ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第5回 戸塚宿から藤沢宿

2014年05月25日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年5月25日(日)

この日は、第五回目、戸塚宿(JR戸塚駅)から藤沢宿(小田急藤沢本町駅)までの約9Kmを歩いた。

荒川沖駅6時54分発の常磐線で上野へ向かう。


上野駅から山手線で東京駅へ。
この日の参加者は11名だ。


東海道線でこの日のスタート地点である戸塚宿(JR戸塚駅)へ。
男性陣は朝早かったためかひと眠り。逆に女性陣はお話しに夢中である。


戸塚駅には定刻どおり、8時56分に到着。
駅前でこれから歩くコースを確認して、


9時2分、藤沢宿目指して出発!


東海道線の踏切りを横断するデッキ。
横断幕には開通したのは今年1月18日と書かれていた。
タイミングよく踏切が開いたので渡ろうとしたら、直ぐに閉まってしまった。
『これじゃぁ 歩いて渡るのは難しいよねっ』


結局、横断デッキを利用することに。
『開かずの踏切だねっ』


横断デッキで踏切を横断して・・・


この日の最初の訪問地清源院へ。


清源院は、浄土宗の寺で、徳川家康の側室お万の方ゆかりの寺である。
元和六年(1620)に、徳川家康の側室お万の方(清源院)が家康の供養のために創建した寺院だ。
本堂の扉には、徳川家の家紋が描かれている。


清源院本堂内部
御本尊は阿弥陀如来立像とのことだが、あいにく閉まっていて見えなかった。


芭蕉句碑
擦れて読み難いが、横の看板には碑文と俳句が書かれている。
「栗といふ文字はにしの木と書て 西方にたよりありと 行基菩薩は一生 杖にも柱にも此の木を用給ふとかや 
世の人の 見つけぬ花や 軒の久里 はせお(芭蕉)」」


芭蕉句碑の隣に「心中句碑」がある。
伊勢屋の飯盛遊女ヤマと薬屋大島屋の倅清三郎が、許されぬ恋に落ち、
天神塚の井戸にそろって身を投げたという悲しい恋物語を詠んでいる。
井にうかぶ 番ひの果てや 秋の蝶


清源院を後にして、国道1号(東海道)を進む。


東海道の表示を見ながら進むと・・・


内田本陣跡の碑があった。
この辺りに、戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つ、内田本陣があった。
間口十八間(32.8m)、奥行十四間(25.5m)で、畳数は百五十二畳もあったと云われている、とのこと。


続いて脇本陣跡の碑
脇本陣は、本陣に差し支えが生じた時などに利用された。
本陣とは異なり、大名などの宿泊が無い時は一般旅客の宿泊に供することができた。
規模は本陣よりも小さいが、諸式はすべて本陣に準じ、上段の間などもある。
戸塚宿には三軒の脇本陣があった。


これも本陣だ。
”お・も・て・な・し”されてみたい。


澤邊本陣跡
戸塚宿開設に尽力した澤邊家が勤めた本陣跡。


澤邊本陣跡には明治天皇行在所の碑も建てられている。
明治天皇も宿泊に利用したということだ。
標柱には澤邊の表札がかかっており、裏手は今も澤邊家の住居となっている。
澤邊本陣の初祖、澤邊宗三は戸塚宿設置の功労者とのこと。


澤邊家の裏に神社があった。


神社は何故か羽黒神社である。


澤邊本陣跡の少し先に海蔵院がある。


門の前には七福神でよく見かける布袋尊像が置かれていた。


門をくぐると左手に六地蔵が迎えてくれる。


本堂
鎌倉円覚寺の末寺で、惠照山海藏院と云い、南北朝期の創建。
ご本尊は釈迦牟尼如来とのこと。


ロッカー形式の永代個別納骨塔は初めて見た。
『ここに納骨されるんだぁ』
『こんなお墓も悪くはないわねぇ 安上がりで良いかもしれないわよねっ』


八坂神社


通称「お天王さま」と呼び親しまれている戸塚宿の鎮守様だ。
元亀三年(1527)に、牛頭天王社を勧請したのが始まりと云われている。
毎年7月14日に無病息災を祈願して行われる「お札まき」は、横浜市指定無形文化財となっている。


