雫石鉄也の
とつぜんブログ
ラストシネマ
鏑木は、きょう使ったグラスを全部拭き終わった。これが毎日の日課である。この仕事を終えないと店は閉めない。
夜の9時だ。もう客はこないだろう。さて、店じまいして帰るか。最後のグラスを棚に収め、手を洗っている時、その客は入ってきた。ゆっくりとドアを開けたため、カウベルは鳴らない。客は鏑木より少し若い男。
「まだいいかな」
「いいですよ。どうぞ」
客はカウンターに座った。
「お久しぶりです。鏑木さん」
「お久しぶりです。博さん」
S市駅前商店街。バー海神がある商店街だ。この商店街の中ほどに映画館があった。いや、いまもある。建物だけは。映画を上映しなくなってかなりの時間が経った。看板があるから映画館であったことは判る。いま入ってきた客、諏訪博の父親がやっていた映画館だ。スワ名画座という。
「しっとり濡れ濡れ若奥様のあそこ」「パンツ脱ぎます淫乱女子高生」最後に上映されたポルノ映画の看板がそのままかかっている。さすがに看板の絵の女体の要点は塗りつぶしてある。子供たちも通る道だから看板の撤去を映画館主に要請しているが、その館主は数年前に死んだ。
「私も大変気になっていました。親父が遺した小屋です。息子の私が後始末しなくてはいけないんですが、生活に追われて手がすきませんでした」
「では、S市にはスワ名画座の始末に」
「はい。あしたには早速あのスケベな看板を撤去します」
実は鏑木は映画好きだ。だからスワ名画座にはよく行った。最初は松竹の直営館だった。鏑木は「男はつらいよ」シリーズは全作このスワ名画座で見た。
この映画館の館主、諏訪の父親諏訪彪一郎は親から膨大な遺産を受け継いでいる。大変に映画を愛した男だった。だから後に松竹と直営の契約を打ち切って、自己資金で映画を購入して自分の小屋で上映していた。松竹とは契約は切れたが、「男はつらいよ」シリーズは最終作48作「男はつらいよ 紅の花」まで上映した。
「男はつらいよ」以外の作品は、彪一郎が、自ら選んだ映画を上映した。洋画も邦画も名作を厳選した。彪一郎の映画を観る目は確かで、遠くからも映画マニアが通った。その彪一郎はオードリー・ヘプバーンの大ファンだった。ヘプバーンの映画は全部スワ名画座で上映した。
しかし、客はだんだん減っていった。地方の街の映画館はほとんど絶滅したといっていい。スワ名画座も同じだった。最後はポルノ専門館となって小屋の経営を続けていた。
「もうあの建物が取り壊しですか。私もさみしいです」
「はい。固定資産税を取られているだけなので」
「博さん、今は?」
「先月定年退職しました」
博も父彪一郎に負けず映画好きだ。でも映画関係の仕事には就かず、電機会社で技術者をやっていた。会社勤めをしながら月に10本は映画を観ている。映画専門のブログを運営していて、映画好きには有名人だ。映画専門誌に時々投稿している。映画好きの鏑木も博のブログをよく閲覧している。
「では、これから好きなだけ映画を観れますね」
「そうしたいのですが、老後が心配で。まだまだ働かなければなりません」
鏑木は不思議に思った。彪一郎は大金持ちだった。息子の博にも少なからぬ遺産が入っているはずだ。
「ところで、スワ名画座ですが、なぜポルノ専門館なんかにしたのですか。お父さんの選ぶべき映画はまだまだ有ったでしょう」
「生活のためです」
「はい。生活?」
「私の母は早く死にました。私は市外に就職しましたから、父ひとりが小屋を経営しながら一人暮らしてました。安いポルノを仕入れて上映して、なんとか父ひとり食ってました。しかしネットでAVが見られる時代ですから、映画館にポルノを観に来る人なんていません」
彪一郎は資産家だったはず。不思議に思った鏑木は、思い切って博に聞いた。
「立ち入ったことを聞きますが。お父上は生活に困っておられたのですか」
「はい。無一文でなくなりました」
