2016年7月17日(日)
今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを予定している。
「甲州街道を歩く」第四回目は、府中宿(京王線府中駅)から日野宿(JR日野駅)の約8.5Kmを歩いた。
なお、甲州道中として、関東三大不動尊の高幡不動尊を参拝しておきたい、ということで
日野宿到着後、多摩モノレール線「甲州街道駅」から「高幡不動駅」へ向かった。
従って歩いた距離は、10Km以上になったと思われる。
ちなみに関東三大不動尊は、高幡山金剛寺(高幡不動尊)、成田山新勝寺(成田不動尊)、
および玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)とされている。
京王線新宿駅
9時7分発高尾山口行準特急電車を待つ。
約30分で、府中駅に到着
この日の参加者は、8名。
前回歩いたけやき通り、記憶も新しい。
9時46分、日野宿を目指して府中駅を出発!
けやき通りを大國魂神社方面へ。
大國魂神社の大鳥居とけやきの巨木
大鳥居を右折すると旧甲州街道だ。
”すもも祭”の幟が目に付く。
その起源は、源頼義・義家父子が、奥州安倍氏平定(前9年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、
戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こった。
その際神饌の一つとして李子(すもも)を供え、境内にすもも市が立つようになったのが、名前の由来で、
夏の風物詩として、毎年7月20日に斎行される、とのこと。
ゲームセンターの2階、実物大の馬の模型が目を引く。
札の辻と問屋場跡
甲州街道と鎌倉街道が、鍵の手に交わるところに高札場があったことから、
この界隈を「札の辻」 「鍵屋の辻」と呼び、親しまれていた。
安政六年(1859)府中宿本町に大火があり、それを機に蔓延二年(1861)中久本店の
店蔵を防火建築物として再建。
隣地は問屋場であったため、大道芸人の辻芸を楽しむ人々等で賑い、武蔵府中の中心として栄えた。
中久本店の向い側に高札場がある。
札掛けには、法度や掟書、犯罪人の罪状などを掲げた。
府中高札場は中世末期からここにあったと云われているが、明治三年に廃止された。
府中小唄の碑
府中の自然や名所・史跡を題材とし、野口雨情作詞、中山晋平作曲により、昭和四年に誕生した郷土民謡。
盆踊りの時期には市内各所で歌い踊り継がれ、永く市民に親しまれている、そうだ。
高札場の赤い板塀に沿って、
甲州街道を進むと、
馬場宿があった。
この宿場は、元の名を茂右衛門宿と言った。
名主の茂右衛門によって開発されたことによる。
馬場宿と称するようになったのは、寛永十三年(1636)のことと云われている。
もともと馬場宿は、甲州古街道筋にあったが、新街道の設置(慶安の頃1648-52)に伴って、移転したもの。
割烹「馬場屋」
江戸時代の府中番場宿の雰囲気を味わえる割烹、今で言う居酒屋。
1970年頃創業、とのことなのでさほど古くはない。
、
10時3分、高安寺に到着
高安寺は、曹洞宗の寺院だが、江戸時代初期までは臨済宗の寺院だった。
干支本尊菩薩像が8体並んでいた。12体ではないのだ。
子年(千手観音菩薩)、丑・寅年(虚空蔵菩薩)、卯年(文珠菩薩)、辰・巳年(普賢菩薩)
午年(勢至菩薩)、未・申年(大日如来)、酉年(不動明王)、戌・亥年(阿弥陀如来)
山門は、明治五年(1872)の建立。
正面には仁王像(吽像)が、
背後には奪衣婆と地蔵尊が安置されている。
(写真は奪衣婆)
仁王門を内から見たところ
仁王門を潜ると、曹洞宗の開祖道元禅師像がある。
『いやぁ これは立派な木だねぇ』
楠の樹高は13m、幹周2.6m
コウヤマキは、樹高20m、幹周2.2m
どちらも府中市の名木百選に指定されている。
高安寺本堂
開基は室町幕府初代将軍足利尊氏であり、室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていた。
現在の本堂は、寛永元年(1624)に火災に遭い消失したものを享和三年(1803)に再建したもの。