八坂神社の少し先に冨塚八幡宮がある。


本殿への上り階段の横に芭蕉句碑が建てられている。
鎌倉を 生きて井でけむ 初松魚(はつがつお)


段数が多そうだが、石段を上ってみよう。


40数段の石段を上ると拝殿があった。
建久四年(1072)源頼義、義家が奥州平定の途中、この地で宿泊した時、応神天皇と富属彦命
の霊夢を受け、勝利したお礼に建立されたのが始まり、とされる。
山頂に古墳があり富属彦命の墓と伝わり、富塚と呼ばれる、とのこと。
これが「とつか:戸塚」の名の起こり、だそうである。


9時58分、戸塚宿上方見付跡前を通過。


上方見付跡を過ぎた辺りから大坂と呼ばれる長い坂道になる。
若者がロードサイクルで通り過ぎて行く。


坂の途中に名もない石仏群があった。


大坂台を通過
大坂の中間点辺りだろうか? 坂はまだ続く。


大坂を上りきると、新国道1号と合流する。


大坂松並木の説明板があった。
大坂では天気の良い日には松並木から素晴らしい富士山が眺められたことから、
多くの浮世絵の画題となった、とある。
この案内板に描かれているのもそのうちの1枚なのだろう。


国道1号の中央分離帯には当時の松並木の面影を残すためか、松が植えられていた。
他の樹木も一緒に植えられていた。


お軽勘平戸塚山中道行の場碑


歌舞伎「仮名手本忠臣蔵・三段目返し」戸塚山中の”場”だそうだ。


国道1号を下って行くと、原宿一里塚跡の碑があった。
江戸日本橋より11番目の一里塚で、吹上の一里塚とも呼ばれる。


当時は松の木が植えられていたそうで、明治九年(1876)に里程標の杭を立てるとき、一里塚は撤去された。
現在は、その名残として碑の傍の崖の上に松の木が植えられていた。


さらに国道1号を下ると、浅間神社入口の案内があった。


道路の反対側を見ると浅間神社の鳥居がある。


鳥居横には庚申塔などもある。


鳥居をくぐって参道を進む。


100mほどの参道の先に拝殿があった。
浅間神社は、室町時代の永禄年間(1558~1570)に、その頃盛んであった富士山信仰をもとに
村内安全を祈願するために勧請されたと云われている。


浅間神社へお参りを済ませ、軽く休憩していくことにした。
お腹も空いてきて仕方がなかったが、皆さんが持ち寄った茶菓子のおかげで、
藤沢宿まで持ち堪えられそうだ。


国道1号を進むと食べ物店がやけに目に付くようになってきた。
とんかつ屋


牛丼屋


焼き肉屋
ここは我慢のしどころである。
藤沢宿まで頑張ろう!


11時24分、諏訪神社前を通過。
遊行寺を創建した呑海上人が諸国遊行の際に信州諏訪から勧請した鎮守の社。
祭礼で演奏される「西富ばやし」は市指定無形民俗文化財、だそうである。
道路の反対側を歩いており、信号も見当たらないため、ここは写真だけにした。


日本橋から49Kmの地点を通過。


藤沢宿方面を目指すため、陸橋を渡って反対側へ。


陸橋から国道1号藤沢BPを望む。


陸橋から戸塚方面を望む。
写真右方向、車が手前に流れているのが藤沢方面になる。


陸橋を渡り、県道30号を藤沢宿を目指す。


鉄砲宿の案内板があった。それによると・・・
昔々、このあたりにいた長者が自分の蔵に棲みついた大蛇を水神様のお使いとして、
「おはん」と名付けて大層可愛がっていた。
どころが長者の家が没落し、大蛇への餌もままならなくなってきた。
それを見た大蛇は長者様には迷惑はかけられないと、近くの池に去っていったが、
そこには十分な餌が無く、元々大食だった大蛇は空腹に耐えかねると池のほとりを
歩く人の影を食べて飢えを凌いでいた。


