ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

杉並木を満喫 日光街道杉並木を歩く

2019年05月24日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2019年5月24日(金)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成元年度第8回(2019年第20回)、「日光街道杉並木」ウォーキングに参加した。

日光杉並木を歩くのは、”旧日光街道歩き”2013年9月18日(水)以来約6年ぶり2度目。

6時40分、土浦第三中学校地区公民館に行くと、バスはすでに到着し、待機していた。
バス車庫を出発して一度も信号停止しなくて来れた、とのこと。


三中地区公民館7時0分、天川団地入口7時10分、土浦市民会館7時20分と予定時刻ぴったりと回り、
この日の参加者24名を乗せて、日光杉並木ウォーキングの出発地となる道の駅「日光」へ。


土浦市内を走り、まずは常磐道へ。


7時39分、常磐道土浦北ICを通過し、


常磐道を走る。


この日の朝食はいつものおにぎり弁当だ。


8時ちょうど、友部SAで最初の休憩を摂り、


北関東道、


東北道、


日光有料道路を走る。


時折、日光男体山が見える。
今日も天気は良さそうだ。
この日の日光市の予想最高気温は28℃とのこと。


今市ICで日光有料道路を降り、


9時43分、道の駅「日光」に到着した。
三中公民館を出発して2時間40分余りかかったことになる。
(右奥に見えるのは、船村徹記念館)


各自に昼食の弁当が配られた。
この日の弁当は何だろう? 旅先の昼食弁当はバスハイクの楽しみの一つである。


道の駅にあった周辺地図で最初に訪れる報徳二宮神社の場所、ルートを確認し、


準備も整ったところで、


10時1分、いつものようにTKさんを先頭に出発!


道の駅「日光」を後にして、先ずは報徳二宮神社へ向かう。


道の駅「日光」前の国道119号を東武日光線下今市駅方面へ少し行くと、
栃木県史跡 二宮尊徳翁の墓と書かれた標柱があった。
報徳二宮神社の参道入口になっている。


参道を進むと、


10時4分、報徳二宮神社に到着した。
『あらっ もう着いちゃったのっ?』
道の駅「日光」から僅か3分という近さである。


鳥居の前には二宮尊徳翁の木彫りの像が建てられていた。


また、社殿の近くにはお馴染みの二宮金次郎像と、


二宮尊徳翁の遺訓が。


報徳二宮神社に参拝
二宮神社は、報徳仕法によって多大の恩恵に浴し、尊徳翁の遺徳を敬う人々が、
終焉の地である今市の霊地に創建したものである。
報徳二宮神社の本社は、生誕地である小田原の小田原城二の丸小峰曲輪の一角に
創建されている。


本殿裏に廻ると二宮尊徳翁のお墓がある。
栃木県指定史跡 二宮尊徳の墓碑


二宮尊徳翁のお墓
二宮尊徳翁は幕府の命令を受け、今市を中心とする日光神領で荒廃した農村復興のために
報徳仕法を始めた。
安政三年(1856)11月17日、居住していた今市報徳役所内で70歳の生涯を閉じた。
戒名は”誠明院功誉報徳中正居士”と刻まれている。
(報徳仕法:江戸後期、二宮尊徳によって説かれた、節約・貯蓄を中心とする農民の生活指導などを通じて
農業経営のたてなおしと農村復興をはかる方法)


報徳二宮神社を後にして、如来寺へ。


10時18分、如来寺に到着
如来寺は、室町時代中期の創建。
寛永九年(1632)、三代将軍家光が東照宮造営のために御殿を建設しここに逗留した。
二宮尊徳翁が亡くなった安政三年(1856)に、葬儀が行われた寺でもある。


鐘楼堂
鐘楼堂は寛永十八年(1641)に建立された。


地蔵堂
堂には木造の地蔵菩薩立像(日光市指定文化財)が安置されている。


観音堂
聖観世音菩薩像が安置されている。
下野33観音霊場の第4番札所として参詣者が繁く訪れる、とのこと。


如来寺の山門を出て、


次の目的地「そば喰稲荷」を目指す。


10時32分、「そば喰稲荷」に到着


そば喰稲荷(澤蔵司稲荷神社)
この神社は、信仰に篤い二宮尊徳の子弥太郎が文久二年(1862)に寄進したが、戦乱にあい消滅した。
その後弥太郎の子金之亟・延之輔等によって復興した。
伝えによると、金之亟の妹に夜泣きする人がいて、そばを献上し、祈願したら直ちに治ったという。
以来「そば喰稲荷」と云われるようになった。
今市は、そばのまちとして全国的にその名を聞くところとなったが、そのルーツはここにある。
そばが約150年以前から、この地に存在し神に捧げるものとして尊ばれ、現在まで永い伝統に培われ、
守り、愛されて、引き継がれている。