時の鐘
この鐘は、徳川幕府公許の鐘で、二六時中近隣四方の村々へ時を報ずる役であった。
製作者は、谷保在住の「かなや」親子で、安政五年(1858)この寺の境内で改鋳された。
明治維新よりこの方、朝(覚醒)・昼(精進)・夕(反省)の3回撞いている、そうだ。
観音堂へ
観音堂は、江戸中期の建造物。
もとは高安寺の西の観音橋付近にあったが、大水により流されたため、享保年間(1716-1736年)現在地に移された。
多摩川観音霊場第三十三番札所である。
弁慶坂の碑
高安寺に伝わる弁慶の以下の伝説に由来している。
高安寺の堂の後ろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、
大般若経を書写したと伝えられる。
弁慶坂
弁慶が通った坂道なのだろう。
それほどの坂道には見えないが・・・
弁慶坂の先に弁慶橋の碑があった。
ここに野川に架かる弁慶橋があった、とのこと。
しかし、周りを見渡しても、川らしきものは見当たらない。
弁慶橋の碑から先に、「棒屋(ぼうや)の坂」があった。
坂名の由来は、坂を下り切った所の家が、通称「棒屋」と呼ばれていたためと云われている。
「棒屋の坂」を過ぎ、京王線の踏切を渡る。
線路の先に分倍河原駅が見える。
スズカケノキ(プラタナス)の並木が続く。
葉の緑に薄桃が混じった淡い色をしている。
『この葉っぱは珍しいよねっ』
『いつものプラタナスとはちょっと違うねっ』
『本陣のような家だねぇ』
本宿町交差点で国道20号と合流し、
さらに少し進んで、新府中街道の交番前交差点を渡ったところで、一休み。
Oさんから、冷えたトマトの差し入れが。
冷たくて美味しかった。
武蔵府中熊野神社古墳の大きな看板が。
11時1分、先ずは熊野神社へ参拝。
熊野神社は、往古「熊野大権現」と称され、旧本宿村の総鎮守であった。
創建は、江戸初期と伝えられ、当時境内には別当寺である弥勒寺が勧請されていた。
本殿の裏に、再現された飛鳥時代に築造された上円下方墳の古墳があった。
古代中国では、天はドーム状の半球形、大地は四角いものと考えられ、
当時の宇宙観を反映した築造と考えられている、とのこと。
『こんな形の古墳は初めて見るねぇ』
上円下方墳は、全国的にも珍しく、これまで5例あるのみだそうだ。
展示館(無料)に入ってみることに。
展示館は2階にあり、上円下方墳の断面図や、
発掘調査などの資料が展示されていた。
上空から撮影した写真
上円下方墳の全体がよく分かる。
石室から出土した鞘尻金具を復元したもの。
中央に七曜文が刻まれている。
七つの円文は、木・火・土・金・水と日(陽)・月(陰)の七曜を表している。
七曜文は、古代中国の陰陽五行思想をもとに考案された模様と云われている。
展示館見学風景
管理人の方から概略の説明を受け、
石室復元展示室を見学することにした。
入口は狭いため、ヘルメットを着用する必要がある。
また石室の中は暗いので、懐中電灯を貸してくれる。
石室の内部
玄室には、石が敷き詰められていた。
発見された鞘尻金具の位置が記されていた。
11時33分、展示館を後にする。
見学などで30分以上費やしてしまった。
旧甲州街道を進む。
11時39分、JR南武線を通過
立派な板塀に続き、
きれいに積まれた石垣の旧家を過ぎると、
ぽつんと常夜燈が立っていた。
文久三年(1863)建立の秋葉燈である。
11時53分、谷保天満宮に到着
菅原道真が太宰府に左遷。同じく三子の道武も武蔵国多摩郡分倍庄に配流されたが、
道真没後この地に建立されたと伝わっている。
鬱蒼とした森の参道先の二の鳥居を潜って、石段を下りると、
右手に、石の牛像が横になっていた。
谷保天満宮座牛については、以下のような説明が。
牛と天神様の関係は、仁明天皇(にんみょうてんのう)の承知十二年(845)乙巫6月25日に菅公が生誕、
また公甍去の際、筑紫の国三笠郡四堂に墓を築き葬ろうと需車(喪の車)を引き出したが、
途中牛車が動かなくなったのでその場所に埋葬した等、菅公と牛に関する神秘的な伝説が数多く残っている。
座牛はこの悲しみに動かなくなった牛を表現したものである。(説明板)
本殿に近い所にさらにもう一つ牛の像が。