「ほんとですか」
鏑木はますますわからなくなった。その鏑木の疑問を判っているはずの博は話題を変えた。
「鏑木さん。あさって、午前10時から時間取れますか」
「この店は夕方からですから、その時間なら空いてますが」
「スワ名画座で最後の上映をします。ぜひ鏑木さんも来て下さい」
「なにを上映するのです」
「それは当日のお楽しみ。だれも観た事のない映画です」
四角い下駄みたいな顔の男が歩いている。江戸川の土手だ。渥美清のフーテンの寅だ。その男にむかって女が歩み寄る。後姿だが外国人のようだ。
「男はつらいよ」だ。48作全部観ている鏑木は頭を傾けた。こんなオープニングの「男はつらいよ」は知らない。タイトルが映る。
「男はつらいよ 葛飾の休日」
美しい外国人女性が葛飾帝釈天門前でうろうろしている。その女優はオードリー・ヘプバーンだ。渥美清の寅が女性に声をかける。
オードリー・ヘプバーンが「男はつらいよ」のマドンナ!鏑木はこんな映画は知らない。いや、だれも知らないはず。
ストーリーは某国の王女がお忍びで訪日。SPの目を盗んでひとりで東京見物。寅と知り合う。寅が王女を連れまわす。
エンドロールが映る。
出演 渥美清
倍賞千恵子
森川信
三崎千恵子
前田吟
太宰久雄
佐藤蛾次郎
笠智衆
オードリー・ヘプバーン
監督 諏訪彪一郎
「どうでした。鏑木さん」
「驚きました。こんな映画があったなんて」
「親父はこの映画を撮るのに全財産を使ったのです。松竹の許可を得て、山田洋次さんに頼み込んで、レギュラーメンバー全員集めて、オードリー・ヘプバーンを秘かに呼んで」
「これどこかで上映したのですか」
「いいえ。親父はこの映画を撮っただけで満足でした。フィルムを持っているだけで幸せだったようです。遺言でスワ名画座で上映する最後の映画にしてくれといいました」
一軒の映画館が取り壊された。世界でただ1本の映画の上映を最後に、その町の映画館は幕を閉じた。
夜の9時だ。もう客はこないだろう。さて、店じまいして帰るか。最後のグラスを棚に収め、手を洗っている時、その客は入ってきた。ゆっくりとドアを開けたため、カウベルは鳴らない。客は鏑木より少し若い男。
「まだいいかな」
「いいですよ。どうぞ」
客はカウンターに座った。
「お久しぶりです。鏑木さん」
「お久しぶりです。博さん」
S市駅前商店街。バー海神がある商店街だ。この商店街の中ほどに映画館があった。いや、いまもある。建物だけは。映画を上映しなくなってかなりの時間が経った。看板があるから映画館であったことは判る。いま入ってきた客、諏訪博の父親がやっていた映画館だ。スワ名画座という。
「しっとり濡れ濡れ若奥様のあそこ」「パンツ脱ぎます淫乱女子高生」最後に上映されたポルノ映画の看板がそのままかかっている。さすがに看板の絵の女体の要点は塗りつぶしてある。子供たちも通る道だから看板の撤去を映画館主に要請しているが、その館主は数年前に死んだ。
「私も大変気になっていました。親父が遺した小屋です。息子の私が後始末しなくてはいけないんですが、生活に追われて手がすきませんでした」
「では、S市にはスワ名画座の始末に」
「はい。あしたには早速あのスケベな看板を撤去します」
実は鏑木は映画好きだ。だからスワ名画座にはよく行った。最初は松竹の直営館だった。鏑木は「男はつらいよ」シリーズは全作このスワ名画座で見た。
この映画館の館主、諏訪の父親諏訪彪一郎は親から膨大な遺産を受け継いでいる。大変に映画を愛した男だった。だから後に松竹と直営の契約を打ち切って、自己資金で映画を購入して自分の小屋で上映していた。松竹とは契約は切れたが、「男はつらいよ」シリーズは最終作48作「男はつらいよ 紅の花」まで上映した。
