tnlabo’s blog   「付加価値」概念を基本に経済、経営、労働、環境等についての論評

人間が住む地球環境を、より豊かでより快適なものにするために付加価値をどう創りどう使うか。

いじめ問題で不思議に思う事

2012年07月29日 22時48分02秒 | 教育
いじめ問題で不思議に思う事
 いじめ問題で学校に警察の手が入ることになりました。
 これやっといじめ問題に対する当局者たちの取組みの態度が変わるのであれば、良かった、本来なら、もっと早く変わるべきだった、と感じています。

 この事件をきっかけに、過去にも同じようなことがあったという事実が、あちこちで明らかになってきているようです。
 今回の事がなければ、そのまま闇に葬られていたのではないでしょうか。

 それにつけても今回の事件でもそうですが、最初は、学校サイドや教育委員会、地方自治体の発言は、おおむね『いじめとは認識していなかった』というものでした。
 今までもそうですが、大体、学校や教育当局側の発言は『いじめとは認識していなかった』「必ずしもいじめとは言えない」「単なる遊びの範囲だと認識していた」「いじめと遊びの区別は難しい」といったものが殆どだったように感じています。

 ほとんどのケースが、いわば異口同音にこうした発言で報じられて、「いじめと認識されずに」済まされてきているというこの同質性に、なんとなく不思議さと違和感を感じてしまうのは私だけでしょうか。まるでマニュアルでもあるかのように同じ発言です。

 先生方をはじめ教育に携わる方々は、少なくとも、社会学や、心理学、とくに発達心理学などには縁が深いはずです。多くの事例にも触れておられるでしょう。
 我々のようにそういう問題の素人でも、いじめの無い社会は理想郷のようなもので、人間集団がある限り、いつでもどこでもいじめは「あるのが当然」と思っています。

 企業社会にしてからが、セクハラ、パワハラがこれほど問題になっているのです。さらに言えば、恋愛問題でも、昔は振られれば諦めるのが普通でしたが、今は凄惨なストーカー事件が頻発するほど、自己抑制のできない人間が増えていると感じられる世の中です。
 いじめそのものが、昔よりエスカレートするのも当然かもしれません。

 にもかかわらず、先ず「いじめではないか?」と心配しなければならない学校で、「いじめとは認識していなかった」といった、我々の感覚からすれば白々しい発言がまかり通っていた背景は一体なんなのでしょうか。

 お願いしたいのは、学校サイドに、「いじめの無い方が不思議」ぐらいの認識を持って、周到にいじめ問題への対応をするという基本的視点を持ってもらうことです。