に到着。
土浦駅から8名、神立駅から2名が乗車したことが分かり、この日の参加者は22名となった。


水戸駅改札口で参加者全員と顔を合わせ、


先ずは北口広場へ。
北口ペデストリアンデッキへ出ると、水府ちょうちんが掲げられた「お休み処」が目に入った。
『初めて見るよねっ』
この「お休み処」は令和元年(2019)9月に設置されたとのこと。
水府ちょうちんは水戸の伝統工芸品で、高さ120Cm・径75Cm。
水戸東照宮の協力を受け、東照宮の葵の御紋が入っている。


こちらは、お馴染みの水戸黄門様像だ。


「お休み処」の前で、コース概略の説明の後、TK会長の挨拶があり、


9時48分、出発!
最初の目的地、水府流水泳道場跡を目指す。


ここ数日は春のような温かい日が続き、3日前の14日には東京桜開花宣言があったばかりだが、
この日は気温も低く、正面から冷たい風が吹くコンディションとなった。
午後には雨になるとの予報である。
『風が冷たいわねっ』 『天気が持つと良いんだけどねっ』


国道51号水戸三の丸方面


三の丸二丁目を左に曲がり、国道51号を進む。
右手に義公生誕の地(水戸黄門神社)が見える。
『黄門様の神社としては小さすぎるんじゃないっ?』ぇ
『もっと立派な神社を造れば良かったのにねっ 黄門様なんだからねぇ』


国道51号の緩やかな坂道を上り、JR水戸線手前を左へ曲がって・・・


”水戸学の道”を進むと・・・
二の丸の南口にあたる柵町(さくまち)坂下門があった。
この門をくぐって坂を上ると、二の丸に入る柵町門があった、とある。
柵町坂下門は「高麗門」という様式となっている。


柵町坂下門を潜ると右側に徳川頼房公像が建てられていた。
徳川頼房(1603-1661)は、徳川家康公の第11子として慶長8年(1603)京都伏見城で生まれ、
同14年7歳で水戸藩初代藩主となったことで知られる。


さらに水戸学の道を進むと、高麗門様式の杉山門があり、


杉山門をくぐって直ぐ右に曲がり、坂道を下る。


坂道を下り切ると・・・


道路に出た。
道路反対側の正面の先が那珂川の堤防と思われる。


堤防への階段らしきものがなかったので、土手を上るしかない。


土手を上ると堤防に出た。
下流方向にJR水戸線の鉄橋が見える。


堤防の上を進んで行くと・・・
”この先通り抜け出来ません”の標識が。


少し戻って今度は堤防を下る。
『せっかく上ったのにねっ』


一般道を進み、JR水戸線の鉄橋下を通り抜けて、再度堤防方向へ進むと・・・


10時10分、水府流水泳道場跡に到着した。


水府流は、那珂川を臨む水戸に古くから発達した武術で、泳法は「のし泳ぎ」を基本とした。
上町流は元禄年間に島村孫衛門正広が指南し、下町流は小松群蔵、荷見守荘が指導していた。
九代藩主斉昭が弘道館を開くと、水府流水術と命名し武術の一科として奨励した。
道場は水府橋下の杉山道場のほか数か所あって廃藩後も昭和の中期まで栄え、現在は
水府流水術協会が伝承している。(プールのなかった昔は那珂川で水府流を学んだ)


