ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第3回 藤川宿~池鯉鮒宿(1日目)

2018年07月09日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年7月9日(月)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第3回(1日目)は、藤川宿(名鉄藤川駅)~岡崎宿(名鉄岡崎駅)である。

荒川沖駅5時28分発の電車に乗り、東京駅には、6時36分に到着。
東京駅の「膳まい」で駅弁を買い、


東京駅6時56分発の新大阪行「こだま633号」に乗車。


この日の富士山は半分雲がかかっていて今一といったところ。


掛川城ははっきりと見えた。


豊橋駅には、定刻の9時8分に到着


豊橋駅から、名鉄本線に乗り換え、


9時58分、名鉄藤川駅に到着。


藤川宿西棒鼻跡がこの日の東海道歩きのスタートである。
現在の藤川宿西棒鼻跡は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の
浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元したもの。


岡崎宿へ一里半(約6Km)、京へ四十六里二十七丁(約187Km)とある。
まだ先は長い。


藤川宿西棒鼻跡の少し先に十王堂がある。


十王堂は10人の王を祀る堂で、その王とは冥途(死者の魂の行くところ)にいて、
亡者(死んだ人)の罪を裁く10人の判官を言う。
堂の中には、秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・
平等王・都市王・五道転輪王の10人の王が並んでいた。


十王堂の隣には、松尾芭蕉の句碑もある。
爰も三河 むらさき麦の かきつはた はせお
これは名物「むらさき麦」を詠んだもの。


旧東海道を進むと、


民家の庭先に藤川宿の一里塚跡があった。
江戸日本橋から数えて79番目となる一里塚である。
藤川宿の西の入口となる。


藤川の松並木まで400mの標識


名鉄の踏切手前に分岐点がある。


東海道は、藤川宿の西端で南西の方向に分かれて、土呂(岡崎市福岡町)、
西尾(西尾市)、吉良(吉良町)方面へ出る。
この道を吉良道と呼んで、その分岐点に吉良道道標(みちしるべ)がある。
吉良とは忠臣蔵で有名な吉良上野介の領地だった場所のこと。
江戸時代この道を通って大名行列や、茶壺道中、海産物や塩が運び込まれてきた
重要な街道であった。


名鉄の踏切を越えると、


その先には見事な松並木が続いている。
慶長九年(1604)江戸幕府は街道を整備し、東海道の両脇に松を植えた。


この松並木はその名残を留めるもので、「藤川の松並木」と呼ばれていて、
およそ1Kmほどの間に90本あまり残り、保存状態も良い。
岡崎市の指定文化財になっている。


藤川宿の碑
藤川宿は、東海道の37番目の宿場である。


藤川の松並木が終わり、10時22分、国道1号に合流した。


旧東海道の案内表示
ちょっと不安な時にはこのような案内表示は嬉しいものだ。


阿弥陀寺前を通過


道が分岐している。
左が旧街道になる。


坂下橋


竜泉寺川
右手には国道1号が並行して走っている。


旧街道は道路を横断して直進する。


松がまばらに残るだけの道を進み、


住宅街の旧街道を進む。


さらに県道48号を横断して進むと、


高橋という橋があった。


山綱川を渡り、


道なりに進むと、10時58分、乙川の袂で再び国道1号に合流した。


乙川を渡る。


乙川河原に馬が1頭草を食んでいた。


水量が豊富な乙川である。


乙川に架かる大平橋を渡って70mほど先を左へ曲がり、


突き当りを右に折れて進むと、


また、国道1号に合流した。
(大平町東交差点)


大平町東交差点を横断した角に東光山薬師寺があった。


東光山薬師寺
たくさんのお地蔵様が並んでいた。


薬師寺本堂


境内には、他にもお地蔵様や


石仏が建立されている。


大平上町公民館横に建つ秋葉山常夜燈
弘化四年(1847)の建立、とのこと。


岡崎大平郵便局の角に、


西大平藩陣屋跡と大岡稲荷社の案内標識があった。
この先90mとある。


11時26分、西大平藩陣屋跡に到着
「大岡裁き」で名高い大岡越前守が、1万石の大名となってから明治まで、
西大平藩主大岡家の陣屋が置かれたところ。
陣屋は明治維新によって廃止されたが、藩主を慕う旧藩士や領民から、
陣屋跡を保存すると同時に、旧藩主に東京から移住を願う声が上り、
大岡家別邸として復活した。
初代藩主の大岡越前守忠相は江戸に居住する定府大名のため、
藩領である西大平の地に訪れることは無かった、そうである。


