ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道第Ⅲステージ第3回 藤川宿~池鯉鮒宿(2日目)

2018年07月10日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2018年7月10日(日)

「ウマさんの旧東海道を歩く」の第Ⅰステージとして、日本橋から三島宿までの
約126Kmを2014年1月から10月にかけて仲間と一緒に歩いた。
第Ⅱステージは、三島宿から新居宿までの約158Kmを2016年5月から2018年4月
にかけて一人で歩いた。
第Ⅲステージとして、新居宿から京都三条(宮宿から桑名宿間は除く)までの
約198Kmを2018年5月から挑戦を始めた。
第Ⅲステージも一人で歩くことにした。

第Ⅲステージ第3回(2日目)は、岡崎宿(名鉄中岡崎駅)~池鯉鮒宿(名鉄知立駅)である。

ホテルロビーの一角にある食事処


前日に注文しておいた和食
おかずのメニューは、鮭・納豆・生卵・海苔・お新香で、
それに味噌汁が付くだけの簡単なものである。
(これで800円は、安くはない)


8時35分、第一ホテルを出発!
先ずは岡崎城内を巡って旧街道へ抜けることにした。
乙川沿いの竹千代通りを昨日とは逆方向に進む。


竹千代通りから見た岡崎城天守閣


龍城堀に架かる神橋を渡り、岡崎公園内へ。
昨日巡った場所以外を見て回った。


岡崎城の天守閣裏手に”天下人家康公出世ベンチ”なるものがあった。
このベンチは、「石都岡崎」と呼ばれる岡崎の優秀な石職人の技術と、
地元産の良質な御影石を使い、造り上げられています。
家康公とこのベンチに座り、天下人を生んだ岡崎の魂を感じて下さい、とある。
左は幼少の頃の竹千代(家康)である。


”家康公出世ベンチ”から見た岡崎城天守閣


松平元康像
松平元康はのちの徳川家康だ。


徳川家康公銅像
天文十一年(1542)12月26日、岡崎城二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。
幼少の頃人質として苦難の道を歩き、自立した後は全国統一を目指し、転戦を続け、
慶長五年(1600)天下分目の関ケ原の合戦に大勝して、天下を収めるにいたった。
以後持前の才能を生かし、全国統一の念願を叶えるとともに、徳川幕政300年の
基盤をも作り、元和二年(1616)4月17日、75才でこの世を去った。


本田平八郎忠勝公像
徳川四天王の一人で、豊臣秀吉に「家康に過ぎたるもの」「天下無双の勇士」
と称賛された武将である。
この像は鹿角兜と甲冑で身を固め、名槍蜻蛉切を携えている。
上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主でもある。


8時52分、岡崎城の大手門を出てこの日の街道歩きのスタートである。


国道1号(龍城通り)の岡崎城の塀に沿って進む。
堀は空堀状態だ。


龍城橋を渡る。


龍城橋の下を流れるのは伊賀川である。


振り返ると木々の隙間に岡崎城が見えた。
次に訪れるのは何時になるのだろう。
歳のことを考えると、三度訪れることはなさそうである。


八帖歩道橋で国道248号を横断し、


左に曲がって国道248号沿いに進むと、


中岡崎町交差点に松葉惣門跡の碑と岡崎城下二十七曲り標柱(た)があった。
松葉惣門は、岡崎城下西の出入り口である。
天正十八年(1590)家康が江戸に移ると田中吉政が岡崎城主になり、
総堀を築き城下町を形成、東海道の城内出入口として篭田松葉の惣門を建てた。


松葉惣門跡の碑を右折して松葉通りを進む。


前方に愛知環状鉄道線が見える。


愛知環状鉄道線のガード下に岡崎城下二十七曲り標柱(れ)があった。
八帖村の碑も。


二十七曲り標柱(れ)の横に俳優八名信夫さんの手形が。
「純情きらり手形の道」とある。
岡崎市が舞台となった2006年NHK朝の連続テレビ小説「純情きらり」の撮影が、
岡崎市内で行われたことを記念して設置された出演者の手形モニュメントで、
それらを結んだ散策路が「純情きらり手形の道」だそうだ。
主役の桜子役の宮﨑あおいさんをはじめ三浦友和さん、竹下景子さんなど
主な出演者10人の手形が岡崎公園から八丁蔵通り界隈にかけて設置されている。


八丁蔵通りをさらに進むと、八丁味噌と表示された大きな建物があった。
ここは、カクキュー「八丁味噌の郷」の裏手になっていることが分った。
カクキュー「八丁味噌の郷」は、見学出来るようになっている、とのこと。


向いにも八丁味噌の建物が。
まるや八丁味噌の工場である。
創業延元二年(1337)、岡崎城から西へ八丁(約870m)の距離、
東海道街道筋に佇む、とある。
ここも工場見学ができるようだ。


