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今、東京電力の計画停電が話題になっている。
原発をはじめ多くの発電所がストップしてしまっための電力不足が原因だ。
たぶん、こういうことは戦中を除いて日本では恐らく無かった出来事なのに違いない。

数カ月前に読んだ「スマートグリッド」という新書の中で、先進諸国の中でも日本の停電率は群を抜いて低く、欧米先進諸国の平均が年間20秒程度なのに対し、日本はほんの0.数秒であるという驚くべき技術力が記されていた。
その文章を読んだ時、自分の国の知られざる技術力に「どんなもんじゃい」と思ったものだが、その日本で計画停電。

自然の猛威は人の叡智をはるかに超える恐ろしさを示したのであった。
しかし、この難局を乗り越えることができるも人の叡智であることに代わりはない。
停電制度はいつかは終わる。
それも何十年も先の話ではなく、多分、長くても1年ぐらいの話だろう。
それだけ日本では電気は通じ続けるのが当たり前の存在になっていたのだ。

とはいえ、昔はイレギュラーな停電を度々経験したものだ。それに、今でも海外へ出向くと停電が日常茶飯事の国は少なくない。

昭和40年代の終わりごろ。
初めて我が家にエアコンが入った。
室外機式のエアコンで、当時ではなかなかな性能であったと記憶している。
「ぐい~んぐい~ん」
という音が騒々しかったものの、当時は騒音でイライラするよりも、真夏に涼しい風にひたれるという快適さのほうが優先し、ちっともうるさいなどとは思わなかったものだ。

ところがこのエアコンにはひとつだけ大きな欠点があった。
昔のエアコンであるため電源が単相100Vである上に、消費電力が他の電気製品と比べると途方もなく大きかった。
このために度々家の分電盤のヒューズを飛ばしてしまうという困ったトラブルを引き起こしたのだ。

「あ~~~~涼しいな~~~~」

と油断をしていると、なんの拍子か突然家の中が真っ暗になり、エアコンもテレビも冷蔵庫も全部ストップしてしまうというトラブルに見舞われたのだ。
当時は分電盤にブレーカーなどという洒落たスイッチはついていなかったのでヒューズの取り替えが必要になった。
ヒューズは素人では交換が難しく、その都度関西電力に電話を入れて、修理に来てもらったのを鮮明に憶えている。

中学校に上がるころに、家に単相200Vの電源が引きこまれエアコンの電力が別系統になり、分電盤が最新のブレーカー設備に交換されたことなどから、ヒューズ「ポンッ!」による停電は起こらなくなった。
停電が起こらなくなって、それはそれで少々寂しい気もしたものだが、私も子供だったから停電を楽しんでたのだと、今になっては冷静に考えるたりもする。

今や日本で停電を経験することは殆どなくなったが、アジアの乏しい国々を旅行すると度々停電を経験し、それはそれで「旅の出来事」として面白いと思っている。
住んでいると大変だろうけど。

私が度々訪れるミャンマーも停電頻発国のひとつ。
停電どころか、電気の通じていない地域もあるぐらいで、非常に乏しいインフラなのだが、人々のメンタリティーが日本人にとてもよく似ていて明るく真面目なのが大いに気に入ってるところではある。

この国の電力は昭和40年代に日本が設置した発電所がメインになっているため、度々停電する。

ヤンゴンで一泊10ドルのホテルに宿泊したときは、その停電で度々目を覚まされ、熟睡できずに苦労した経験がある。

ホテルそのものは安全だったし、比較的清潔でもあった。
スタッフは愛想が良いし、食事も美味いので気に入っていたのだが、いかにせん、停電が頻繁に起こる。

夜、寝ようとしてエアコンを入れる。
しばらくするとブチッとすべての電源が切れて真っ暗になる。
当然、エアコンもストップする。
すると南国のこと、蒸し~とした生暖かい空気が部屋の中に漂い入ってきて、そのジメジメした暑さで眠れない、ということになる。
数分後、不意に電源が復活して電灯がつくが、エアコンはなかなか復活せず、時間がかかる。
やっとのことエアコンが息を吹き返し、涼しい風を送り始めると、またまた停電が発生する。
という、大変な状況の繰り返しなのだ。

ヤンゴンの繁華街を夜歩くときも懐中電灯は必携品で、突然街中が真っ暗になり歩くこともままならぬ状態になったりするので、懐中電灯を持っていないと、ボロボロの路面の道路に足を取られたり溝に落っこちたりしていしまう恐れもある。
幸い、ミャンマーは乏しく軍政というけったいな政府をいただいている、悲しい側面もあるのだが前述したように人々は仏教的な優しさでメンタリティーが高く、大変治安の良い国で犯罪にはとても巻き込まれにくい環境だが、それでも真っ暗になるのは気持ちの良いものではないのだ。

ヤンゴンから西に向かって飛行機で一時間半。
バングラデシュとの国境まで数百キロというところにシットウェーという大きな街がある。
かつてアキャブと呼ばれていた街で、有名な日本陸軍の加藤隼戦闘機隊の加藤隊長が戦死した街でもある。
日本に関係が深いところなのだ。
ここから船に乗ってさらに8時間から10時間かけて北にさかのぼるとミャウーという街がある。


(ミャンマーのミャウー。自動車の数は少なく、馬車が活躍。)

仏教の巨大な遺跡群が点在する街なのだが、いかにせん、行きたくても、とても行きにくい場所にあるために、あまり有名ではない。
しかし、その遺跡群を見たらあっと驚くことまちがいなしの遺跡の街。
そのうち有名になって世界中から多くの観光客が訪れることまちがいなしと思えるのだが、今はまだ年間にここを訪れる日本人は200人程度。
外国人をトータルしても非常に少なく、私が訪れたとき、この街にいる外国人はホテルの人の話によると私と国連の職員だけなのであった。

そんな街でも電気が通っていた。
人口1万人。
2階建て、3階建て程度のビルもあるし、学校も市場も当然あった。

午後2時にシットウェーを出発して到着したのが午後11時前。
川をさかのぼり日が沈んでからは真っ暗になったのだが、ミャウーの方向の空がうっすらと明るく、

「あ、あっちに街があるんですね」

とガイドさんや船頭のおじさんと話しをしていた。
もちろん船頭のおじさんはガイドさんと英語の話せる若い学生アルバイトの青年の通訳で話した。
すると午後10時になったとたん、そのうっすらとした明かりがバシッと消えたのだ。

「なんじゃあれ?」

町ごと停電した瞬間なのであった。

ミャウーは午後6時から午後10までだけ電気が通じていて、その間だけ街の上空に明かりが射しているというわけだった。

船がミャウーの港に着くと町の人々は停電した真っ暗な街中で、発電機を回したりろうそくやランプを灯して、しっかりと生活していたのであった。

計画停電の日本。
それも発電能力の復活するまでの短い期限付き。
ミャンマーやベトナム、ラオスでは今も電気の制約された多くの場所が存在し、それでも人々は力強く生活しているのだ。

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