内側から見た西大平藩陣屋跡の高麗門


陣屋跡内部はきれいに整備され、西大平陣屋や大岡越前守忠相に関する
解説板などが設置されている。


奥の様子
写真中央部が西大平藩陣屋の井戸跡。


陣屋跡に鎮座する大岡稲荷社


西大平藩の初代藩主大岡越前守忠相は、豊川稲荷本尊の
吒枳尼真天(だきにしんてん)を厚く信仰。
江戸赤坂の藩邸内に豊川稲荷より分霊して赤坂稲荷を祀り、
ここ西大平陣屋にも大岡稲荷として社殿を建立し、
豊川吒枳尼真天(とよかわだきにしんてん)を本尊として祀った。
現社殿は忠相公没後250回忌の記念事業として、平成14年(2002)に
再築されたもので、大岡家の守り本尊として代々引き継がれている。


大平一里塚
江戸日本橋から数えて80番目、京三条大橋からは38番目となる大平一里塚。
北側の一里塚は昭和三年(1928)に道路改修の際に撤去された。


南塚上にはかつては榎の大木があったが、昭和20年(1945)の台風で倒木。
現存する塚の榎は、新たに植えられたもの。


南塚の反対側、北側の一里塚の跡地には常夜灯とお堂が建てられている。


お堂の中には2体のお地蔵様が鎮座していた。


旧街道を進むと、


国道1号に合流する手前右手に村社大平八幡宮の参道入口があった。


参道を進んで行くと、更沙川を渡った先に一の鳥居があり、さらに参道は続いていた。


大平八幡宮の創立年代は不詳である。
安永六年(1777)、現在地より南西に位置する八ッ幡の地より遷座。
明治五年(1872)村社に列せられ、明治四十二年(1909)に
白山社、御鍬社、日枝社を合祀した、とのこと。


時計を見ると11時50分を過ぎるところだった。
この先弁当に適当な場所の当てが期待出来ないので、
この大平八幡宮境内で弁当を食べて行くことにした。
東京駅で買った「米八幕ノ内弁当」(951円)


3種類のおこわとおかずの味もしっかりしていて、とても美味しかった。


国道1号を進むと、


国道脇に何やら標識が。


歩行者・自転車の通り抜けの案内図だ。
東名高速への接続道路下を潜り抜けるように案内されている。


お城のような「ホテル伍萬石」を右手に見ながら、


標識に従って進む。


接続道路下のトンネルを3つ潜ると、


再び国道1号へ出た。


前方に大きな高架道が見えて来た。
県道26号である。


県道26号下を潜って少し進み、国道1号沿いの旧街道へ。
左側が国道1号である。


法光寺前を通過し、


13時11分、岡崎二十七曲碑に到着


岡崎二十七曲記念碑の冠木門


案内地図に従って進むと、


若宮町2丁目交差点の角に二十七曲り標柱(い)が。
これが最初の標柱と思われる。


岡崎城下二十七曲 岡崎城東入口とある。


江戸時代、岡崎の町は東海道の宿駅として栄えた。
東海道の往還は、当所の南で欠村から宿内に入り、この位置で西方へと大きく曲り、
宿内の中心へと進む。
その曲折点は岡崎城下二十七曲りの一つに数えられる。
宿には、綿打商・穀商・紺屋・豆腐屋・古手屋・莨(たばこ)屋・酒屋・小間物屋・
綿商などの店が軒を並べていたが、なかでも茶屋が多くあり、
茶屋で売られていた餡かけ豆腐の「あわ雪」は東海道往来する人に
名物として賞翫された。


二十七曲り標柱に従って進むと、根石原観音堂があった。
本尊の聖観世音菩薩は行基菩薩の作と云われる。
和銅元年(708)天下に悪病が流行し世人の苦しみは一方でなかった。
時の43代元明天皇も心を悩まされ直ちに行基法師を召され、
悪疫を絶やして欲しいと念願された。
法師は自ら6体の観音像を彫り、その内の2体を根石の森に勧請し、
17日間祈祷を続けたところ、果たして霊験あらわれ、病も治まり、
世人の喜びは大変なものであった。


さらに旧街道を進む。


二十七曲り標柱(は)


二十七曲り標柱(に)