こちらは銅製で、鼻や足などは撫でられて光っている。
境内には合格祈願の絵馬がびっしりと掛けられていた。
本殿の前では、何組かのお宮参りの人たちが記念写真を撮っていた。
『シャッターを押して貰えますか?』と頼まれれば断る訳にはいかない。
『はいっいきますよ~っ』
谷保天満宮を後にする。
国立第一小学校前の横断陸橋を通過すると、
12時23分、左手に南養寺の常夜燈が現れた。
寛政六年(1794)に甲州街道沿いの元上谷保の油屋近くに建てられたもので、
道路拡張工事に伴い、南養寺表参道入口であるこの地に移転された。
大正時代までは、村人が順番に毎日夕方、灯りを灯していたと伝えられている。
南養寺の長い参道の先に総門がある。
安永九年(1780)地元の大工佐伯源太によって建築された。
薬医門形式で、屋根は切妻造りで銅版葺きである。
総門を潜ると、右手に地蔵堂があり、
その先には享保三年(1718)建造の大悲殿がある。
堂内には運慶作とも云われる十一面千手観音坐像が安置されている、そうだ。
大悲殿を左に曲がると文化元年(1804)建造の立派な本堂が現れた。
南養寺は、臨済宗建長寺派の禅寺で、立川普済寺の末寺。
開山は、南北朝時代の正平二年(1347)、本尊は釈迦如来坐像。
本堂の北面に枯山水の庭園があるとのことだったが、時間の都合上パスした。
境内の奥には、享保三年(1718)鋳造の鐘楼が。
梵鐘は谷保鋳物三家の一つ下谷保の関忠兵衛作、とのこと。
南養寺入口の常夜燈に戻ると、皆さん、腰を下して休憩していた。
少々お疲れの様子、というより、お腹が空いて動くのがおっくうといった状態である。
時計は12時33分を回っていた。
南養寺を出て最初の交差点(矢川駅入口)に肉の万世の看板を見つけた。
100mほど先と表示されている。
この先、適当なファストフードなどなさそうだし、
『たまには美味しい牛肉でも食べるとするかっ』
ということで、交差点を右折し、矢川通りを100mほど進むと、12時41分、万世に到着した。
途中、スリランカ料理店もあったが、これはパスした。
メニューを見ると、みなけっこう良い値段である。
『まぁ 他に店は無さそうだし、ここにするしかないねっ』
一番混んでいる時間帯だったため、席に案内されるまで10分ほど待たされた。
しかも4人づつ別の席である。
思案の結果、「とんかつランチ」(890円)を注文。
配膳されるまで20分ほどかかった。
ご飯のボリュームは充分過ぎるほどだったが、お代り自由とのこと。
『これでお代りする人っているのかねぇ』
食事を終わった時には13時30分を過ぎていた。
たっぷり50分ほど要したことになる。
『やっぱり昼飯は牛丼屋に限るねっ』などと話しながら、旧甲州街道を進む。
(後で聞いたら全員「とんかつランチ」を注文していた)
名もないような地蔵堂に手を合わせ、
旧甲州街道を進むと、
13時53分、立川市に入った。
日野橋交差点を横断
新奥多摩街道の銀杏並木を進み、錦町下水処理場交差点を左折。
東京都知事選のポスター
21名立候補しているはずだが、ポスターは6枚しか貼られていない。
他の候補者は、まだ撮影中なのだろうか?
錦町下水処理場の裏手に日野の渡し跡碑があった。
日野の渡しは、甲州道中の幕府公認の渡し場で貞享年間に現在の場所に落ち着いたが、
大正十五年の日野橋の完成で満願寺の渡しと共に廃止されている。
碑には、以下のように記されている。
日野の渡しの出来たのは、いつの頃だか誰も知らない、
江戸時代中期貞享年間、この地に渡しが移されたことは確かであろう。
かつて信濃甲斐相模への人々は、この渡しを過ぎると遠く異境に来たと思い、
江戸に向かう人々は、江戸に着いたと思ったという。
日野の渡し跡碑の先の下水処理場を過ぎると、多摩川に出た。
テニスコートや野球のグラウンドでは練習が行われていた。
休憩中の中学生たち。
『甲子園目指して頑張ってねっ』
監督・コーチの皆さんも一休みだ。
『暑いのにご苦労さんですねっ』
日野橋、長さは500mほどあるだろうか。
けっこう長い橋である。
日野橋を渡る。
日野橋から多摩川上流を望む。
多摩モノレール線が見える。
多摩モノレールだ。
何を見てるのかな?