ところが影を食べられた人はだんだん弱ってしまうので、村人はこの池を「影取池」と呼んで
恐れるようになった。
大蛇を退治しようとしたが、鉄砲を見ると大蛇は水底深く潜ってしまうので退治できない。
村人は一計を案じ、鉄砲の上手い猟師に頼み、昔の長者様のように「おはん」と名を呼んだ。
昔の飼い主が迎えにきたと思いこんだ大蛇は姿を現すと、ついに撃ち殺されてしまった。
いつしか「影取池」は埋められ影取の名と悲しい話だけが残された。
この大蛇を撃った猟師が住み着いたところを鉄砲宿と呼ぶ、とのこと。
『へぇ~っ 普通の宿場とは全く違うんだねっ』


緩やかな遊行寺坂(ゆぎょうじざか)を下る。


『下りは楽で良いわねっ』


一里塚跡
かつてここに一里塚があったようだが、今は何も残っていない。
原宿一里塚跡の次なので、日本橋から12番目の一里塚となる。


遊行寺(ゆぎょうじ
鎌倉時代後期、四代呑海上人(どんかいしょうにん)が開山、代々藤沢上人が住んでいた。
戦国期には焼失し、江戸時代になって時宗総本山となった。
道路の反対側で信号も見当たらないため、ここは写真に収めるだけにした。


境川に架かる藤沢橋を渡る。
実は藤沢橋の近くに、歌川広重の浮世絵で知られる藤沢宿の風景にある”遊行寺橋”が
あったのだが、うっかり見落としてしまった、というより、探し出すことが出来なかった。


写真正面(藤沢橋を渡って右手)が藤沢宿(藤沢本町)方面である。


藤沢宿に入ると、配電盤?のようなものに藤沢宿を描いた浮世絵が次々と現れ、
我々の目を楽しませてくれる。
キャッチフレーズは”歩いて見よう 藤沢宿”だ。


実際、藤沢宿の古い蔵などを見ることができる。


たまたま修行僧らしき人が通りかかった。
宿場町の景色に融け込んでいる?


こちらの家も古そうだ。


藤沢宿を進む。


問屋場跡の碑には次のように紹介されている。
問屋場では、公用書状の宿送り・人馬手配・助郷村への賃金支払いを行った。
問屋役は有力町民が担い、幕末、西隣の杉山弥兵衛が務めた。


常光寺
山門脇に藤沢警察署発祥の地碑、本堂左手に国際的詩人の野口米次郎の記念碑、
裏山には弁慶塚と庚申塔がある。


荘厳寺
創建は元歴元年(1184)と伝えられ、藤沢宿でも古い寺院のひとつとされる。
境内には相模国準四国八十八個所の四番と十番の弘法大師像が安置されている。


伝源義経首洗い井戸の案内標識に従って60mほど路地の奥へ進むと、


源義経首洗い井戸があった。
文治五年(1189)奥州平泉で自害した源義経の首は腰越の浜で首実検ののち、片瀬の浜に捨てられた。
それが潮に乗って境川をさかのぼりこの辺に漂着したのを里人がすくい上げ、この井戸で
洗い清めた、と伝えられている、そうだ。
『本当かなぁ』


石碑には源義経公之首塚とある。
源義経首洗い井戸をこの日の最後の訪問地として、食事処を探し求めて小田急線藤沢本町駅へ向かった。


藤沢本町駅近くにとんかつ屋「正力」を見つけた。


サービスランチを注文し、出来あがってくる前に生ビールで乾いた喉を潤す。
『かんぱ~いっ』『お疲れさ~ん』


『いやぁ、美味いねぇ』


サービスランチ(とんかつ)も美味しかった。


14時37分、小田急線藤沢本町駅に到着
戸塚駅を歩き始めた時には、『JR藤沢駅まで歩こうっ』と張り切っていたのだが、
生ビールなど入ってしまうと歩くのがおっくうになってしまったのが正直なところである。


この後、JR藤沢駅から東京駅で乗り換え、常磐線で帰宅の途についた。
『今日は大変お疲れ様でしたぁ』



「旧東海道を歩く」第五回目(戸塚宿~藤沢宿)を無事歩き終えた。
前日の予報では、この日の最高気温は28℃ということだったので、相当な暑さを覚悟していたが、
雲が多く直射日光に射されることも無かったせいか、意外に過ごし易かったのは何よりだった。

今年1月にスタートした東海道歩きも、ゴールの三島宿まで間もなく半分になろうとしている。
これからますます暑い時期を迎えることになるが、無事最後まで歩き通したいものである。


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