まるや八丁味噌
”連続テレビ小説「純情きらり」ロケ地”の表示も。


少し進むと旧東海道の案内標識があった。
この標識を見ると道不案内な者にとっては非常に心強く感じる。


そのまま八丁蔵通りを進むと、突き当りになる。


突き当りに左江戸、右西京と刻まれた道標があった。


右に曲がると、八帖往還通りの石碑も建っている。


八帖往還通りを進むと、国道1号に突き当たった。
国道1号の新矢作橋を渡る。
新矢作橋は、16代目だそうだ。


矢作川
ちょうど名鉄本線の電車が走っているところだった。


矢作川を渡ると、国道1号を潜って道路右側に行くための階段があった。


階段を下りて国道1号下を潜って反対側へ。


国道1号を潜った矢作川堤防の上に「日吉丸と蜂須賀小六の出会いの像」が見えた。
この橋の袂で2人が出会ったと伝えられている、とのこと。
当時、橋は架かっていなかった、そうだが・・・


国道1号に並行して旧東海道を進むと、勝蓮寺(しょうれんじ)がある。


勝蓮寺本堂
柳堂勝蓮寺と云われ、所蔵する古書には、寺を訪れた親鸞聖人と柳堂、
布教の記事が見られる。
また、17代住職行誓の時には、家康の長男信康(織田信長から、
武田方と内通したとの疑いを受け自刃)
との関係も深く、信康の画像をはじめ多くの遺品が残されている、とのこと。


勝蓮寺を後にして旧東海道を進む。


弥五騰(やごとう)神社


元は彌五郎殿と言われ、堀田弥五郎正泰が正平元年(1346)に
武内大臣・平定経を祀ったのが始まり、だそうだ。


旧東海道を進む。


誓願寺
由来は、三河名所記によると、昔、この寺の境内に池があって、住僧の慶念が溺死した。
そして、長徳三年(993)3月、恵心僧都がその池を埋めて堂を建て、
千体地蔵菩薩を造って安置し、慶念の冥福を祈ったと云われる、とのこと。


誓願寺は、源義経の愛妾、浄瑠璃姫ゆかりの寺でもある。
建物の前には石碑に「浄瑠璃姫菩提所」と書かれている。
寿永三年(1138)3月、矢作の里の兼高長者の娘浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、
菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して
義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置した。
(写真は子安地蔵尊で、浄瑠璃姫とは無関係)


十王堂堂内には、秦広王・初江王・宋帝王・伍官王・閻魔王・変成王・
太山王・平等王・都市王・五道転輪王の十王の極彩色の像が安置されてあり、
壁には地獄・極楽の有り様が描かれている。


旧東海道を進む。


竊樹神社
”ひそこじんじゃ”と読むそうである。
この字は初めて見る字で、書くのも難しい。


竊樹神社の鳥居


竊樹神社社殿
矢作祇園に鎮座する竊樹社の祭神御気津神を分祀して勧請し、矢作村盗人木の
竊樹社を合祀し竊樹神社とした。
「竊」の字は「盗む」という意味もあり竊樹は「ぬすとぎ」とも読め、「盗人木」の
地名通りである。
御祭神は京都の上賀茂神社と同じ、加茂別雷大神だそうである。
矢作町字末広に鎮座する竊樹神社は、矢作町五区氏子の氏神様(鎮守)とのこと。


護水山福萬寺前を通過すると、


10時6分、国道1号に合流した。


東海道標識


岡崎市の標識
岡崎市の西の端の宇頭町辺りと思われる。


鹿乗川を越える。
川名の由来は、足利尊氏が矢作川の増水で立ち往生していたところ、
そこに現れた3頭の鹿の導きによって渡河できたという故事によるのが
通説らしい。


国道1号沿いに和志王山薬王寺があった。
奈良時代の創建で由緒ある寺で、御本尊の薬師如来は、17年に一度御開帳の
秘仏だそうである。
本尊薬師如来は和銅年間に宇頭南町の池より、豊阿弥長者により引き上げられ、
行基菩薩により創建された薬王寺に納められた。
疱瘡を病んだ長者の子が、薬師の化身した僧の与えた薬を飲むと病が癒え、
子供の与えた銭を首にかけ姿は消えた、そうである。


時代は移り長者の墓より銭を掛けた尊像を掘り起こし、その縁を感じ、
お堂を建てた。
長者は気入彦命の子孫と伝えられ、古墳時代の皇孫の豪族子孫が、
この寺を建立されたと考えられる、とのこと。


国道1号を挟んで和志王山薬王寺の向いに建つ聖善寺
両手で柄香炉を持ち、岩座の上に立つ木造彫刻「16歳の孝養太子(聖徳太子)立像」
がお祀りされている、とのこと。
ちょっと変わった造りだが、印象に残る建物である。