1羽の白サギが餌を獲っているところだった。
日野橋を渡り切り、
多摩モノレール線の下を通過
日野宿へ
馬頭観音像
旧有山家の古い家の写真に見入る。
写真には、次のような説明が、
有山家(屋号「綿十」)前-下町-
左手の石垣付近が有山家です。この写真は、明治26年(1893)の大火の前に撮られたものと思われます。
有山家、中嶋家(屋号「嶋屋」)、古谷家(屋号「油屋」)、土方家(屋号「土屋」)と蔵の連なる
甲州街道沿いの町並が分かる一枚です。
14時44分、日野宿本陣に到着
日野宿本陣は、正保年間(1644-46)に日野宿の名主に取り立てられた下佐藤家の住宅である。
冠木門を構え、
瓦葺きの大屋根・入母屋の玄関など本陣建築として建築史的にも価値がある。
本陣内には近藤勇の書状や新撰組関連の歴史的資料なども展示されている。
冠木門のところで、新選組隊服に身を包み、”日野宿応援隊御預 ひの散策組”の幟を携えた女性達とばったり。
『せっかくだから』ということで、女性陣との記念写真を撮らせてもらった。
ボランティアで観光案内などをしている、そうだ。
この日は、最後に高幡不動にお参りすることにしているので、
ここ日野宿本陣で引き返し、多摩モノレールの甲州街道駅へ向かうことにした。
JR日野駅近辺の寺社は、次回に訪ずれることにしよう。
日野警察署前を通過すると、
多摩モノレール線が見えてきた。
15時9分、甲州街道駅に到着
『この日の街道歩きに相応しい駅名だねぇ』
高幡不動駅は2つ先(210円)である。
多摩モノレール車内
15時21分、高幡不動駅に到着
高幡不動の参道入口商店街の門
横浜中華街を思わせる。
参道を進むと、
高幡不動仁王門の前に出た。
圧倒されるほどの存在感だ。
楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正「号泊如」の筆
『凄く立派な門だねぇ』
仁王尊は室町時代の作と伝わる。
線香の煙で身体を清めて、
不動堂に参拝
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ、
高幡不動尊として親しまれている。
冒頭でも説明したように、関東三大不動尊は、高幡山金剛寺(高幡不動尊)、成田山新勝寺(成田不動尊)、
および玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)とされている。
熊本大地震救援募金へも少しばかり・・・
奥殿に安置されている丈六不動三尊へもお参りしておこう。
総重量1100Kgを超える巨像の丈六不動三尊は、古来日本一の不動三尊と伝えられている、そうだ。
満5年の歳月をかけて竣工したと云われる五重塔は、塔高39.8m、総高45mで、
平安初期の様式を模した美しい塔だ。
新選組土方歳三の菩提寺である高幡山金剛寺には、近藤勇・土方歳三両雄の碑や、土方歳三の銅像、
また大日堂には土方歳三の位牌や新選組隊士慰霊の大位牌等、更に奥殿では歳三の書簡ほか
多くの新選組資料が展示されている、とのこと。
高幡山金剛寺にはこの他にもたくさんの建物や見所があり、全てを見て回るには相当な時間が必要である。
残りは次の訪問時の楽しみにしておいて、この日は高幡山金剛寺を後にした。
15時56分、京王線高幡不動駅に到着
15時58分発の特急で新宿へ向かい、約30分で新宿へ到着した。やはり特急は早い。
その後、山の手線で上野駅へ向かい、常磐線で帰路についた。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧甲州街道を歩く」第四回目(府中宿~日野宿)を歩き終わった。
京王線府中駅から、JR日野駅までという比較的短い距離というのが頭にあったため、
立ち寄り先に時間をかけ過ぎた感はある。
武蔵府中熊野神社古墳では、展示館の見学に加え石室復元展示室の見学もするなど
充分過ぎるほど時間をかけたが、今では見学しておいて良かったと思っている。
街道からは少し外れているが、関東三大不動尊の高幡不動尊にお参りできたのもその一つだ。
甲州道中として訪れたが、このような機会でなければこれからも訪れることはなかったと思われる。
これも「旧甲州街道を歩く」の醍醐味(ハプニング)と言えるかも。
次回(8月)は、日野宿から駒木野宿(約12Km)を予定している。
次はどんなハプニングがあるのか、今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。
次回は、昼食はやはりファストフード店にしたい。
この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。
”ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次”へ戻る。
今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを予定している。
「甲州街道を歩く」第四回目は、府中宿(京王線府中駅)から日野宿(JR日野駅)の約8.5Kmを歩いた。
なお、甲州道中として、関東三大不動尊の高幡不動尊を参拝しておきたい、ということで
日野宿到着後、多摩モノレール線「甲州街道駅」から「高幡不動駅」へ向かった。
従って歩いた距離は、10Km以上になったと思われる。
ちなみに関東三大不動尊は、高幡山金剛寺(高幡不動尊)、成田山新勝寺(成田不動尊)、
および玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)とされている。
京王線新宿駅
9時7分発高尾山口行準特急電車を待つ。
約30分で、府中駅に到着
この日の参加者は、8名。
前回歩いたけやき通り、記憶も新しい。
9時46分、日野宿を目指して府中駅を出発!