『昔TVで紹介されてたのを見たことがあるよねっ』


那珂川の穏やかな流れを眺めながら堤防を進む。


右手にはマンションらしき建物が続いている。
『眺めは最高に良いでしょうねっ』


次の目的地である宝鏡院不動尊への道案内らしきものは何もないため、たまたま途中にあった
階段を下ることにした。
少し行き過ぎている感じではあるが・・・


後続Gはまだ堤防の上である。


一般道を少し進むと、学校らしい建物があった。
水戸市立城東小学校である。
やはり少し行き過ぎていたことが分かった。


水戸市立城東小学校手前で引き返して一般道を進むと、
10時27分、道路の一画に常陸山生誕の地の碑が建てられていた。


第十九代横綱 常陸山谷右衛門像


常陸山谷右衛門(本名、市毛)は、明治7年(1874)1月19日、この地に生まれた。
(当時の宝鏡院門前町、現在の城東二丁目)
旧制水戸中学三年の時に上京後、水戸出身の出羽海運右衛門のもとに弟子入りし、
頭角を現し、明治36年、横綱に推挙された。
さらに、横綱梅ケ谷(二代目)と共に「常陸・梅」の黄金時代を築き上げ、今日の大相撲隆盛の
基礎を固めるという偉業を成し遂げた。
引退後(大正3年)は、後進の指導と共に、焼失した国技館の再建にも尽力するなど相撲界全体
の発展にも大きく貢献した。


常陸山谷右衛門像の左後方には、横綱白鵬関史上最多優勝33回記念として仙台しだれ桜が
植樹(平成23年1月23日)されていた。


また右側には第72代横綱稀勢の里関の奉納土俵入り(平成29年6月11日)を記念して桜が
植樹されていた。
奉納土俵入りの太刀持ちは高安関、露払いは松鳳山関が務めている。


直ぐ近くまで来ているはずなのだが、生憎宝鏡院不動院を見つけることが出来なかったため、
次の目的地横山大観生誕の地を目指すことにした。


住宅街を進んで行くと、横山大観生誕の地の碑があった。


10時36分、横山大観生誕の地に到着した。


近代日本画の巨匠横山大観は、明治元年(1868)9月18日にこの地に生まれました。
父は水戸藩士酒井捨彦、母は須恵といい、大観はその長男として生まれています。
「横山」は後に大観が養子となって継いだ養家の姓です。
江戸時代にはこのあたりに水戸藩士の武家屋敷が並んでおり、この場所は酒井家の屋敷の
敷地の一画にあたります。
大観は、岡倉天心らと共に日本の絵画の伝統を受け継ぎながら新しい時代の日本画を創出し、
ついには明治・大正・昭和の三代にわたって日本の美術界をリードしました。
大観の波乱に満ちた激動の生涯は、まさにこの場所から始まったのです。


横山大観像


横山大観生誕地の石碑


横山大観
横山大観は近代日本を代表する日本画家である。
明治元年(1868)に水戸下市三ノ町に生まれ、昭和33年(1958)に東京都台東区池之端の
自宅にて没した。
東京美術学校(現在の東京芸術大学)の第一期生として日本画を学ぶ。
同校で師事した岡倉天心に従って、以後、菱田春草らとともに日本画の改革に取り組んだ。
鮮やかな装飾的画風と、近代的な水墨画の両面で新境地を拓き、明治・大正・昭和の
三代にわたって日本の美術界をリードした。
また、大衆的な人気と知名度も極めて高い。
昭和6年、帝室技芸員(のち日本芸術院会員) 昭和12年、第一回文化勲章を受章。
横山大観先生 竪山南風画


横山大観生誕地の碑の前をそのまま進むと・・・
左側に水戸市立城東小学校の校舎が見えた。


水戸市立城東小学校の正門


何と今日は同行第76回目の卒業式だったのだ。
それにしては校内はとても静かだ・・・
今頃は厳かに卒業式が執り行われているのだろう。


次の目的地である秋葉神社へ向かう。


城東小学校の正門前の道は大観通りと命名されている。


城東小学校の横を那珂川方面に進むと、城東小学校の裏側に面した川岸通りに出た。


交差点を右に曲がって川岸通りを進むと・・・


10時54分、秋葉神社に到着した。
『あらぁ 随分可愛らしい神社だことっ』


もともとは静岡県周智郡にある秋葉山の神に対する秋葉信仰に由来するもので、秋葉山の神を
各県の秋葉神社、愛宕神社へ勧請したと云われる。
そしてこれらの神社の多くは地域内に火災がしばしば起こったことから、防火・火伏の目的で
祭祀されたと云われている。
『家が火事に遭いませんようにっ』