10時49分、安城市に入った。


その先の尾崎東交差点手前で、旧東海道は分岐している。


分岐点の先には松並木が続いていた。


昔風の蔵がある立派な家があった。
旧街道の風情を感じさせるが、それほど古くはなさそう。


一里塚か? と思ったら記念碑だった。


11時4分、村社熊野神社に到着
和銅元年に豊阿弥長者により創建されたと伝えられる。
この神社の森は、往古「踏分の森」と呼ばれていた。
現在は尾崎町の鎮守杜となっている。
熊野神社前に尾崎一里塚跡碑があったようだが、見落としてしまった。


予科練之碑
此処は第一岡崎海軍航空隊跡にて予科練習生揺籃の地なり
自らの若き命を楯として祖国を守らんと全国より志願し選ばれた若人が
六ヶ月間の猛訓練に耐え海軍航空機搭乗員としての精神を培いた地なり
生涯を祖国に捧げんと此の地に集い実戦航空隊へ巣立つも戦局に利なく
大空をはばたく間もなく血涙をのんだ終戦爾来二十八年吾等相寄り相語り
茲に亡き戦友の慰霊を兼ね「予科練の碑」を建立するものである
昭和四十八年五月十五日 元第一岡崎海軍航空隊 若桜会


元第一岡崎海軍航空隊配置図
本航空隊は飛行予科練習生の即戦力養成が主任務とされ、全国各地より選抜された、
童顔なお消えやらぬ熱血の若人が、土浦海軍航空隊入隊、岡崎海軍航空隊派遣の命により、
昭和十九年五月入隊の一期生より毎月続々と入隊、十二月入隊の八期まで
その数およそ六千名と記録されている。
入隊後は日夜の別なく猛訓練を重ね、それに堪え抜き逞しい戦士となって、
全国各地の実戦航空隊へ実務練習生として巣立って行った。
しかしわが軍の劣勢は如何ともし難く、昭和二十年八月十五日ポツダム宣言を
無条件で受諾、戦争は終結し本航空隊も解隊されるところとなった。


旧東海道を進む。


法華宗陣門流法喜山妙教寺


明治天皇御駐蹕之所碑


11時39分、永安寺に到着
禅宗(曹洞宗)の寺院で山号は本然山
永安寺は、大浜茶屋(浜屋町)の庄屋柴田助太夫の霊を祀る寺である。
助太夫は、延宝五年(1677)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て
刑死したと伝えられている。


山門のそばに地蔵堂があり、厄除地蔵・子安地蔵が鎮座している。


永安寺の雲竜の松
県指定天然記念物
この寺を覆い包むように横に枝を広げたこの黒松の巨木は、助太夫家の庭にあったものか、
寺が建てられた時に植えられたものか不明ですが、樹齢は350年くらいと推定されます。


この松の樹形は、中心の幹が上へ伸びず、分かれた幹が地を這うように伸びて、
その形が雲を得てまさに天に昇ろうとする竜を思わせるので「雲竜の松」と
俗に呼ばれています。


樹高4.8m 幹の囲4.4m 枝張り東西17.9m 南北24.7m
(安城市教育委員会)(注:数字は平成28年現在)
これほど見事な松は今まで見たことがない。
どの方角から見ても素晴らしい。一見の価値ありだと思う。


境内にはたくさんの


お地蔵様が並んでいる。


11時46分、明治川神社交差点に到着した。


明治川神社交差点に立つ明治川神社の鳥居。


参道を進んで行くと、厳かで立派な社殿があった。
この神社は明治時代にこの地区に大規模な灌漑用水を引いたことから、
この用水の守り神として神社を建立したようである。
明治十八年(1885)建立で、明治用水建設に尽力された都築厚弥・
伊豫田與八郎・岡本兵松らが祀られている、とのこと。


境内に明治用水から水を引く神池があり、ここに架かる石橋の明治川橋は、
昭和二年(1927)の改築、だそうだ。


松並木の旧東海道を進む。


さらに松並木の街道を進むと、


12時17分、青麻神社があった。
道路の反対側からだが、地蔵尊や石碑が見える。


神社鳥居の左隣に力士像が建っていた。
これは江戸末期から明治初期にかけて活躍した江戸力士、五代目・清見潟又市の石像。
天保九年(1838)三河国碧海郡前浜新田(現碧南市前浜町)に生まれ、
本名を榊原幸吉、20歳で江戸相撲に入門し、47歳まで現役を続けた。
最高位は前頭筆頭。
立ち合い時に相撲場外にまで届くほどの奇声を発する名物力士だった、とのこと。


