<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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結論から言って、私には牛の顔は見分けが付かないのでクローン牛であろうが、そうでなかろうが、美味しくてジューシーなビーフであれば文句などあろうはずもない。

さらに、
「この肉はクローン牛の肉ですよ」
といわれたほうが、
「この肉はビーフ100%のマ○○○○ドのバーガーパティですよ」
と言われたよりも安全な感じさえするのだ。

科学的知識に乏しいのでクローン牛を食べるお言うことにどういう問題があるのかよくわからない。
これがクローン人間だと、倫理的な問題が大きいことも良くわかるし、第一、クローンだからと言って人肉を食べるとよけいに問題だ。
「あんたは、遭難ヒコーキの生存者か」
とか、
「あんたは佐川君か」
と言われそうだ。

この種の食品というのは遺伝子組み換え農作物と同じで、
「食べるにはなんだかちょっと気持ち悪い」
程度の感覚が潜んでいるのだろう。
だから科学的には安全でだったとしても、科学では救命しきれていない何かが存在するのではないかと警戒してなかなか口に運ぶことができないのだ。

クローン牛は一方において、食糧問題への解決策のひとつと思っている人もいるかも知れない。
私もズーと前はそう信じていた。
ところがクローン牛なるものは食糧問題の解決に何にも寄与しないのだという。

1人でも飢餓に瀕している人間を減らすには肉など食わずに野菜や穀物をそのまま食べるのが理想なのだという。

考えてみれば1頭の牛が毎日食べる飼料の量は半端ではない。
いくら大食いでも、あいつにやこいつ、そいつにでも人間は牛にかなわないだろう。

そのかなわないほど大量に穀物などを消費する牛など育てずに、穀物のクローンを育てる方がよほど効果的なのだと思う。

ということで、クローン牛の食肉解禁。
どうして大騒ぎしているのか良く理解できないのであった。

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今年の正月はその大半を「テレビ放送を見ることのできない場所」で過ごすことになった。

テレビの放送が見られないからといって、それはミャンマーの山奥でマラリアと戦いながら正月を過ごしていたとか、年末に借金のかたにテレビを没収されてしまった、というわけでもない。
単に滞在していた場所のテレビがアンテナ接続されておらず、接続すべきアンテナもないという場所にいたからでもある。

このため、外の世界との繋がりは畢竟、ラジオということになるのだが、普段であれば、それでも不便を感じたり、困ったりすることはあまりない。
ところが新年2~3日は毎年楽しみにしている「箱根駅伝」のテレビ中継を見ることができないという、これはもうヒジョーに困った状況に陥ってしまったのであった。
仕方がないのでラジオで観戦したのだが、わかったことはラジオ中継で観戦する「箱根駅伝」は何がなんだか極めてわかり難いということであった。

大手前をスタート後20分ほどの時にラジオのスイッチを入れたのだが、まず順位がわからない。
「1位2位の争い」と聞いていても、それは先頭集団ではなく、第2グループ内のことであったりするのだ。
従って、順位を掌握するだけでもかなり長い時間、アナウンサーの実況に耳を傾けなければならないのだ。

しかもアナウンサーの描写が貧弱で駅伝の中継なのか、旅番組の中継なのか、わかならなくなってしまうぐらいスポーツ中継としての臨場感に乏しいのだ。
襷渡しなど緊迫感さえないのだ。

箱根駅伝の場合、体力の200%を振り絞り次の走者に襷を渡し、その場に倒れ込むように力尽きる若者の姿が非常に感動的で印象的でもある。
ところがラジオでは、さっぱりわからない。
アナウンサーの実況でもそういう描写はほとんどない。

都内から、横浜、小田原、箱根まで。
走ってノホホン、旅番組。
みたいなのだ。

圧巻は5区の山登りで、今大会、あれだけのごぼう抜きが展開されていたのにも関わらず、ラジオではその力走とデッドヒートをちっとも感じることができなかったのだ。
もしかしたらNHKラジオのアナウンサーは感情のないバルカン星人だったのかもわからないが、もしそうだとしても地球の聴視者に対しては少しくらい力を込めてもよさそうなものだと思った。

なお、復路は観戦せずに終わってしまった。

ということで、来年はテレビで見よう。
箱根駅伝。

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