ここで、軽いお茶タイムだ。
『どうぞっ 遠慮なさらないでねっ』
『いつもありがとうさんで~すっ』


次の目的地新舟渡跡へ向かう。
秋葉神社の横の道を那珂川方面へ真っ直ぐ進むと、


11時3分、突き当りに新舟渡跡と刻まれた碑が。秋葉神社から3分とかかっていない。
裏新町(蔵前)にあった本舟渡から細谷村舟渡に移った新舟渡は、長らく水上交通の要地として
陸前浜街道の舟渡場として重要な役割を果たしたが、大正元年(1912)に寿橋が華僑されてから
衰退し廃止された。


右手に目をやると、国道6号(水戸BP)の水戸大橋が見えた。


堤防の一部は工事中のようだが、歩行者は進めるようなので、とりあえず水戸BPへ。


水戸BPに横断歩道は無く、交通量が多いため横断は無理だが、水戸BPを潜るトンネルが
足元にあることが分かり、水戸BP歩道を30mほど右方向へ進み、


鋭角に折り返し、水戸BPを潜るトンネルへ。


水戸BP下のトンネルを潜ると・・・


史跡神聖館五町矢場の碑(左)と練武の石碑(右)があった。
神聖館五町矢場は、水戸9代藩主斉昭公が嘉永6年(1853)細谷の地に造らせた製砲所と
射撃場で、翌年福地政次郎館長等により試射の式が行われた。


史跡神聖館五町矢場跡の由来と当時の地図が刻まれていた。
矢場は神聖館より五町(約550m)離れた場所に高さ一五間(約22m)、幅四〇間(約72m)、
奥行三〇間(約54m)ある大砲の的であった。


神聖館五町矢場跡の由来説明に見入る皆さん。


那珂川の堤防に上って眼前に広がる景色を眺める。
『なぁんにも残ってないんだねっ』


眼前に広がる那珂川の景色。
昭和13年から数度にわたって那珂川が氾濫を繰り返し、付近住民に多大な被害を与えた。
そのため国として那珂川に堤防を造ることを決め、五町矢場はその河川敷となり、
昭和25年に取り崩され姿を消してしまった、とのこと。


史跡神聖館五町矢場跡を後にして、次の目的地小宮山楓軒屋敷跡に向かった。
水戸BPのトンネルを潜り、城東三丁目方面へ。


何度か右左折を繰り返しているうちに道に迷ってしまった。
目当てとなる城東市民センターの場所を地元に人に確認している間に待っている皆さん。


11時37分、城東市民センターに到着した。
目当てとなる城東市民センターが見つかって一安心。


何と目指す小宮山楓軒屋敷跡の碑は城東市民センターの敷地内にあった。
小宮山楓軒は名を昌秀といい、明治元年(1764)蓮池町(現城東3丁目)の藩士の家に生まれ、
立原翠軒の門人で彰考館の編修となり、また20年間南郡(紅葉組)奉行として活躍した人で、
困窮していた村民を開拓や植林等によって豊かにし郷校を開いて教化に努めた。
後に斉昭公の側用人となり天保11年(1840)に没し酒門共有墓地に埋葬された。


次の目的地赤沼牢屋敷跡を目指す。
前方に臨海大洗鹿島線の鉄橋と常磐線の踏切が見える。


常磐線の踏切を横断し、臨海大洗鹿島線の鉄橋を潜ると・・・


仙波湖方面から流れて来た桜川の流れがあった。


桜川に架かる仲ノ橋を渡り、案内地図に載っている赤沼牢屋敷跡を探すが、あたりは水戸市の
住宅地となっており、なかなか赤沼牢屋敷跡の碑を見つけることが出来ない。
歩き始めて既に2時間を経過しており、万歩計は12,000歩を計測していた。
間もなくお昼でお腹も空いて来たことだし、相談の結果赤沼牢屋敷跡は諦め、このまま
水戸駅を目指そうということになった。