けやき通りを大國魂神社方面へ。
大國魂神社の大鳥居とけやきの巨木
大鳥居を右折すると旧甲州街道だ。
”すもも祭”の幟が目に付く。
その起源は、源頼義・義家父子が、奥州安倍氏平定(前9年の役)途中、大國魂神社に戦勝祈願をし、
戦に勝ち凱旋の帰途、戦勝御礼詣りのためこの祭が起こった。
その際神饌の一つとして李子(すもも)を供え、境内にすもも市が立つようになったのが、名前の由来で、
夏の風物詩として、毎年7月20日に斎行される、とのこと。
ゲームセンターの2階、実物大の馬の模型が目を引く。
札の辻と問屋場跡
甲州街道と鎌倉街道が、鍵の手に交わるところに高札場があったことから、
この界隈を「札の辻」 「鍵屋の辻」と呼び、親しまれていた。
安政六年(1859)府中宿本町に大火があり、それを機に蔓延二年(1861)中久本店の
店蔵を防火建築物として再建。
隣地は問屋場であったため、大道芸人の辻芸を楽しむ人々等で賑い、武蔵府中の中心として栄えた。
中久本店の向い側に高札場がある。
札掛けには、法度や掟書、犯罪人の罪状などを掲げた。
府中高札場は中世末期からここにあったと云われているが、明治三年に廃止された。
府中小唄の碑
府中の自然や名所・史跡を題材とし、野口雨情作詞、中山晋平作曲により、昭和四年に誕生した郷土民謡。
盆踊りの時期には市内各所で歌い踊り継がれ、永く市民に親しまれている、そうだ。
高札場の赤い板塀に沿って、
甲州街道を進むと、
馬場宿があった。
この宿場は、元の名を茂右衛門宿と言った。
名主の茂右衛門によって開発されたことによる。
馬場宿と称するようになったのは、寛永十三年(1636)のことと云われている。
もともと馬場宿は、甲州古街道筋にあったが、新街道の設置(慶安の頃1648-52)に伴って、移転したもの。
割烹「馬場屋」
江戸時代の府中番場宿の雰囲気を味わえる割烹、今で言う居酒屋。
1970年頃創業、とのことなのでさほど古くはない。
、
10時3分、高安寺に到着
高安寺は、曹洞宗の寺院だが、江戸時代初期までは臨済宗の寺院だった。
干支本尊菩薩像が8体並んでいた。12体ではないのだ。
子年(千手観音菩薩)、丑・寅年(虚空蔵菩薩)、卯年(文珠菩薩)、辰・巳年(普賢菩薩)
午年(勢至菩薩)、未・申年(大日如来)、酉年(不動明王)、戌・亥年(阿弥陀如来)
山門は、明治五年(1872)の建立。
正面には仁王像(吽像)が、
背後には奪衣婆と地蔵尊が安置されている。
(写真は奪衣婆)
仁王門を内から見たところ
仁王門を潜ると、曹洞宗の開祖道元禅師像がある。
『いやぁ これは立派な木だねぇ』
楠の樹高は13m、幹周2.6m
コウヤマキは、樹高20m、幹周2.2m
どちらも府中市の名木百選に指定されている。
高安寺本堂
開基は室町幕府初代将軍足利尊氏であり、室町幕府によって武蔵国安国寺として位置づけられていた。
現在の本堂は、寛永元年(1624)に火災に遭い消失したものを享和三年(1803)に再建したもの。
時の鐘
この鐘は、徳川幕府公許の鐘で、二六時中近隣四方の村々へ時を報ずる役であった。
製作者は、谷保在住の「かなや」親子で、安政五年(1858)この寺の境内で改鋳された。
明治維新よりこの方、朝(覚醒)・昼(精進)・夕(反省)の3回撞いている、そうだ。
観音堂へ
観音堂は、江戸中期の建造物。
もとは高安寺の西の観音橋付近にあったが、大水により流されたため、享保年間(1716-1736年)現在地に移された。
多摩川観音霊場第三十三番札所である。
弁慶坂の碑
高安寺に伝わる弁慶の以下の伝説に由来している。
高安寺の堂の後ろにある古井戸から弁慶がこの井戸の水を汲んで硯の水とし、
大般若経を書写したと伝えられる。
弁慶坂
弁慶が通った坂道なのだろう。