『へ~っ そうなんだぁ』


そば喰稲荷の隣に浄泉寺の薬師堂がある。
浄土宗に属し、上町の薬師さまで知られる。
元亀三年(1572)の草創と伝え、はじめ日光上和泉村にあり、上泉寺と称したが、
慶長年中(1596一1615)慶誉厳長和尚が今市宿(現在春日町)に移し、
如来寺の末寺として瑠璃光山清光院浄泉寺に改められたと云われる。
本堂は焼失して無く、薬師堂が建っているのみである。


裏道を進むと、東武日光線上今市駅があった。


杉並木公園へ。
2基の大きな水車が回っていた。


杉並木は公園の隣にあった。
10時42分、杉並木ウォーキング開始である。
杉並木の左側は国道119号が走っており、車が走る音が聞こえる。


『いよいよ杉並木が始まったんだねっ』


歩き出して直ぐ、右手に高龗神社(たかおじんじゃ)が。
祭神は大山祇命・少名彦命・草野姫命を祀る、とのこと。
「高靇」は水源を司る日本神話の神、高靇神に由来している。


『難しい字だねぇ』


杉並木を進む。


記念撮影を撮り、


日光杉並木街道を進む。
日光杉並木街道は、日光街道・ 例幣使街道・会津西街道の三つの街道からなる
総延長37㎞もある並木道である。
古いものでは樹齢380年を超える杉の巨木が約12,500本も連なる壮大な並木で、
我が国で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている。
ギネスブックにも世界最長の並木道として掲載されるなど、貴重な文化遺産となっている。


杉並木街道を進む。


いったん杉並木が途切れ、少し視界が開けた場所に出た。


右手の突当りまで行くと、杉並木公園のMAPがあった。
杉並木公園は、東武日光線の線路に沿って上今市駅方面に通じているようで、
公園内は弁当に適しているかも知れない。


日本風景街道(杉並木)を進むと、


再び杉並木が始まった。


巨木群が続く。


『さっきより木が大きい感じがするっ』


『隣の木とくっついてる木があるよっ』


『日光の杉並木は、前から一度歩きたかったんだよねっ』


杉並木は続く。


『砲弾打込杉って書いてあるねっ』


砲弾打込杉
戊申役のとき、日光会津への要衝今市宿をめぐる官幕両軍の激しい攻防戦が展開された。
官軍の放った砲弾が並木杉を貫いた痕をとどめるもの、だそうだが・・・


『どっちが砲弾跡なのかよく分からないねぇ』


『洞穴みたいっ』
根元に空洞ができており、大人数人程度は入れるかも。


『杉並木のおかげで思ったより暑くないよねっ』


11時29分、ここらで水分補給して行こう。
道の駅「日光」を出発して約1時間半、杉並木を歩き始めてからも45分が経過していた。


恒例のお茶タイムだ。
楽しみなひと時ではある。


リュックが椅子に早変わりし、ご満悦のKKさん。


さらに杉並木を進むと、


竜蔵寺跡の薬師堂が。
その昔、ここには青雲山竜蔵寺という寺があった。
現在は薬師堂のみが残っている。


薬師堂の前に大きな石の梵鐘が置かれていた。
青雲山竜蔵寺は資力の乏しい寺だったため、金属製の梵鐘を造ることが出来ず、
日光廟造営に携わった石工に頼んで造らせたものという説があるとのこと。
『石の梵鐘は初めて見たよ』
『どんな音がするんだろうねぇ』


国道119号との合流点は近い。


12時2分、国道119号(右側)との合流点に到着した。
杉並木はいったんここで途切れる。


この先の「並木太郎」を目指すには国道119号の狭い歩道を歩かなければならない。
最近は歩行者が気を付けていても車の方から突っ込んでくるというケースも多いと聞く。
24名もがぞろぞろと歩くのは危険が大き過ぎる。
せっかくの機会に「並木太郎」を観ずに帰るのは残念な気もするが、ここは引き返した方が
無難というものだろう。


既に時計は12時を過ぎており、お腹が空いてくる時間である。
合流点を後にして、弁当に相応しいと思われる杉並木公園を目指すことにした。


『杉並木はもう十分に堪能したわよねっ』
『並木太郎は個人で来れば良いんだよっ』
皆さん、すこぶる物分かりが良い。


杉並木公園を目指す。


この辺りは特別保護地域、巨木が立ち並ぶ。


杉並木のオーナーになった団体・個人の名前が付けられている。
オーナー代は1本1千万円である。
代金は、栃木県が日光杉並木街道保護基金で運用し、その運用益で並木杉の樹勢回復や
杉並木保護の普及啓発などの保護事業を実施するという制度になっている。
オーナーが買い戻しを希望する場合は、栃木県がいつでも1本1千万円で買い戻しする、そうである。


この木は宇都宮市がオーナーということだ。


杉並木公園へ。


砲弾打込杉を見上げるTKさん。
『砲弾跡はどっちなのかねぇ』
大分気になる様子である。


杉並木公園を目指す。


杉並木公園の北端まで戻ってきた。


杉並木公園の駐車場には大型バスが停まっていた。
「報徳庵」の蕎麦を食べるために来たのだろうか?


