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上方落語の戦後史


戸田学      岩波書店

 大労作である。500ページを超える大作。この長大な分量に上方落語の凋落、復活、そして隆盛が仔細に書き留められている。上方落語を愛する者にとっては、終生、座右に置きたい本である。
 爆笑王といわれた初代桂春団治から稿を起こし、桂米朝の人間国宝認定で終わる。上方落語興亡史である。
 エンタツ、アチャコをはじめとする漫才の人気に押され、上方落語は衰退し、高座を設ける場所さえ事欠いた。2代目桂春団治が亡くなった時には「これで上方落語は死んだ」とさえいわれたものだ。この上方落語の危機を救ったのは、いわゆる四天王、笑福亭松鶴、桂米朝、三代目桂春団治、五代目桂文枝である。しかし、この四人が登場する前にも上方落語を後世に残すべく心血を注いでいた落語家がいた。五代目笑福亭松鶴と四代目桂米団治である。そして三代目林家染丸が戦力に加わり、江戸落語の桂文楽、古今亭志ん朝が側面から支援した。このあたりは水滸伝を思わせる面白さだ。
 本書を読んでいて、日本SFのことを思い浮かべた。かってSFを手がける出版社は必ずつぶれるといわれた時代があった。上方落語はそこに、まだ地中に根が残っていたが、日本SFは不毛の荒野であった。そこにアメリカから矢野徹が種を持ち帰り、江戸川乱歩のアドバイスによって日本にSFの種を植え付けた。そして福島正実がSFマガジンを、柴野拓美が宇宙塵を創刊し、これが日本SFの母胎となった。そこから星新一が、小松左京が、筒井康隆が、眉村卓が、光瀬龍が登場し、現代の日本SFの隆盛となった。
 上方落語と日本SF。よく似ているではないか。そういえば上方落語とSFは親和性が大きい。堀晃さん、かんべむさしさんをはじめ、関西のSF者には上方落語好きが多い。
 本書を読んで、その上方落語と日本SFの不思議なえにしを感じる話がいくつか載っていた。
 正岡容。中川清青年(桂米朝)がこの正岡に入門したのが、上方落語復興の1つの契機となった。この桂米朝の師正岡容の甥が平井イサクである。SF好きなら聞いたことのある名前だろう。アイザック・アシモフやアーサー・C・クラークを多く翻訳した人である。
 桂文珍の初期の独演会は下座でシンセサイザーを演奏する画期的なモノだった。そのシンセサイザーを演奏したのが難波弘之。古くからのSFのビッグネームファンで巽孝之氏の大学の先輩である。
 二代目桂春団治の公演のポスターのイラストを描いたのが、学生時代の手塚治虫。この時、手塚は落語家への転身をすすめられたとか。このとき手塚がOKしていたら、大きな落語家が上方に生まれていたかもしれない。その代わり日本の漫画は別の歴史をたどっていただろう。
 そして桂米朝と小松左京の終生変わらぬ友情は万人の知るところである。
 もれなく上方落語の戦後史を記しているといいたいが、そうでもないのが二つほどある。まず、桂枝雀一門と桂ざこば一門の上方落語協会脱退の真相。この件に関しては「脱退した」と事実だけが記してあった。なぜ脱退したのか書いてない。当時の上方落語協会会長の露の五郎会長といかなる確執があったのか。また、6代目笑福亭松鶴亡き後、なぜ順当に総領弟子の笑福亭仁鶴が7代目松鶴にならなかったのか。なぜ仁鶴は嫌がったのか。鶴光、福笑、6代目松喬、松枝、呂鶴といった兄弟子たちを飛び越えて、松葉が7代目松鶴を継いだのはなぜか。上方落語ファンなら知りたいところである。
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