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どんぐり

「きょうはどちらへ」
「きょうは東だ」
「いってらっしゃい」
 妻が魔法瓶を手渡してくれた。熱いコーヒーが入っている。
 定年退職して半年。それなりの年金と、それなりの退職金で、妻とふたり、ぜいたくはできないが、それなりの生活はできる。それに妻の収入もある。近くのカルチャーセンターで生け花を教えているのだ。
 私は、まだ六〇代。二度目のお勤めも考えたが、四〇年以上働いてきたから、もういいか、と思って、いまは無職。完全フリーの身の上だ。
 毎日、散歩する。散歩のコースは決まっていて、家を起点に東西南北、コースはローテーションだ。
 東へ歩く。一〇分も歩くと隣の市へ入る。緑が多く気持ちの良い道だ。少し寒いが天気はいい。
 私は散歩が好きだ。会社にいたころは、退社時、一駅分は歩いていた。退社時だから夜の散歩だ。平日の昼間に散歩できるのも、退職者ならではだ。
 カンカンカン。踏切の警報機の音が聞こえてきた。私が歩いている道のひとすじ南を私鉄のレールが走っている。電車がスピードを落として近づいてきた。すぐそこに駅があるのだ。半年前は毎日この駅で乗り降りしていたものだ。
 いつもはここを過ぎてもっと東まで歩くのだが、その時、ふと思いついた。会社員時代のコースを散歩してみよう。電車に乗って会社まで行って、そこから散歩しよう。
 切符を買う。もう定期券は持っていないのだ。ホームのベンチに座って電車を待つ。
 私は、何年、この駅から電車に乗ったのだろう。三〇年。三〇年か。私のサラリーマン人生のほとんどを、この駅から乗り降りしていたわけだ。
 電車が来た。ここから五駅。地下鉄に乗り換えて三駅。そこに私の会社はあった。いや、会社はまだある。私にとっては会社は過去形なのだ。
 地下鉄の駅を降りる。歩いて十五分。コンビニのあるかどを曲がると会社だ。
 電子部品の商社。社屋の前に社用車が一台。他の社用車は出払っているようだ。そうだろな。この時間ならみんな営業にでているはずだ。社員が一人出てきて、残った一台に乗る。私の部下だった男だ。
 声をかけようと思ったがやめた。私は、もう、ここの営業部長ではないのだ。結局、私は役員にはなれなかった。取締役にでもなっていたら、こんな時間、ここでこんなことをしてないで、今日は月曜日だから、役員ばかりに会議に出ていただろう。
 コンビニの影から会社を見る。来る前に想像したほど懐かしさは感じない。それは、もうウチの会社ではない。ヨソの会社なのだ。
 さて、散歩するか。会社員時代は、会社から次の駅まで、駅から駅まで、そして一つ手前の駅から自宅まで歩いた。どのコースを歩こうか。
 会社の最寄り駅のちかくに、ちょっと大きな公園がある。そこで一休みして考えよう。
 ベンチに座る。出かけに妻が持たせてくれたコーヒーを飲む。ほっとする。退職後の私の散歩コースは、東西南北、どっちへ行っても公園がある。その公園でコーヒーを飲むのが楽しみだ。この公園で飲むのは初めて。会社員時代は、この公園は前を通り過ぎるだけだった。
 足下を見るとどんぐりが転がっている。どんぐりなんか見るのは久しぶりだ。私は植物は詳しくない。それがどんなどんぐりかは知らない。どんぐりってかわいいものだ。ポケットに入れた。
 電車に乗って、また降りて乗るのも面倒だ。ここから次の駅まで歩こう。

「ただいま」
「お帰り。今日の散歩は長かったのね」
「うん。ちょっと遠くまで行ったよ」 
「あなた浮気したでしょう」
「え!」
「今日は東の散歩じゃないの」
「あははは。なんでばれた」
「うふっ。ポケットからどんぐりが出てきたわ」
「どんぐりぐらいどこの公園にもあるだろ」
「わたしは植物にはくわしいのよ。あなたの散歩圏内の公園にはブナ科コナラ属の木はないわ」
「そっか。ごはんにしてくれ」
「はい。浮気は散歩だけにしてね」
「は~い」

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