山形の森 保守醒論

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阿信県行旅、(1994)12月22日は、晩年の「おしん」こと乙羽信子の命日

2013-12-23 14:19:54 | Weblog

      最上橋(大江町左沢)、1983.1回顧の旅ロケ地

(1994)12月22日は、晩年の「おしん」こと乙羽信子の命日になる。
1983~84のNHKドラマから、ちょうど10年後に肝臓癌で亡くなった。
天真院兼室妙信大姉(京都市右京区の妙心寺衡梅院)
ドラマ役柄上は83歳時点で終了しているが、乙羽信子の命日に合わせて、あと10年生き抜いた「おしん(田倉しん)」93歳での大往生を考えてみた。
題して「おしん-最終章」
舞台は(1989)1月7日、テレビでは昭和天皇崩御(元号「平成」)の特別番組が流れている。
傍らで見入る家族に「おばあちゃんは、天皇陛下より長生きしてしまったよ。」と語りかける。
おしんと昭和天皇は同年(1901)生まれで、誕生日が一ヶ月ほどの違いである(おしんが3月生まれ)。
1989.10、おしんは初子と伊勢神宮参拝に出かける。 
「初ちゃん、ちょうど300年前の今頃になるんだけど、松尾芭蕉が『奥の細道』に5ヶ月ほどの旅をして(1689年は伊勢神宮遷宮年にあたり)遷宮式典に間に合うように伊勢に帰ってきたんだよ。山形の出羽三山もみんな御参りをしてね。月山は頂上まで行ったものかね。雪もいっぱいあったろうに、なんたって月山は夏スキーができるんだからねェ。」 芭蕉は伊賀国上野(三重県伊賀市)出身。 
1989年は、松尾芭蕉の「奥の細道」紀行300年祭の年で、約600里・161日紀行(1689.5.16~10.)のうち山形県に約40日間滞在(7.1~8.11)している。
1991年末からのバブル崩壊は、1993年ころに深刻な全国的社会問題となる。
1993年、冷夏による不作で米を緊急輸入する戦後最悪の作況指数(74)を記録した。
昭和恐慌(昭和初期)、敗戦後の食糧難を体験してきたおしんは、古里山形の不作事情を案じながら、孫を伴い人生最後になろう墓参りを兼ねて山形にやってくる。
もうひとつの大きな来形の理由は、おしんが生まれた時から目にしていた月山(593年、蜂子皇子が開山)の出羽三山開山1400年祭の記念すべき年にあたっていたのである。
このときを逸すれば、二度と故里を訪れる機会はないだろうとの強い覚悟の決意でもあった。
バブル崩壊による経済不況は、「スーパーたのくら」グループにも押寄せ、経営難の情報は山形滞在中のおしんにももたらされる。
老齢のおしんは、心労と体調不良から山形で入院療養することになる。
「たのくら」経営難は、大手の総合商社マンとなっている孫の八代圭の耳にも入り、圭の商社が経営参加することで倒産を逃れる。
(1994)平成6年12月22日赤口、スーパー再建目途の朗報を聞いたおしんは、最上川と積雪に映える月山が見える地方病院で、正午頃に静かに息を引き取る。
病床には、長らく音信不通だった兄弟の子どもたち(甥・姪)などの親族に見守られながら・・・・。
おしんの人生記(1901.3~1994.12)は、昭和天皇(1901.4~1989.1)と共に生き抜いた激動の20世紀の日本女性のドラマとなる。
おしんマニアの勝手な「おしん-最終章」のストーリー。

 

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