それほどの坂道には見えないが・・・
弁慶坂の先に弁慶橋の碑があった。
ここに野川に架かる弁慶橋があった、とのこと。
しかし、周りを見渡しても、川らしきものは見当たらない。
弁慶橋の碑から先に、「棒屋(ぼうや)の坂」があった。
坂名の由来は、坂を下り切った所の家が、通称「棒屋」と呼ばれていたためと云われている。
「棒屋の坂」を過ぎ、京王線の踏切を渡る。
線路の先に分倍河原駅が見える。
スズカケノキ(プラタナス)の並木が続く。
葉の緑に薄桃が混じった淡い色をしている。
『この葉っぱは珍しいよねっ』
『いつものプラタナスとはちょっと違うねっ』
『本陣のような家だねぇ』
本宿町交差点で国道20号と合流し、
さらに少し進んで、新府中街道の交番前交差点を渡ったところで、一休み。
Oさんから、冷えたトマトの差し入れが。
冷たくて美味しかった。
武蔵府中熊野神社古墳の大きな看板が。
11時1分、先ずは熊野神社へ参拝。
熊野神社は、往古「熊野大権現」と称され、旧本宿村の総鎮守であった。
創建は、江戸初期と伝えられ、当時境内には別当寺である弥勒寺が勧請されていた。
本殿の裏に、再現された飛鳥時代に築造された上円下方墳の古墳があった。
古代中国では、天はドーム状の半球形、大地は四角いものと考えられ、
当時の宇宙観を反映した築造と考えられている、とのこと。
『こんな形の古墳は初めて見るねぇ』
上円下方墳は、全国的にも珍しく、これまで5例あるのみだそうだ。
展示館(無料)に入ってみることに。
展示館は2階にあり、上円下方墳の断面図や、
発掘調査などの資料が展示されていた。
上空から撮影した写真
上円下方墳の全体がよく分かる。
石室から出土した鞘尻金具を復元したもの。
中央に七曜文が刻まれている。
七つの円文は、木・火・土・金・水と日(陽)・月(陰)の七曜を表している。
七曜文は、古代中国の陰陽五行思想をもとに考案された模様と云われている。
展示館見学風景
管理人の方から概略の説明を受け、
石室復元展示室を見学することにした。
入口は狭いため、ヘルメットを着用する必要がある。
また石室の中は暗いので、懐中電灯を貸してくれる。
石室の内部
玄室には、石が敷き詰められていた。
発見された鞘尻金具の位置が記されていた。
11時33分、展示館を後にする。
見学などで30分以上費やしてしまった。
旧甲州街道を進む。
11時39分、JR南武線を通過
立派な板塀に続き、
きれいに積まれた石垣の旧家を過ぎると、
ぽつんと常夜燈が立っていた。
文久三年(1863)建立の秋葉燈である。
11時53分、谷保天満宮に到着
菅原道真が太宰府に左遷。同じく三子の道武も武蔵国多摩郡分倍庄に配流されたが、
道真没後この地に建立されたと伝わっている。
鬱蒼とした森の参道先の二の鳥居を潜って、石段を下りると、
右手に、石の牛像が横になっていた。
谷保天満宮座牛については、以下のような説明が。
牛と天神様の関係は、仁明天皇(にんみょうてんのう)の承知十二年(845)乙巫6月25日に菅公が生誕、
また公甍去の際、筑紫の国三笠郡四堂に墓を築き葬ろうと需車(喪の車)を引き出したが、
途中牛車が動かなくなったのでその場所に埋葬した等、菅公と牛に関する神秘的な伝説が数多く残っている。
座牛はこの悲しみに動かなくなった牛を表現したものである。(説明板)
本殿に近い所にさらにもう一つ牛の像が。
こちらは銅製で、鼻や足などは撫でられて光っている。
境内には合格祈願の絵馬がびっしりと掛けられていた。
本殿の前では、何組かのお宮参りの人たちが記念写真を撮っていた。
『シャッターを押して貰えますか?』と頼まれれば断る訳にはいかない。
『はいっいきますよ~っ』
谷保天満宮を後にする。
国立第一小学校前の横断陸橋を通過すると、
12時23分、左手に南養寺の常夜燈が現れた。