「男はつらいよ」以外の作品は、彪一郎が、自ら選んだ映画を上映した。洋画も邦画も名作を厳選した。彪一郎の映画を観る目は確かで、遠くからも映画マニアが通った。その彪一郎はオードリー・ヘプバーンの大ファンだった。ヘプバーンの映画は全部スワ名画座で上映した。
しかし、客はだんだん減っていった。地方の街の映画館はほとんど絶滅したといっていい。スワ名画座も同じだった。最後はポルノ専門館となって小屋の経営を続けていた。
「もうあの建物が取り壊しですか。私もさみしいです」
「はい。固定資産税を取られているだけなので」
「博さん、今は?」
「先月定年退職しました」
博も父彪一郎に負けず映画好きだ。でも映画関係の仕事には就かず、電機会社で技術者をやっていた。会社勤めをしながら月に10本は映画を観ている。映画専門のブログを運営していて、映画好きには有名人だ。映画専門誌に時々投稿している。映画好きの鏑木も博のブログをよく閲覧している。
「では、これから好きなだけ映画を観れますね」
「そうしたいのですが、老後が心配で。まだまだ働かなければなりません」
鏑木は不思議に思った。彪一郎は大金持ちだった。息子の博にも少なからぬ遺産が入っているはずだ。
「ところで、スワ名画座ですが、なぜポルノ専門館なんかにしたのですか。お父さんの選ぶべき映画はまだまだ有ったでしょう」
「生活のためです」
「はい。生活?」
「私の母は早く死にました。私は市外に就職しましたから、父ひとりが小屋を経営しながら一人暮らしてました。安いポルノを仕入れて上映して、なんとか父ひとり食ってました。しかしネットでAVが見られる時代ですから、映画館にポルノを観に来る人なんていません」
彪一郎は資産家だったはず。不思議に思った鏑木は、思い切って博に聞いた。
「立ち入ったことを聞きますが。お父上は生活に困っておられたのですか」
「はい。無一文でなくなりました」
「ほんとですか」
鏑木はますますわからなくなった。その鏑木の疑問を判っているはずの博は話題を変えた。
「鏑木さん。あさって、午前10時から時間取れますか」
「この店は夕方からですから、その時間なら空いてますが」
「スワ名画座で最後の上映をします。ぜひ鏑木さんも来て下さい」
「なにを上映するのです」
「それは当日のお楽しみ。だれも観た事のない映画です」
四角い下駄みたいな顔の男が歩いている。江戸川の土手だ。渥美清のフーテンの寅だ。その男にむかって女が歩み寄る。後姿だが外国人のようだ。
「男はつらいよ」だ。48作全部観ている鏑木は頭を傾けた。こんなオープニングの「男はつらいよ」は知らない。タイトルが映る。
「男はつらいよ 葛飾の休日」
美しい外国人女性が葛飾帝釈天門前でうろうろしている。その女優はオードリー・ヘプバーンだ。渥美清の寅が女性に声をかける。
オードリー・ヘプバーンが「男はつらいよ」のマドンナ!鏑木はこんな映画は知らない。いや、だれも知らないはず。
ストーリーは某国の王女がお忍びで訪日。SPの目を盗んでひとりで東京見物。寅と知り合う。寅が王女を連れまわす。
エンドロールが映る。
出演 渥美清
倍賞千恵子
森川信
三崎千恵子
前田吟
太宰久雄
佐藤蛾次郎
笠智衆
オードリー・ヘプバーン
監督 諏訪彪一郎
「どうでした。鏑木さん」
「驚きました。こんな映画があったなんて」
「親父はこの映画を撮るのに全財産を使ったのです。松竹の許可を得て、山田洋次さんに頼み込んで、レギュラーメンバー全員集めて、オードリー・ヘプバーンを秘かに呼んで」
「これどこかで上映したのですか」
「いいえ。親父はこの映画を撮っただけで満足でした。フィルムを持っているだけで幸せだったようです。遺言でスワ名画座で上映する最後の映画にしてくれといいました」
一軒の映画館が取り壊された。世界でただ1本の映画の上映を最後に、その町の映画館は幕を閉じた。
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