旧東海道を進む。


12時38分、ここらで少し給水して行こう。
暑さで疲れが出てきたためか、腰が痛い。
そのため、歩くペースもかなり落ちて来た。


腰の痛さを我慢しながら歩いていると、途切れていた松並木が現れた。
松の木が日陰になってくれるのでありがたい。


しかし、この辺りの松並木はかなりまばらである。
かろうじて残っているという感じ。


猿渡川橋


12時59分、猿渡川を渡ったところで安城市から知立市に入った。


来迎寺公園
この辺りまで来ると、一段と疲れが出て来た。


御鍬(おくわ)神社鳥居


御鍬神社社殿
由緒 江戸時代に来迎寺村をはじめ、近村の牛田村、八橋村等の八ヶ村が連合して、
伊勢より御鍬神を勧請し、各村輪番にて御鍬祭を奉仕し、豊作を祈願してきたが、
明和年間(1764~71)この輪番が当村で終わることになったことから、社殿を造営し、
以後来迎寺村の氏神様として仰ぎ祀ったと云われている。(中略)
本殿は棟に千木、かつお木(五本)を置く神殿で、丁度伊勢神宮(外宮)の半分の
大きさに造営された。


元禄の道標


元禄(無量寿寺)の道標の説明
この道は、江戸時代の要街道であったことから、諸処にこの様な道標が建てられていた。
従是四丁半北 八橋 業平作観音有
元禄九丙子年六月吉朔日施主敬白
と記されており、元禄九年(1696)に、在原業平ゆかりの八橋無量寿寺への
道標として建てられたものであることがわかる。
(知立市教育委員会)


道路の反対側にも無量寿寺への道標が建っている。


13時11分、来迎寺町公民館前を通過すると、


来迎寺一里塚があった。
日本橋から数えて84番目の一里塚である。
塚の上の樹木は主として榎が植えられたが、この塚は代々松といわれる。


直径約11m、高さ約3mに土を盛り、街道の両側に造られている。


道路反対側の来迎寺一里塚
この塚のように両塚とも完全に遺されているのは、たいへん珍しい。
(知立市教育委員会)


いったん松並木が現れたが、直ぐに家並みになった。
(来迎寺小町交差点辺り)


見返弘法大師従是四丁の碑
道標に刻まれた「見返弘法大師」は、弘法大師が彫った自身の座像三体の一つ
「見返弘法大師」を安置する弘法山遍照院(知立市弘法町)を指す、そうである。


衣浦豊田道路が見える。


衣浦豊田道路の先に松並木が見える。
知立の松並木ではないかと思われるが、腰も痛いし、疲れが厳しい。
名鉄の牛田駅も近くだし、この日はここまでにしておこう。
ここから先は、次回にしたい。


ということで、知立の松並木を前にして、名鉄牛田駅に向かうことにした。
衣浦豊田道路の牛田歩道橋で国道1号を跨ぐ。


衣浦豊田道路の牛田歩道橋から見た国道1号
(安城市方面)


13時40分、名鉄牛田駅に到着


名鉄で1駅先の知立駅へ行き、


知立駅で名鉄三河線に乗り換え、JR刈谷駅へ向かった。


JR刈谷駅からは、新幹線に乗るため普通電車で三河安城駅へ向かうことになるが、
何と! 帰りの切符(乗車切符と新幹線特急券)が見つからない!
リュックやポケットを何度も探したが見つからない。
どこかで落としてしまったようだ。
仕方がないので、帰りの切符(乗車切符と新幹線特急券)をもう一度買うはめに。
切符を新たに買い直し、三河安城駅の新幹線乗り場へ向かう。


三河安城駅から新幹線「こだま号」に乗り、東京へ向かった。


第Ⅲステージ第3回目(藤川宿から池鯉鮒宿)の2日目(岡崎宿から池鯉鮒宿)を
歩き終わった。
この日の目的地としていた池鯉鮒宿本陣跡まで辿り着けなかったのは残念
というしかない。
池鯉鮒宿本陣跡までは、あと2Km弱ではあったが、2日間とも33度という猛暑の中
これ以上無理をしていたら、熱中症になっていたかもしれない。
牛田駅で止めていて良かったと思っている。

家に帰ってから資料などを整理していたら、落としたとばかり思っていた
切符(乗車切符と新幹線特急券)が出て来た。
連日の暑さで、資料の中に切符をしまい込んだのをすっかり忘れてしまっていた
という次第。

翌日(7月11日)、切符を買った地元荒川沖駅に行き、事情を説明したところ、
乗車券は、13日まで利用出来るため、払戻し(手数料220円)に応じてくれたが、
新幹線特急券は期日を過ぎているので、払戻しには応じられないとのこと。
自分の凡ミスではあるが、この暑さでは、暫く歩くのを控えた方が良さそう・・・

この日の万歩計は、22,000歩余を計測していた。

旧東海道を歩く 第Ⅲステージ第3回 藤川宿~池鯉鮒宿(1日目)

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