山形の森 保守醒論

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田中派(木曜クラブ)秘書軍団が、角栄没20周年で懐かしの集結

2013-12-19 19:16:47 | Weblog

       自由民主党本部(永田町1)

田中派(木曜クラブ)に所属した秘書軍団が、角栄没20周年で懐かしの集結をされたそうな。
自民党秘書会、派閥ごとの秘書会などがあるが、もっとも利便性なのは派閥の秘書会だろう。
日常の陳情処理、情報交換、人物紹介、秘書業務の学習と懇親を越えた多様な互助会的部分がある。
なかでも、田中派(木曜クラブ)秘書軍団については、軍団と呼ばれるだけに戦闘的選挙戦など軍隊組織的に活躍されてきた。
他の派閥秘書会の懇親宥和とは違っていたと聞いている。
75歳で死去した田中角栄没後20周年、政治家の中で角栄本は最も多く出版されてきたであろう。
ロッキード事件で逮捕された保釈後に、田中自身が「総理になるのが10年早かった」と悔いている。
自民党総裁選挙で無理を強いた「金券選挙」が、自民党での金権政治へと移行してゆくのである。
ロッキード裁判対策が最優先された田中支配政治は、数による政権支配(田中→竹下→金丸→小沢)となり、首相(自民党総裁)は影の支配下に置かれた。
この構図は、田中政治の嫡子小沢一郎による(非自民)細川政権をも含め、小泉純一郎政権誕生までの約30年に及ぶ(1972.7~2001.4)。
田中が希有な天才政治家であったことは認めるが、田中自身が悔いているようにあの時点(1972年佐藤後継)で、無理せずに福田赳夫を先に押していたならば、自らの政治生命を縮めることもなかったろうと思う。
さらに、大平正芳にしても角福対立の政権運営下に置かれ、過労による在任死することもなかったろう。
なにより、三木武夫、鈴木善幸政権は誕生しなかったであろう。
この、三木・鈴木両政権時に外交安全保障問題に於ける足枷となる政策(閣議決定)が数多くなされている。
そして、1972年7月の自民党総裁選挙が、日中国交回復問題が一番の争点になってしまったことにある。
田中自身も巻き込まれた感があるが、中国サイドの周辺工作にまんまと乗ってしまったものである(親中派連合が総裁選勝利に繋がった)。
中国に迎合しない、小泉・安倍の清和会政権(福田派系)は、親中田中支配政権と異なり新たな外交戦略を描いている。
清和会側としては、田中派(木曜クラブ)秘書会の面々に、いまどんな思いなのか伺いたいものだ。

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