年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

最後の戯作者たち 興津要著から

2011年11月04日 | 福神漬
最後の戯作者たち 興津要著から
講談社文庫本「妙竹林話七偏人」の解説で興津氏は明治14年に梅亭金鵞は團團社の正社員の座を退き、客員の地位におさまった。17年には日本橋の出版社鶴声者編集企画主任になったという。興津氏によるとこの頃は旧態依然たる戯作で新時代と合わず低調な作品であったという。ところが明治16年に梅亭金鵞の「妙竹林話七偏人」が万宇堂から再出版されている。あまり深く考えていなかったが「最後の戯作者たち」の本を読んでいるとこの明治16年から17年頃の出版事情から理解できるようになった。
 明治になって、東京で洋紙が製造でき、新聞の販売拡大に寄与したのは西南戦争によって報道が過熱した結果である。と同時に西洋活字が従来の木製活字を追い払う事になった。この活字事情の変化が戯作本出版までやってきたのが16年頃だという。明治初期の大新聞(政論を中心とした新聞)から小新聞(庶民が読者として想定していて戯作や歌舞伎・事件などを扱いルビ付きで読み易い)出てきて明治10年代初期は作者が不足していたという。市井の事件を扱う小新聞で「続き物」の記事となり、新聞小説ができた。10年代、池之端の守田宝丹の「芳譚雑誌」等の戯作雑誌の相次ぐ出版され戯作本の復興の兆しがあった。また印刷技術の変化は江戸時代の総仮名絵画中心の読み物としての合巻から漢字フリガナ付き読み物としての質的変化をきたしたこともあり、明治10年頃までは木版刷りの合巻から活版印刷となり、大幅に戯作本の価格が低下した(半額以下)。また木版では熟練した彫刻師でも文字の彫刻に手間取り、出版速度の点でも活版本に対抗できなかった事情があった。
 明治16年に「妙竹林話七偏人」が出版され、その本の中で池之端の香撰茶屋が出でてくるので酒悦主人が梅亭に当時開発中の缶詰漬物の命名を依頼したと思われる。この方法は今でも宣伝方法として用いられている。
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