「報徳庵」の右手を通って裏の杉並木公園へと思ったが、通行禁止となっていた。


やむなく「報徳庵」の前を通り、裏の駐車場へ。
「報徳庵」は古民家で、二宮尊徳の報徳仕法により建てられた「住宅報徳仕法農家」が
復元されたもの、だそうだ。
ちょうどお昼時だったのでかなり混んでおり、縁側で何人もが蕎麦を食べていた。


「報徳庵」左手の細い階段を下って行くと、


駐車場の先に杉並木公園があり、”日本の水車”と書かれた碑があった。


右手に杉並木公園の巨大な水車がゆっくりと回っていた。
『いやぁ これはでかいねぇ』
直径は10mほどあるらしい。
旧今市市は杉線香の生産日本一を誇っているが、かつては杉線香生産の動力として
水車が利用されていた、そうだ。


さらに公園内を進むと、


複数の水車が展示されていたが、この水車は回ってはいなかった。


その先には水車小屋があり、


水車の一部が展示されていた。


水車の説明があった。
日本にある水車の形は90種ほどあります。
その中には木製の水車や鉄製の水車などがありますが、ほとんどの水車が木製です。
揚水や製粉が主な用途であり、今もなお今市市を始め日本の各地に残っています。
ここには大きいものは直径10mから小さなものでは直径が60Cmの様々な水車が並び、
用途も異なった水車を見ることが出来ます。


時計は13時ちょうどを指していた。
お腹も空いたので、この辺りで弁当にしよう。
弁当タイム(1)


弁当タイム(2)
ベンチもいくつかあった。


弁当タイム(3)


この日の弁当は、”おむすび弁当 なきむしやま”とある。


笹の葉に包まれたちまき風のおにぎりに、ゆば・鮭・キノコの煮つけ・卵焼きなどが付いていた。
お腹が空いていたので美味しかった。


目の前を走る東武日光線の電車を見ながらの弁当は、また格別である。


弁当が終わり、13時27分、ゴールの道の駅「日光」を目指す。


Movie CAMERAを片手に撮影に余念のないYMさん。
一度見せて欲しいものである。


階段を上って進むと、


そばの粉ひき水車小屋があった。


高龗神社を通過し、


杉並木を進む。
この時点でバスの運転手に道の駅に向かっていることを連絡した。


右手の国道119号沿いに瀧尾神社があった。


国道119号を進む。


ゴールの道の駅「日光」を目指す。


13時44分、日光街道今市宿の標柱を通過


道の駅「日光」へ向かっていると・・・


貸切バスが我々一行をゆっくりと追い越していった。
近くの駐車場で待機していたようだ。


13時49分、ゴールの道の駅「日光」に到着した。


いったんリュックなどの荷物をバスに下し、


土産物を買うため日光街道ニコニコ本陣へ。


『土産物は何にしようかな~っ』


地元産の日本酒や


地ビールなどもあったが、


日光たまり漬け(らっきょう・ごぼう・七種きざみあわせ)と、


佐野ラーメン「ようすけ」を買った。


土産物も買ったし、後は帰路に就くのみである。
日光道今市ICを通過したところで、後部座席に移動して宴会に参加した。


座席に戻ったのは、友部SAの少し手前だった。


15時57分、友部SAに到着。
ここで最後の休憩を摂り、


バスは順調に常磐道を走り、


16時34分、土浦市内に到着
(市民会館通り)


土浦市民会館前で8名と別れた。
『お疲れさまでした~っ』


土浦市内を走り、
(土浦四中辺り)


天川団地入口で3名が下車
『お疲れさま~っ』


さらに土浦市内を走り、
(ボウルつくば付近)


17時ちょうど、三中公民館に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


日光杉並木ウォーキングが無事終わった。
道の駅「日光」から杉並木公園に沿って国道119号との合流点までの往復を歩き、
日光杉並木を満喫できた。
『出来れば一度歩いてみたい』と思っていた人も多かったようで、企画としては
良かったと思っている。
せっかく日光杉並木まで来たので「並木太郎」を観ずには帰れないと思ったが、
国道119号の交通量など考慮して、引き返すことにしたのは、心残りではある。

この日の万歩計は、18,000歩を計測していた。

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