ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

日本100名城巡り No.57 篠山城

2014年05月04日 | ウマさんの「日本100名城巡り」
2014年5月4日(日)


前夜、篠山城から最も近い道の駅「丹後おばあちゃんの里」で一泊し、
この日は朝から篠山城を訪問した。
昨年(2013年)7月26日の松坂城以来、およそ9カ月ぶりの登城である。
篠山城旧大手門跡から見た北側の市役所通り。この辺りは、大手門馬出があったところだ。
真直ぐ進むと商店街がある。


城の北側(市役所側)の大手門跡から篠山城方面を見たところ。
中央に見える大きな屋根が、大書院である。
この辺りに大手門があったとみられるが、今は何も残っていない。


廊下門前
篠山城は、慶長十四年(1609)、徳川家康が大坂城の豊臣氏に備えて、大坂や京都から山陽・山陰へ通じる交通の要衝に築城した。
天下普請により築城工事は進められ、総奉行は池田輝政、縄張は築城の名手籐堂高虎であった。
別名を桐ヶ城という。


篠山城は、天下普請で築かれた丹後の堅城である。
廊下門跡から内堀と二の丸、本丸の高石垣を望む。


廊下門跡の石垣
現在はここから登城するようになっている。


それでは、登城してみよう。
廊下門先の正面に虎口がある。


鉄門(くろがねもん)へ至る櫓門の石垣
ここにかつて中門があった。


石垣には様々な刻印が刻まれている。
200種以上の刻印があるとのこと。


中門跡を過ぎると鉄門(くろがねもん)跡が現れる。
二の丸へ至る最後の門跡である。正面は大書院の玄関。
説明板には、
絵図によると、櫓門形式の門があり、呼び名のとおり門扉には鉄板が張られていたと考えられている、とある。
現在門は復元されてはいないため、簡素な木の門となっている。


大書院は後で観ることにして、先ずは二の丸御殿跡へ。


二の丸御殿跡


二の丸御殿跡
かなり広いことが分かる。


二の丸御殿跡の南東隅に庭園跡が復元されている。
説明板には、
二の丸御殿間取図や二の丸庭園絵図写などにより、ここに庭園が存在したと考えられている。
発掘調査の結果、ここに築山の一部が確認され、築山のみが復元された。
庭園に付き物の池は、正確な史料が不足していたため、復元はされなかった、とある。(概略抜粋)


二の丸御殿跡から西堀側の三の丸跡(駐車場)を望む。
手前は内堀である。


往時の名残をとどめる二の丸御殿庭園の井戸


覗いて見たが、井戸は深くて中は見えなかった。
試しに石ころを投げ込んだら乾いた音がした。


埋門(うずみもん


埋門を外側から見たところ。


埋門の外側から南方面を望む。
右端にちょこっとだけ南馬出が見える。


二の丸御殿の東側に本丸がある。
篠山城本丸跡には青山神社が建てられている。


青山神社は、明治十五年、青山家十代の名君青山忠俊を祭神として建立された。


本丸跡に立つ青山家21代当主青山忠誠(あおやまただしげ)公追慕碑
″学舎は焼くとも教育焼くな”は、教育に名言として広く知られている、とのこと


本丸跡から本丸天守台を見たところ。


天守台へ上ってみよう。


天守台は、本丸南東部の奥まったところに位置し、城内で最も高い。
平面規模は東西18m、南北20mほどで、石垣の高さは17m、とのこと。
天守台から丹波富士と呼ばれる中世の山城(八上城跡)である高城山の美しい姿を見ることができる。


築城時(1609)に、江戸幕府からの指示により、城郭が堅固すぎるとの理由から、天守閣は建築を中止した。
天守台から市役所方面を望む。
手前のグラウンドのような広い所は三の丸跡である。


二の丸から廊下門石垣、大手門跡方面を望む。


二の丸御殿跡から大書院を望む。
大書院は慶長十四年(1609)の篠山城築城とほぼ同時に建てられ、約260年間にわたって藩の公式行事などに使用された。
明治維新となり、廃城後も城建物の中ではただ一つ大書院が残され、小学校や女学校または公会堂などに利用された。


