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NHK朝ドラ「おしん」、30年前の山形ロケ(1983.1.18~25)

2013-01-21 11:33:37 | Weblog

    白鷹町の旧栃窪集落、廃村前の1960年代撮影

NHK朝ドラ「おしん」の山形ロケは、ちょうど30年前の今頃(1983.1.18~25)に行われた。
雪中ロケは「おしんの生家」とされた中山町大字岩谷に始まり、大江町左沢の筏下り、西川町大井沢、尾花沢市銀山温泉、酒田市などの順で約一週間ほどに亘った。
が、おしん出生のモデル地域は西置賜郡白鷹町の旧栃窪集落とされている。
おしんが三重県伊勢を発ち、山形・銀山温泉「銀山館」に辿りつくのは(ドラマ上で1983.3.15)夕刻のことである。
翌16日に、タクシーを貸切って、孫の圭を伴い出生地を目指す。  乙羽おしんが、最上川に架かる吊り橋(大平橋・白鷹町大滝)から懐かしみ上流を見つめるシーンがある。
この場面右手(左岸)に見える山向こう側に旧栃窪村があった。
この栃窪集落(当時38戸)は、1971年11月に(白鷹)町中央部に集団移転をして廃村となった。
最盛期には57戸の時があり、旅館・商店もあった。
ドラマ上でおしんが学びたかった学校(1892年開校の栃窪尋常小学校、廃村で閉校時・鮎貝小学校栃窪分校)もあり、1889年の市町村制施行(合併で鮎貝村)までは、栃窪村としての行政単位を誇っていた。
廃村からロケ時までの12年余経過のなかで、残存民家は朽果てて撮影に供する対象物が無くなっていたものだろう。
それらのことから「生家」とするロケは、中山町大字岩谷での撮影となったようである(所有者のSさんによると、撮影後5年ぐらいで(積雪などで)自然倒壊したとのこと)。
また、ロケ隊の懸念とされたのが、雪中期的に降雪状況で撮影困難な場所では立ち行かないことだったと述べている(岡本PD)。
昨年秋に栃窪を訪れてみたが、普段に除雪してない廃村での冬季ロケは無理であろうと思えた。
橋田の「おしん」脚本コンセプトとして、(川の)最上川と(山の)月山があり、泉ピン子扮する母ふじが真冬の川に入水し、堕胎しようとするシーンがある。
この設定地として、月山を真正面に眺望でき、寒河江川が流れる西川町大井沢をロケ地としたものである(栃窪・岩谷から月山は見えない)。
ロケ隊が宿泊した旅館の女主人から、後日談として直接聞いたものだが、(NHK側の要請で)お風呂を緊急増設したとのことだった。
雪中山形ロケは一週間ほどで終了したが、(1983)3月に第2次の庄内ロケが行われている。
田中おしんとなり(T5、1916.7)、加賀屋の奉公から暇をいただいて、肺結核で死期を迎える姉はるを看取る。
父作造により新たな奉公先として、山形の料理屋の座敷女中に売られようとするが、姉はるの遺言を頼りに東京(浅草での髪結奉公)への出奔を決意する。
長井線が、まだ長井駅までしか開通していないときである。
おしんは口入れ屋から逃れて、栃窪から長井駅までの約15K超の道のりを歩いて列車に駆け込んだことになる。
シナリオ(1922.12)で母ふじが、長男雄の出産を控えて上京するシーンがある。
実際、この年12月11日(月曜)に長井線は長井~鮎貝間が開通(鮎貝駅開業)となる。
シナリオでは触れていないが、母ふじは鮎貝までの開通を待ち、初孫誕生に喜び勇んで上京したものであろう。
年明けの(1923)1.14、(おしんは)長男雄を出産。  三高・京都帝大と進学する雄だが、1944.9に出征し、(1945.4.18)フィリピン・ルソン島で戦死することになる。
雄は、1942年に京都帝大文科(経済学部)に入学している。
ブログ子の記憶では、本県の美栄子知事の義父(吉村敏夫さん)も同年入学のはずである。  学徒出陣もされたと聞いたことがある。
フィクションドラマ「おしん」の世界ではあるが、吉村敏夫さんが田之倉雄と京大キャンパスで同級だったことになる。  美栄子さんも知ることはないだろうが。
「おしん」に深く魅せられて15年余りになるが、(勝手ながら)推理読みすると実に面白い。
「おしん」こそ山形の知名度アップの切り札だと考えて、数年来各方面に唱えてきたが反応が鈍い。
それならば、自らヤルッキャないなと、弊社で特許庁の商標取得しちゃいました。関心ある方はお寄せください。090-1495-4008(山形の森)

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