ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

梅花を堪能 諏訪梅林を巡る(常陸多賀)

2018年03月17日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
2018年3月17日(土)

毎週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
平成29年度第35回(2018年第8回)、「諏訪梅林を巡る(常陸多賀)」ウォーキングに参加した。

この日の目的地諏訪梅林は、常磐線常陸多賀駅から歩くことになる。
このため、お得なときわ路パス(2,150円)が利用できる土曜日の企画とした。
荒川沖駅7時52分発の勝田行電車を待つ。


水戸駅で9時9分発のいわき行に乗り換える。
この日の参加者は19名、天気が良い割にはやや少ない感じだ。
気温が低く風が冷たいことが影響しているのだろうか。


いわき行電車内(1)


いわき行電車内(2)


いわき行電車内(3)


9時43分、スタート地の常陸多賀駅に到着した。


常陸多賀駅


駅前はバスターミナルになっている。


各自自由にストレッチで準備運動をして、


9時59分、TKさんを先頭に出発!


TKさんの後に続き、常陸多賀駅を後にする。


駅前のロータリーを時計方向へ周り、


駅前通りを国道6号方面へ。


『風は冷たいけど、晴れてるから気持ちが良いわねっ』


日立市役所多賀支所前を通過し、


国道6号に出た。
交差点の斜め向かいに見えるのは、ウェルニック・プラザ。
同じ施設で医療・介護・福祉を同時に受けることができる、
日本初の「医療・介護・福祉」の複合施設だそうだ。


国道6号を横断し、
(写真は、日立方面)


右手に日立市立多賀図書館を見ながら進む。
『立派な図書館なんだね~っ』
『さすが日立市だねっ』


続いて多賀消防署前を通過。


県道61号を進む。


県道61号(山側道路)を西へ進んで行くと・・・


日立市立多賀図書館から600mほどの所に日立市立大久保中学校があり、
そこの三叉路を右に進路を採る。


10時23分、大久保中学校前を通過


祝TBS子ども音楽コンクール東日本大会出場 吹奏楽部 の垂れ幕が。


広い通りを東の方向へ進むと、新しいモダンな家がいくつも見られた。
この辺りは振興住宅地のようだ。


雑木林が残る一角に真っ白い花を付けた木が立っていた。
『きれいに咲いてるわね~っ 満開じゃないっ?』
『何て言う木なのかしらっ?』


道路右側には小さな川が流れており、川沿いに濃いピンクの花が続いている。
桜のようにも見えるが・・・


川を渡って、濃いピンクの花を愛でながら進むことにしよう。


『濃いピンクがきれいだねっ』
『桃の花みたいだけど、桜のようだねっ?』


『この時期に咲くのは緋寒桜じゃないのっ?』
昨年沖縄を訪れた際に今帰仁城で観た寒緋桜(緋寒桜)のようだ。


『梅を観る前に桜を観られたのはラッキーだよねぇ』


川沿いの桜並木から元の道路に戻って進み、


日立諏訪郵便局近くの交差点を左折して、諏訪通りを進む。
この辺りは諏訪町という地名らしい。


諏訪通りの突き当りを左に折れると、諏訪小学校への急坂の道と、
諏訪神社方面への道があった。
諏訪神社方面へ進むと・・・


10時54分、諏訪神社(下諏訪神社)に到着した。


下諏訪神社にお参りして行こう。


『いやぁ これはまた長い石段だなぁ』


80段上ると踊り場があり、さらに石段が続いていた。
全部で100段あった、そうだ。
適度な運動にはもってこいの石段である。
『うちの家の近くにもこんな石段があると良いんだけどねっ』
散歩をするには平坦な道だけでは、満足できないらしい。


100段の石段を上ると、目の前に諏訪神社の拝殿が。
諏訪神社の創建は、建長二年(1250)、信州諏訪の諏訪神社に仕えていた
藤原高利(万年太夫と称された)が一夜霊夢により、諏訪大社の分霊を
勧請したことによる。
下諏訪の分霊を当所下諏訪字台に、上諏訪明神の分霊を当所上諏訪に
それぞれ勧請したと伝えられている、とのこと。
ということで、ここは下諏訪神社なのである。


それぞれ下諏訪神社に参拝を済ませた。


拝殿の左側の石段脇に”木造万年太夫夫婦座像”と書かれた木柱があったので、
上ってみることに。
水戸藩第2代藩主徳川光圀公が、諏訪神社に参詣の際に、
万年太夫の古い像の永久保存を考えて、それを胎内に収める新像2体を
工人に命じて造らせ、諏訪神社に奉納したもの、だそうだ。


石段の途中に鍵が掛けられて扉が閉まった石造りの小さな建物が。
この中に”木造万年太夫夫婦座像”が納められているのだろうか?