しかしながら、昭和十九年(1944)1月6日の夜、火災により焼失。
その後、平成十二年(2000)3月に復元再建されたのである。


入館料400円を払って大書院に入ってみる。


丹波国篠山城模型
中心部に本丸と二の丸を梯郭式に置き、それを三の丸が輪郭式に取り囲む縄張で、
東と北と南の虎口には角馬出が設けられていた。


大書院でもっとも広い虎之間(36畳)


大書院手毬之間(18畳)


大書院孔雀之間(15畳)


大書院構造模型
熟練した二人の宮大工が、大書院の設計図をもとに、4か月の期間をかけて製作したものだそうだ。


この梵鐘は、4代藩主松平(形原)康信が、寛文十二年(1672)に二世安楽を願って造り、城中の道場にかけていたもの。
その後、京都の新熊野権現社や蓮華寺へと移され、大切に保管されてきた。
昭和58年、310年振りに篠山へ還ってきた。大書院が復元されたのを機に、ここに展示した、とのこと。


葡萄之間(21畳)の草花小禽図屏風


大書院で最も格式の高い部屋
この部屋は、付書院、大床、天袋、違棚、帳台構を備えた正規の書院造りとなっている。


大書院の後は、外堀を一周してみることにした。
北堀の外側に篠山市役所がある。


市役所前の通りを東へ進む。


篠山市役所庁舎


市役所庁舎の先を右折すると、直ぐ左に東馬出がある。
篠山城には北(大手)、東、南の三か所に出入り口があった。
馬出は、三方を凹字形の濠と塀で囲んで城門への通路を複雑にしていた。


東馬出
ここにあらかじめ兵馬を繰出しておき、いざという場合に馬出の門を開いて、打出す溜まり場となったり、
また武将がそこまで乗出して寄手の軍状を見張るところでもあった。
今は公園のように整備されている。


東堀


東堀に沿った通りを南方面へ進む。


南東の角
左側が南堀、右側が東堀になる。


南堀に沿って西へ進む。


南堀の向こうに本丸石垣と天守台が見える。
本丸に聳え立つ高石垣は、荒割石(粗割石)を用いた見事なもの、だそうだが、
残念ながら石垣下まで行くことができなかった。


南馬出


反対側から見た南馬出
広さは東馬出より2倍ほどある。


ここも三方を凹字形の濠に囲まれている。


南馬出辺りから西掘を望む。
正面が西堀、右側は南堀。


西堀に沿った道は、やや細くて旧家がぽつぽつ。


そのうちの一つに、入母屋造萱葺の武家屋敷小林家長屋門がある。
文化年間(1804年頃)に、当時の篠山藩主青山忠裕がその老女小林千枝の多年の労に報いるために
修築したと伝えられている。
兵庫県指定の文化財(建造物)となっている。


篠山城下町は城跡の周囲に広がる武家町と街道沿いに並ぶ商家町からなり、
江戸時代後期から昭和戦前期までの伝統的建造物が多く残されている。
西堀に面した道を一筋入った場所に建ち並ぶ武家屋敷群。


塀は新しく建て直されているが、門や屋敷の屋根は萱葺で、往時が偲ばれる。
神社の屋根に似ている。


武家屋敷前を車が通る。
時代の流れを感じる。


西掘に沿った武家屋敷を過ぎると、北堀に沿った通りへ出た。


北堀に沿って市役所方面へ進むと、篠山市立青山歴史村があった。
明治四年(1871)の廃藩後、旧篠山藩主澤井家は、ここを別邸として「桂園舎」と名付け、
同家の財産・藩政史料を管理し、昭和十九年十月には青山歴史村を開館し広く一般に公開していた。
平成十一年に篠山市が財団法人青山会から全資産の寄付を受け、市立の史料館として保存・管理を行っている。
旧澤井家長屋門がそのまま青山歴史村の門として使用されている。


大手門前の市役所通り
これで、外堀を一周したことになる。
約40分かかった。


大手門跡交差点に立つ托鉢姿の虚無僧
城下町の景色に解け込んでいる。


11時30分を過ぎていたが、次の登城先の姫路城を目指した。
昼食は、姫路市内に到着して摂ることにした。


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