次に向かったのは、羅須地人会跡地です。賢治が、豊かに独創的な教育を学徒に与え続けた、花巻農学校の教師の職を辞して、自らも農民として働きながら、地域のために生きる暮らしを選んだ地です。
雪降る中、ささやかな看板をみつけました。
周りは既に開拓されて、住宅がたっていて。そね中に、時折のぞく大樹に、尋ねる思いで歩きました。
この広い畑のどこに、賢治は居たんだろう?どこで、石灰をまいて、自ら考案した、土壌改良をしたのだろうか?
案内の札、風流な!誰が備えたか、柿が置かれていました。
みはるかす雪空に疲れて、足元に目をやると…そこには綾錦!!
なんと。気づかなければ、踏んで過ぎてしまう、幸いの形が、ここにも待っていてくれました。(微笑)
農作地から丘に登る、木と石の段々。なかなかの傾斜です。
登った先は広場で視界がひらけて!
だいぶ先の、北上川の堤防に近い辺りに、賢治の畑はあったと、案内がありました。
おそらく写真の奥、立て看板が見える辺りでしょうか。
ただ、この辺りは、改良工事が行われて、賢治がいた頃の田畑では、既にないと、案内にありました。
されど、この景色、山と川が見える、この場所が賢治が実践を尽くそうとした場所なのです。
賢治の『下の畑』から目を転じます。広い広場に見える、この場所が、賢治の居た場所。ここに、賢治の父の別宅があり、賢治はそこに住まって、羅須地人会をおこしたのです。
農村の青年たちに、レコードをきかせ、語らい、肥料の相談に乗る。
自らも農業につき、豊かな農村作りを目指したのです。
賢治は裕福な商家の長男でした。花巻農学校の俸給も豊かでした。それらから離れて、農業についたといえど、親の家作に住み、親に無心しながら、であって。本当の意味、彼が農家の現実を身に移したわけではなくとも、彼は精一杯、道を探したのでしょう。
ここにあった建物は、移築されていますが、賢治がみた空気を、私も一緒に感じたと、思います。
羅須地人会の跡地である、この場所には、友であった高村光太郎の文字で彫られた、雨にも負けず、の歌碑があります。
賢治の詩作は、推敲に推敲を重ねるスタイル。賢治が旅立ったあと、今に至るも、改訂版がなされています。
この歌碑にある詩にも、後日、高村光太郎による修正打刻が施されています。
降りしきる雪、散りゆく紅葉。
天然の造作によって、彩られた、現代文に写された、雨にも負けず。
『一日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ』が、戦時中には、配給に合わせて、詩歌を改作されもした。胸打つ賢治の言葉。
でも、きっと、賢治が一番欲しかったのは、『丈夫なからだ』だったろうと、妹も送り、37で旅立った賢治に、寄り添いながら、私は思いました。
かつて、家がここにあった時、賢治は訪ね人のために、自分の行き先をチョークで書いていたそうです。それを写したのが、こちら。私が探した『下の畑』に賢治は、今日も立ったかもしれません。
この橙色の絨毯は、この花巻のあちこちにみる、野村もみじ、という木だそうです。暖かな色味が、賢治の優しさに繋がるように、私にはうつりました。
私は畑まわりで、きましたが。いまでは、周りの私有地をさけて、通路ができていました。(笑)
そんな、近道の入り口には、小さな看板もありました。私がみた、賢治への道とは違う、また別の道でした。
▪️羅須地人会跡地、岩手県花巻市
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