山形の森 保守醒論

山形から発信する内外の時評ブログ!

“たかが政治家”、“されど政治”の鬱積日々。

2008-12-24 17:09:34 | Weblog
チャーチル英元首相の至言に、「民主主義は最悪の政体であるが、これまで存在したいかなる政治制度よりマシである」との消極的是認の言葉がある。
未曾有の経済危機が叫ばれる現況のなか、政局優先で右往左往する政治家諸氏。
政界再編、離党思惑行動など平然と連日報道されている。
そこには、政治理念など無きに等しい目先の生き残り最優先本能が働いているとしか思えない。
政治家の政治理念の希薄さだけが見えるばかりで、結局、それを許容し続ける国民有権者の判断に尽きるのだが。
昨今、各政党の候補者公募やその選考過程において、候補者本人の政治理念に対する問い(確認)が必要とされていないことが不思議でならない。
思想信条も含めてほとんど無視されているのではないかと感じる。
昨年、自民党山形県連は、長い期間をかけて女性候補者を選んだ。
経緯はさておき、選挙戦前後のマスコミ各社による候補者に対する政策アンケートの回答報道が次々なされた。
国政選挙ゆえに、他党、他選挙区候補者も一斉に掲載されているので、その比較検討は容易である。
山形の自民党候補者は東北地域の全候補者の回答比較(外交・安全保障の基本政策)でも最もリベラルで、民主党候補者と比べてもリベラルに部類される結果であった。
保守政党の候補者擁立が、理念などそっちのけで議員席を獲得するだけの数合わせ、採決要員狙いでしかなくなっている。
(国政選挙との違いはあるが)このたびの山形県知事選挙や首長選挙において、県民党・地域党を名乗る選挙戦術を理解出来ないわけではないが、政策理念を据えなければ公約する実行性に説得力を感じられなく映る。
むしろ、候補者よりも政党の対応自体が政党理念の形骸化を醸し出しているのではないか?、と理念の曖昧さを戦術に終始することに危惧を覚える。
民主主義の本質は、“良い指導者であるかどうかだ!”ではあるが、候補者の政策理念を知らずに選択の決定打はありえない。
人気投票だけでは、チャーチルも嘆く愚衆による民主主義を超えることは出来ない。
“たかが政治家”、“されど政治”の鬱積日々は過ぎて行く。

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