伝馬通り


伝馬通りには、お茶壺道中や


朝鮮通信使、


人馬継立など道路両側に20体の石像がある、そうだ。


伝馬通りの古い商店


二十七曲り道標


伝馬通り伝馬交差点に岡崎宿西本陣跡碑があった。
脇本陣を勤めた桔梗屋は、総坪数125坪半のうち、
建坪105坪と玄関や書院を持つ豪壮な建物であった。


西本陣前角跡は、現在は駐車場になっている。


伝馬交差点を左折して60mほど進むと、
きらみち道標が。


きらみち道標


きらみち道標に従って、西京いせ道方向へ進むと、旧商工会議所があった。
大正六年(1917)、岡崎銀行本店として建てられた、赤レンガと花崗岩の
組み合わせによる、ルネッサンス風の建物である。
戦後、商工会議所として使われていたが、現在は、岡崎信用金庫の資料館として
一般に開放されている。


13時54分、籠田東惣門跡碑に到着
天正十八年(1590)家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主になり、
総堀を築き城下町を形成、東海道の城内出入口として篭田松葉の惣門を建てた。


二十七曲り標識に従って籠田公園方向へ。


籠田公園正面に田中吉政像があった。
岡崎城主(1590-1600)
当時菅生川の南にあった東海道を城下へ引き入れて「岡崎二十七曲り」の基礎を造り、
また惣堀(田中堀)を築造するなど、城下町の整備を行った。


籠田公園で一休みし、


街中を進む。
この辺りから二十七曲り標柱を見見失ってしまった。


地図と感を頼りに進むと、


八幡通りに出た。
二七市通とあるので、二十七曲りに関係があるのではないか。
とりあえずこの道を進んでみよう。


二七市通を西へ進むとファミリーマートがあったので、
ここで冷たいアイスモナカを食べて一休み。


ファミリーマート前の道を右方向に進むと、


能見通一南交差点があり、二十七曲り標柱(ぬ)が現れた。
最後に見たのはきらみち道標があった(へ)なので、(と~り)が抜けてしまったが、
引き返すのは面倒なので、


このまま進むことにする。


二十七曲り標柱(る)


伊賀川に架かる柿田橋の袂に案内地図があった。


その左に二十七曲り碑が。


伊賀川に沿って進むと、白山神社への上り口があった。
ちょっと立ち寄ってみよう。


白山神社は、もと岡崎城内にあり、城主の産土神として崇敬されていた。
三国聞書集によると「永禄九年(1566)家康在城の折、厄除け・開運・祈祷のため、
上州新田から勧請した」ものであると云われている。


白山神社のムクの大木(高さ14m、太さ5.3m)
樹勢はやや衰えているが、板根がよく発達した貴重な巨木である。
また、木の様子からみて相当古いもので、市街地に残っているものとしては珍しい。
(岡崎市)


白山神社を下ると、伊賀川に面して小さなお堂があり、
大悲観世音菩薩が鎮座していた。


伊賀川に架かる三清橋


橋の袂に二十七曲り碑が。


三清橋は渡らず、道路を横断し、岡崎市図書館を左手に見ながら進むと、
国道1号に突き当たった。


国道1号岡崎公園前交差点を横断すると、15時8分、岡崎公園に到着した。
岡崎公園の二十七曲り記念碑


岡崎城は、「日本100名城巡り」で2010年10月10日(日)に訪れているので、
この日は、駆け足で城内を抜けて、宿泊先へ向かうことにする。
大手門から入り、


龍城神社、


岡崎城天守閣、


最後に神橋を渡り、


乙川沿いの竹千代通りを進む。


岡崎ニューグランドホテル前を通過


河原では、8月4日に開催される花火大会の見物席の設置工事が進められていた。


15時53分、この日の宿泊先である岡崎第一ホテルに到着した。


シャワーで汗を流した後、乙川に架かる殿橋を渡って、
名鉄東岡崎駅前へ足を運んでみた。


明大寺本町から東岡崎駅前にかけて、けっこういろんな店がある。


東岡崎駅前から明代橋に向けて進み、


第一ホテルで入手した周辺飲食店MAPと岡崎グルメガイドで、
大方目星を付けていた「くいしん坊」に入る。


先ずは生ビールで喉を潤す。
つまみには鰹の刺身・野菜サラダ・焼茄子を注文した。


コロッケにはワインが合う?


最後は、手打ちうどん・そばの「がんこ親父」で、


締めのざるそばだ。


第Ⅲステージ第3回目(藤川宿~池鯉鮒宿)の1日目(藤川宿から岡崎宿)を
歩き終わった。
明日は、この日の続きを歩くことになる。

この日の万歩計は、24,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第3回 藤川宿~池鯉鮒宿(2日目)

ウマさんの「旧東海道を歩く」目次に戻る。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一見の価値あり あじさいの... | トップ | 旧東海道第Ⅲステージ第3回 ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ウマさんの「旧東海道」を歩く」カテゴリの最新記事