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山形の森 保守醒論

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阿信県行旅、「おしん」の故郷巡りで、新たな発見を見た。

2013-06-15 23:20:08 | Weblog

   廃村前の旧栃窪集落(白鷹町)


     栃窪集落から蛇行する最上川を臨む


(白鷹町黒鴨)蔵高寺の即身仏の参拝に臨んだ。
あいにく近隣の葬儀と重なって、住職が「即身仏参拝本日休止」の張り紙。
せめて発掘場所の日影にと、未踏で急峻な坂道を走らせた。
約600年前に開削された「道智道」の面影を現代に感じさせる厳かな参道でもあった。
旧日影集落から栃窪集落への分岐点に位置する「(即身仏)光明上人」の墳墓をお参りして、栃窪集落へと向かう。
栃窪分校跡地に車両を止め、過去にあった旧集落方面に足を進めた。
デジカメを手に周辺様相を撮っていたら、古老のSさんと出会った。
すぐ先に持ち家(別荘風)があるからと誘いを受けて追従した。
旧栃窪集落を知りたいと思っていた者としては、願ってもない邂逅であった。
「道智道」「おしん」を語り、橋田原作「おしん」の出生イメージ地は、この鮎貝・栃窪集落であることを、サンリオ映画「おしん」に出てくる(最上川沿いの鮎貝地区を示す「おしんの家」地図)3葉の絵図で示した。
古老は、以前に(モデル地と)聞いたことはあったが、中山町岩谷が(おしんの生家)撮影地となったことで、特に話題が広がることは無かったと。
昭和46年11月に38戸の栃窪集落(約180人)が一度に集団移転するなどとは、想像もできない出来事であった。
が、1960~80年代へと続く高度成長期に国内産業構造の変化による、過疎集落の崩壊現象は確実に進行していたのである。
橋田の原作「おしん」は20世紀に生きた女性を通しての時代反映のドラマ構成であり、その共感は国境を越えて全世界に届いたのである。
高台に位置する古老Sの敷地からは、しっかりと蛇行する最上川と架橋が見える、貴重な唯一のビューポイントであろう。
「おしん(乙羽信子)」が、吊り橋(旧大平橋)から最上川上流左岸の奥手に視線を送るシーンには、山間が連なるのだが栃窪集落を知るもの(おしん)からすれば、立木の合間に集落跡地を確信的に見つけたものであろう。
古老から見せて頂いた写真は、50年以上前のものと思われる(1964年架橋の大平橋が写ってない)。
もう一葉の写真は航空写真かと見間違うような、約40戸余りの家屋が建ち並ぶ栃窪集落の全体写真である。
いまや存在のかけらも感じ取れない(消えた集落)現状から、驚き以外のなにものでもないが、再来を述べ、古老に写真の複写をお願いして後にした。
「おしん」の故郷巡りで、新たな発見を見た。
1983.4.6放映「おしん(乙羽信子)」の吊り橋・旧大平橋回想シーンで、栃窪集落(出生地モデル)の位置ははっきりと見えていたのである。
昭和46(1971)年に栃窪集落は廃村となった。
NHK「おしん」のロケハン時(1982)には、「おしんの家」の撮影に供する残存建築物が無くなっていた。
周辺地域の廃村地区等をロケハンした結果として、中山町岩谷をロケ地(鈴木さん所有家屋)と選んだものである。
鈴木さんからは昨年に、NHKロケ前の1970年代と思われる(実質撮影の「おしんの生家」)写真の複写を協力いただいた。
「おしんに魅せられて」の探究はこれからも続く。
  追記、一代で山形市などでY企業グループを築いた立志伝のT氏が、栃窪出身であることを古老から教えていただいた。

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