寛政六年(1794)に甲州街道沿いの元上谷保の油屋近くに建てられたもので、
道路拡張工事に伴い、南養寺表参道入口であるこの地に移転された。
大正時代までは、村人が順番に毎日夕方、灯りを灯していたと伝えられている。
南養寺の長い参道の先に総門がある。
安永九年(1780)地元の大工佐伯源太によって建築された。
薬医門形式で、屋根は切妻造りで銅版葺きである。
総門を潜ると、右手に地蔵堂があり、
その先には享保三年(1718)建造の大悲殿がある。
堂内には運慶作とも云われる十一面千手観音坐像が安置されている、そうだ。
大悲殿を左に曲がると文化元年(1804)建造の立派な本堂が現れた。
南養寺は、臨済宗建長寺派の禅寺で、立川普済寺の末寺。
開山は、南北朝時代の正平二年(1347)、本尊は釈迦如来坐像。
本堂の北面に枯山水の庭園があるとのことだったが、時間の都合上パスした。
境内の奥には、享保三年(1718)鋳造の鐘楼が。
梵鐘は谷保鋳物三家の一つ下谷保の関忠兵衛作、とのこと。
南養寺入口の常夜燈に戻ると、皆さん、腰を下して休憩していた。
少々お疲れの様子、というより、お腹が空いて動くのがおっくうといった状態である。
時計は12時33分を回っていた。
南養寺を出て最初の交差点(矢川駅入口)に肉の万世の看板を見つけた。
100mほど先と表示されている。
この先、適当なファストフードなどなさそうだし、
『たまには美味しい牛肉でも食べるとするかっ』
ということで、交差点を右折し、矢川通りを100mほど進むと、12時41分、万世に到着した。
途中、スリランカ料理店もあったが、これはパスした。
メニューを見ると、みなけっこう良い値段である。
『まぁ 他に店は無さそうだし、ここにするしかないねっ』
一番混んでいる時間帯だったため、席に案内されるまで10分ほど待たされた。
しかも4人づつ別の席である。
思案の結果、「とんかつランチ」(890円)を注文。
配膳されるまで20分ほどかかった。
ご飯のボリュームは充分過ぎるほどだったが、お代り自由とのこと。
『これでお代りする人っているのかねぇ』
食事を終わった時には13時30分を過ぎていた。
たっぷり50分ほど要したことになる。
『やっぱり昼飯は牛丼屋に限るねっ』などと話しながら、旧甲州街道を進む。
(後で聞いたら全員「とんかつランチ」を注文していた)
名もないような地蔵堂に手を合わせ、
旧甲州街道を進むと、
13時53分、立川市に入った。
日野橋交差点を横断
新奥多摩街道の銀杏並木を進み、錦町下水処理場交差点を左折。
東京都知事選のポスター
21名立候補しているはずだが、ポスターは6枚しか貼られていない。
他の候補者は、まだ撮影中なのだろうか?
錦町下水処理場の裏手に日野の渡し跡碑があった。
日野の渡しは、甲州道中の幕府公認の渡し場で貞享年間に現在の場所に落ち着いたが、
大正十五年の日野橋の完成で満願寺の渡しと共に廃止されている。
碑には、以下のように記されている。
日野の渡しの出来たのは、いつの頃だか誰も知らない、
江戸時代中期貞享年間、この地に渡しが移されたことは確かであろう。
かつて信濃甲斐相模への人々は、この渡しを過ぎると遠く異境に来たと思い、
江戸に向かう人々は、江戸に着いたと思ったという。
日野の渡し跡碑の先の下水処理場を過ぎると、多摩川に出た。
テニスコートや野球のグラウンドでは練習が行われていた。
休憩中の中学生たち。
『甲子園目指して頑張ってねっ』
監督・コーチの皆さんも一休みだ。
『暑いのにご苦労さんですねっ』
日野橋、長さは500mほどあるだろうか。
けっこう長い橋である。
日野橋を渡る。
日野橋から多摩川上流を望む。
多摩モノレール線が見える。
多摩モノレールだ。
何を見てるのかな?
