山査子と「桜の歴史」、先頃母校「S」が創立90周年を迎え式典が挙行された。(?寄付集めに)実行委員の末席にとの要請を受けたのだが、会議にはほとんど欠席して実際名前だけに終わり申し訳なく思っている。式典当日の地元紙「山形新聞」に祝賀式典の公知広告が掲載されていた。そのなかに(?近年在校生の)修学旅行の写真があり、説明書きとして「陝西省西安市」とされたものが目に付いた。ブログ子の頃はちょうど大阪万国博の当たり年となり、前後年生も含めて修学旅行先は「大阪万国博」になってたのではと記憶する。近年、プロテスタント系の私立高校などでは、中国への修学旅行が見受けられることは承知をしていたが、我が母校の県立高校までが海外への(修学旅行)時代に入っていようとは初めて気が付いた。そして気になったのは「陝西省西安市」である。いくら修学旅行の物見遊山とは言え、観光先の事前レク(説明)はされたものと考えたい。「陝西省西安市」となれば、なにを置いても、1936.12の「西安事件」であろう。この西安事件こそ、蒋介石(国府軍)を拉致し、張学良・ソ連共産党・中国共産党が仕組んだ、抗日統一戦線(第二次国共合作)の始まりそのものであった。S校教師陣が修学旅行先の(西安市)現地で歴史的真実の一端を学習したとすれば、OBのひとりとしては大いに誇りとしたい。なぜなら、この「西安事件」が実質的な大東亜戦争の始まりとなるのであるから・・。戦後、いわゆる「15年戦争」なるレッテルを張ったのは、1956.に共産主義シンパの鶴見俊輔が使い始めた「反日プロパガンダ造語」である。つまり、(1931.9)満洲事変から一貫した日本帝国軍による戦争として経緯捏造すべく使った左翼レッテル用語である。それは同時期に喧伝された中野好夫の(文芸春秋2月号)「もはや戦後ではない」と戦後復興新時代を謳った、時代転換(国情回復)に足枷をすべくマルクス主義者が狡猾に利用した日本悪玉の「15年戦争歴史観」として、ダメディア(日教組)が啓蒙し続けている反日史観の造語である。母校「S」がそれを払拭するべく現地学習に修学旅行先を中国にしているものと善意に考えたい。先に述べたようにブログ子の時は、「大阪万国博」以外は京都・奈良の神社仏閣の和様歴史研修が主な修学旅行先であった。大阪万国博のメイン「太陽の塔」のデザイン監修をされたのは、国際的芸術家の故岡本太郎である。最近、渋谷駅に掲げられた岡本作品の壁画「明日の神話」への付設エピソードもあるようだが、本年は岡本太郎生誕百周年に当たるとされ、マスコミでの取り上げも多く見受けられる。私ごとであるが、30年余前になるが岡本太郎氏と対面する機会があった。ダメもとと思いながらも「(岡本)先生、ご一筆お願いしたいのですが!」と申しでた。返ってきた言葉は「君はラッキーだ。今日の僕(岡本)はすごく気分がいいんだ」と、差し出した色紙に「M君・岡本太郎」と独特の岡本バージョン字体で、一気に書いてくれた。やり取りを微笑みながら隣に居た養女で秘書だった、(平野)敏子の顔がいまでも思い出せるようだ。故人となったいま「為書き」は家宝にもなるものと大切にしている。岡本太郎と対面した場所は、これまた時の偶然であろうが、つい先日亡くなった、SM縛りの団鬼六先生(黒岩幸彦)の実妹が経営する六本木のレストラン「D・R」であった。いまは新築され三井リハウスの賃貸ビルになっているようだ。
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