赤沼牢屋敷跡の碑を探すのを諦め、桜川の堤防上の道を水戸駅南口へ向かった。


ゴールの水戸駅南口を目指す。


『あっ つくしんぼが出てるよっ』
『かなり育ち過ぎてる感じだねっ』


臨海大洗鹿島線の車両が走っているのが見えた。


去る14日には東京の桜の開花宣言がされたが、桜川の土手に植わっている桜の木は
まだ蕾の状態である。
『蕾はまだ堅そうだねっ』
『この分だと開花は1週間後くらいかなっ』


ゴールの水戸駅南口を目指す。


11時56分、石垣橋(いしかきばし)を通過して少し進むと・・・


また別の橋が見えて来た。
『桜川は橋の数が多いよねっ』


堤防左側の住宅地に納豆の店舗(工場は左側)があった。
”だるま納豆”の看板が見える。


柳堤橋を渡り桜川の反対側へ。


桜川の堤防を水戸駅南口方面へ。
今度は左側に桜川を眺めながら進む。


ゴールの水戸駅南口を目指す。
『もう直ぐだよねっ』


こちら側の堤防は桜の並木が続いている。
『開花が待ち遠しいわねっ』


桜川の向こう岸に変わった屋根の建物が見える。
神社の神明造りのような様式をしているが、千木の数が多い。
”魚民”の看板が懸けられている。
『他では見たことがない建物だよなぁ』


水戸駅南口の橋を右に曲がると、正面に駅ビル、左側にMITO South Towerビルが見えた。


駅南口へはエスカレータがあるのだが、当会最年長のKKさん(89)は階段を上って行く。
『ああやって日頃から鍛えているんだねっ』
我々もエスカレータを利用する訳にはいかない、KKさんの後に続いた。


階段を上がると水戸駅南口は正面だ。


12時22分、ゴールの水戸駅南口に到着した。
腰を下ろして後続を待っているところ。
皆さん大分疲れた様子。


全員が到着し、TK会長から年度内の例会を無事故で終了したことに対する感謝と労いの挨拶
に続い、来年度に向けての新たな決意表明がなされた。
『来年度もまた、元気で楽しいウォーキングを続けましょう!!』
この日はここで解散することとし、皆さんそれぞれ好みの店へと向かった。

『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

皆さんと解散した後、ほぼいつものメンバー(6人)は駅ビル6Fのレストラン街へ。
行き先はとんかつ「和幸」である。
申込用紙に記入してしばらく待つことに。


待ってる間に注文したいメニューを確認しているところ。
『なにを注文しようかな~っ』


待つこと20数分、ようやく席に案内され、先ずは飲み物を注文。
ドクターSTOPの人もいたりしたが、生B、ノンアルコールBなど各自好みの飲物と
食事メニューを注文した。
飲物は直ぐにやって来た。
『かんぱ~い!!』


皆さんの笑顔がとても素晴らしい。
『これがあるから参加したようなもんなんだよな~っ』


『美味しいねぇ』


ドクターSTOPの解除が待ち遠しそうなNYさん。


生Bが大好きと言う、この席には欠かせないYMさん。


食事の方は”とんかつご飯”を注文した。
皆さんが注文したのもほぼ同じようなメニューだった。


食事が終わり、とんかつ「和幸」を後にして帰路に就いた時は14時を少し回っていた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

令和4(2022)年度最終回の例会が何とか無事終わった。
水戸駅の北口から、那珂川沿いに点在する史跡をめぐりながら、国道6号方面へ歩いた。
城東エリアは、水戸城の東側に位置し、かつては水戸藩士の屋敷が立ち並んでいた地域で、
近くには桜川が流れている。
5年9か月振りで、また今回初めて歩くコースだったこともあり、2か所ほど訪問地を
探し出せなかったのは残念だった。
本に記載された簡単な地図だけが頼りでは無理ないことかも知れないが、下見をしなかった
ことなどが今後の反省点として上げられる。
半月後にはまた新しい年度の例会が始まる。
反省点を少しでも生かし、来年度も皆さんと元気で楽しく歩けることを心から願うばかりである。

この日の万歩計は、15,000歩を計測していた。

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