1羽の白サギが餌を獲っているところだった。
日野橋を渡り切り、
多摩モノレール線の下を通過
日野宿へ
馬頭観音像
旧有山家の古い家の写真に見入る。
写真には、次のような説明が、
有山家(屋号「綿十」)前-下町-
左手の石垣付近が有山家です。この写真は、明治26年(1893)の大火の前に撮られたものと思われます。
有山家、中嶋家(屋号「嶋屋」)、古谷家(屋号「油屋」)、土方家(屋号「土屋」)と蔵の連なる
甲州街道沿いの町並が分かる一枚です。
14時44分、日野宿本陣に到着
日野宿本陣は、正保年間(1644-46)に日野宿の名主に取り立てられた下佐藤家の住宅である。
冠木門を構え、
瓦葺きの大屋根・入母屋の玄関など本陣建築として建築史的にも価値がある。
本陣内には近藤勇の書状や新撰組関連の歴史的資料なども展示されている。
冠木門のところで、新選組隊服に身を包み、”日野宿応援隊御預 ひの散策組”の幟を携えた女性達とばったり。
『せっかくだから』ということで、女性陣との記念写真を撮らせてもらった。
ボランティアで観光案内などをしている、そうだ。
この日は、最後に高幡不動にお参りすることにしているので、
ここ日野宿本陣で引き返し、多摩モノレールの甲州街道駅へ向かうことにした。
JR日野駅近辺の寺社は、次回に訪ずれることにしよう。
日野警察署前を通過すると、
多摩モノレール線が見えてきた。
15時9分、甲州街道駅に到着
『この日の街道歩きに相応しい駅名だねぇ』
高幡不動駅は2つ先(210円)である。
多摩モノレール車内
15時21分、高幡不動駅に到着
高幡不動の参道入口商店街の門
横浜中華街を思わせる。
参道を進むと、
高幡不動仁王門の前に出た。
圧倒されるほどの存在感だ。
楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正「号泊如」の筆
『凄く立派な門だねぇ』
仁王尊は室町時代の作と伝わる。
線香の煙で身体を清めて、
不動堂に参拝
真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ、
高幡不動尊として親しまれている。
冒頭でも説明したように、関東三大不動尊は、高幡山金剛寺(高幡不動尊)、成田山新勝寺(成田不動尊)、
および玉嶹山總願寺(不動ヶ岡不動尊)とされている。
熊本大地震救援募金へも少しばかり・・・
奥殿に安置されている丈六不動三尊へもお参りしておこう。
総重量1100Kgを超える巨像の丈六不動三尊は、古来日本一の不動三尊と伝えられている、そうだ。
満5年の歳月をかけて竣工したと云われる五重塔は、塔高39.8m、総高45mで、
平安初期の様式を模した美しい塔だ。
新選組土方歳三の菩提寺である高幡山金剛寺には、近藤勇・土方歳三両雄の碑や、土方歳三の銅像、
また大日堂には土方歳三の位牌や新選組隊士慰霊の大位牌等、更に奥殿では歳三の書簡ほか
多くの新選組資料が展示されている、とのこと。
高幡山金剛寺にはこの他にもたくさんの建物や見所があり、全てを見て回るには相当な時間が必要である。
残りは次の訪問時の楽しみにしておいて、この日は高幡山金剛寺を後にした。
15時56分、京王線高幡不動駅に到着
15時58分発の特急で新宿へ向かい、約30分で新宿へ到着した。やはり特急は早い。
その後、山の手線で上野駅へ向かい、常磐線で帰路についた。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧甲州街道を歩く」第四回目(府中宿~日野宿)を歩き終わった。
京王線府中駅から、JR日野駅までという比較的短い距離というのが頭にあったため、
立ち寄り先に時間をかけ過ぎた感はある。
武蔵府中熊野神社古墳では、展示館の見学に加え石室復元展示室の見学もするなど
充分過ぎるほど時間をかけたが、今では見学しておいて良かったと思っている。
街道からは少し外れているが、関東三大不動尊の高幡不動尊にお参りできたのもその一つだ。
甲州道中として訪れたが、このような機会でなければこれからも訪れることはなかったと思われる。
これも「旧甲州街道を歩く」の醍醐味(ハプニング)と言えるかも。
次回(8月)は、日野宿から駒木野宿(約12Km)を予定している。
次はどんなハプニングがあるのか、今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。
次回は、昼食はやはりファストフード店にしたい。
この日の万歩計は、21,000歩を計測していた。
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