山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

1967年竣工の寒河江市庁舎は、黒川紀章の建築設計、庁舎内に岡本太郎作オブジェが複数配置

2013-12-13 19:01:03 | Weblog
同級友人のO君から、フェイスブックで1967年竣工の(山形県)寒河江市庁舎について配信されてきた。
寒河江市庁舎は、黒川紀章の建築設計、庁舎内部に岡本太郎作のオブジェが複数配置されている。
黒川紀章はまだ新進気鋭の頃、岡本太郎は芸術界で国際的に知られていたものの国民大衆に知れ渡るのは、「1970年大阪万博の太陽の塔」作品なのではなかろうか。
それ以前の1967年4月竣工の寒河江市庁舎に、国際評価される日本人両芸術家が関わっておられたことは、特筆すべきことである。(寒河江市(関係)当局の偶然の先見の明であったのか?)
とはいえ、ブログ子がちょうど寒河江高校に通っていた同時期には、特に深く意識することもなかった。
O君の配信で検めて想起したのであるが、都落ちする前の1970年代の終わり頃、東京・六本木の南米料理の店で岡本太郎・(養女で秘書の)平野敏子両人とお会いする機会があった。
不躾ながらご挨拶したうえで、邂逅記念に一筆お願い申し上げたところ、「(気が乗らない時は断わるのだが)君はラッキーだ。今日は気分がいいから。君、名前は!」と発して。
「森です。」と答えたら、間髪もなくあの独特の一筆書きタッチで「森君、岡本太郎」と一気に書いてくれたのである。
同席の平野敏子女史が二人の遣り取りを、優しい微笑みで見つめていたことが、いまでも記憶に残る。
(1996.1岡本太郎没、平野敏子は2005.4没)
その後、太郎氏は付設のピアノに向かい(余興趣味の)クラシック演奏をされたのだが、両手を大きく振り上げるなどのパフォーマンス演技を見せるなど、常人素人とはかけ離れた鬼才を感じさせる様相時間でもあった。
これが芸術家と言うものなのかな?、と思いつつ・・・・。
90年代に川崎市宮前区に数年住まいする機会がありながら、近く(高津区)の岡本太郎生誕地の幾某所を訪れることもなく過ぎてしまったことを残念に思っている。
岡本太郎の謹書「森君」は、ブログ子(森家)の家宝として残して行きたい記念すべき人生路の停留所の一コマになる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 阿信県行旅、(1929)昭和4年... | トップ | 大コケに終わった映画「おし... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事