さらに石段を上ると、その先には、諏訪小学校の校舎と体育館があるだけで、
”木造万年太夫夫婦座像”(を納めた祠のような建物)は見当たらなかった。


下諏訪神社を後にして、下諏訪神社の向かいにある小野家住宅へ。


11時11分、小野家住宅に到着。
小野家は、18世紀前期(江戸時代中期)に建てられたと推定され、
茨城県の代表的な曲屋のひとつである。県指定建造物になっている。


残念ながら中には入れなかったが、
木造平屋で、一部中2階があり、寄棟造り、茅葺の曲家にできている。
馬屋、土間、12畳敷の「ひろま」、6畳敷の「なかま」、4畳半敷の「へや」、
そして8畳敷の「ざせき」で構成されている、とのこと。
上層農家であった当時の雰囲気を残している。


ご主人と思しき人が古い写真などを出して来て、
いろいろと説明してくれた。


昭和30年頃、空から撮影した小野家住宅の敷地の写真。
先ほど参拝した下諏訪神社も小野家の敷地内とのこと。
『いやぁ~ もの凄く広い敷地なんだね~』と感嘆することしきり。
ご主人によると、かつて烈公(徳川斉昭)も13歳の頃の一時期、
この家に住んでいたそうだ。


ご主人の曾祖父の写真
どことなくご主人に似ている。


小野家を含むこの辺り一帯の屋敷は、眼前の丘陵には、諏訪神社が鎮座し、
そして敷地背後の谷間には鮎川が流れる、という要害の地を占めている。
平安の昔から要害の山城として、人々が住んでいた、とのこと。


当屋敷の住民の移り変り
時代と主な住民が記されている。
屋敷の住民は、平安時代(895年)から江戸時代(1602年)にかけて、
そして現在に至るまで続いていることになるが、
小野氏は、慶長七年(1602)に佐竹氏支族の小野丹波守義誠が、
諏訪村の小野氏の祖となって以降、とのこと。


藁葺き曲屋の隣にある小さな庵に案内してくれた。


中には、小野家に伝わる道具や甲冑、


刀などが無造作に並べられていた。


小野家の家紋入りの提灯も。


奥の部屋には、所狭しと様々な道具類が・・・
まるで武家屋敷の資料館並みである。


火縄銃もある。全部本物だそうだ。
『いやぁ 凄いなぁ』 感嘆の言葉しか出てこない。


11時30分、小野家を後にして、目的地の諏訪梅林へ。


県道37号を諏訪梅林を目指す。


スクラップ工場の前を通り、諏訪梅林へ。


右手には切り立った崖が聳える。
『あんな処に家があるけど、住んでる人は怖くないのかしらっ?』


『もうそろそろ諏訪梅林じゃないっ?』


鮎川の清流に架かる梅見橋を渡ると・・・


11時41分、小野家住宅から10分余で諏訪梅林に到着した。
道の両側が梅林になっている。道路左側の梅林に入ってみる。
諏訪梅林は、水戸藩第9代藩主徳川斉昭(烈公)が造園した梅林で、
約300本の梅が植えられている、とのこと。


見頃は過ぎているようだが・・・


中には満開に近い木もあった。
顔を近づけるとまだ仄かに梅の香がした。


烈公(徳川斉昭)お手植えの梅(本来の株は枯れ、現在2代目)
2代目もかなりの年数が経っているようだ。
数は少ないが、梅の花はしっかりと咲いている。


お昼には少し早いが、ここで弁当にしよう。
弁当タイム(1)


弁当タイム(2)


弁当タイム(3)


道路反対側の梅林の中を少し歩いてみよう。


白梅


紅梅


薄いピンクの梅
いろんな梅が植えられており、目を楽しませてくれる。


俳句の碑
目白来て 日のある限り 梅匂ふ 爽青(そうせい
小松崎爽青は、日立市在住の俳人として知られている、そうだ。


園内を散策する女性陣


園内には、テーブルと椅子を持ち込んで梅見を楽しむ人の姿も。


道路の反対側の梅林の様子


パノラマ写真


再び最初の梅林に戻って、鮎川に沿って梅林を散策。


最後に道路下側の梅を観て・・・


12時31分、梅花をたっぷりと堪能したところで、諏訪梅林を後にする。


鮎川に架かる上諏訪橋を渡る。


『きれいな流れだねっ』


上諏訪神社前を通過
諏訪神社の創建は、建長二年(1250)、信州諏訪の諏訪神社に仕えていた
藤原高利(万年太夫と称された)が一夜霊夢により、諏訪大社の分霊を
勧請したことによる。
諏訪神社の社は二つあり、上諏訪明神の分霊を勧請したのが上諏訪神社で、
下諏訪明神の分霊は下諏訪字台にそれぞれ勧請したとのこと。


国道6号を目指し、


県道37号を進む。


道なりに県道37号を進むと・・・


12時30分、国道6号の鮎川北橋交差点に出た。
道路向かい側の日立成沢郵便局が目印だ。


国道6号(陸前浜街道)を常陸多賀駅を目指す。
国道6号だけあってさすがに交通量は多い。


油縄子(ゆなご)交差点を横断して進むと・・・


13時5分、八幡神社に到着した。
ここで少し休憩して行こう。


八幡神社に参拝


八幡神社の拝殿と本殿
八幡神社は油縄子(ゆなご)の八幡様と呼ばれ、
地元では大変親しまれているとのこと。


八幡神社で休憩した後、再び国道6号を常陸多賀駅方面へ。


花屋の前を通過
『これから花の季節到来だねっ』
『いろんな花がきれいだね~っ』


「かつや」を過ぎると、


直ぐ近くに別のとんかつやがあった。
『こんなに近くに商売敵があって良いのかねぇ』
気にしてもしょうがないか・・・余計なお世話かも・・・


国道6号の諏訪五差路を真っ直ぐ進み、常陸多賀駅方面へ。


路を一筋間違ったため通り過ぎてしまったが、直ぐに気が付いて引き返し、
13時32分、最後の目的地、相馬碑に無事辿り着いた。


相馬碑は、永禄五年(1562)八月、孫沢原の合戦で、相馬中村(福島県)の
城主相馬盛胤の軍勢が、佐竹義昭の軍勢に敗れて戦死した、相馬将士の供養碑
であると伝えられている。


江戸時代には、相馬藩主が碑の傍らに彼岸桜を植え、
参勤交代のためにこの地を通るときは懇ろに拝礼したと
伝えられている。
江戸時代には、街道の桜川沿いに建立されていたが、
道路改良などで二度ほど移動し、その後、昭和51年11月27日に
この地に移設された。


相馬碑を取り囲むようにして相馬碑の説明に見入る皆さん。


相馬碑の傍らには馬頭観世音碑や馬力神碑なども集められている。


13時45分、相馬碑を後にして、


常陸多賀駅を目指す。


常陸多賀駅の駅前通りが見えて来た。


信号を左に曲り、常陸多賀駅前通りを進む。
正面突き当りが常陸多賀駅になる。


常陸多賀駅前通りを進む。


常陸多賀駅前通りには飲み屋の看板が多い気がする。
立ち飲み居酒屋「呑もう屋!」


三代目網元「魚鮮水産」
日立関連の通勤サラリーマン客が立ち寄るのだろう。


常陸多賀駅へ。


下孫停車場記念碑
「轔轔たる鉄輪 其の迅きこと雷のごとし」
黒い鉄の塊の驀進する様を野口勝一はこう謳いあげた。
(野口勝一は、野口雨情の叔父で、明治期の多賀郡を代表する政治家)
常陸多賀駅は常磐線が水戸-平間を延長して開業した明治30年(1897)
2月に下孫駅として開業した。
明治初期にこの地区は下孫村に所属していた。


明治22年(1889)に下孫村は大久保・金沢両村と合併して国分村に、
昭和6年(1931)には川原子町・鮎川村と合併して多賀町となった。
昭和30年(1955)には近隣の1市2町4村が合併して日立市となった。
なお「下孫駅」は、昭和14年(1939)10月、多賀町の誕生にあたり、
「常陸多賀駅」と改められ、今日に至っている。
この碑は中央で二つに割れており、碑の両側が鉄製のアングルで
固定されている。 


13時56分、常陸多賀駅に到着
上り電車が行ってしまった直後だった。
次の電車(14時23分)まで約30分ある。


駅の売店で、缶ビールなどを買い求め、日当たりの良い
駅前のバス乗り場のベンチで喉を潤した。


『いやぁ 歩いた後の一杯はほんとに美味いねぇ』


駅から車を運転しなければならないため、アルコールは控えている、
と言うNTさんだが、いつもこうやって付き合ってくれるのは申し訳ない。
次のバスハイクでは、ぜひ『かんぱ~いっ』といきたいのものである。


常陸多賀駅14時23分発上り水戸行電車に乗車。
この後、水戸駅で上野行に乗り換え、帰路に就いた。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


初めて諏訪梅林を訪問した。
茨城県で梅林と言えば水戸偕楽園や筑波山梅林くらいしか知らなかったが、
今回諏訪梅林の存在を知ったのは、良い機会だったと思う。
満開で見頃の時期は少し過ぎてはいたが、紅白の梅を堪能出来た。

諏訪地区の小野家住宅が単なる古い曲り屋ではなく、かつては
平安の昔から続く要害の山城だったということは、意外だった。

今年度(平成29年度)の例会も残すところあと2回。
風邪などひかないように体調に気を付けて臨みたい、と思う。
あとは雨に降られないことを祈るばかりである。

この日の万歩計は、17,000歩を計測していた。

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