彦四郎の中国生活

中国滞在記

帰省記—8月上旬、南越前町大水害で家を流された友人の慰労飲み会を行う

2022-10-06 07:41:46 | 滞在記

 月に1度は福井県南越前町の実家に帰省しているが、この9月は大学の新学期授業への対応に追われ帰省ができなかった。8月中旬のお盆帰省以来となるが、10月2日(日)に久しぶりに帰省をした。今回の帰省の大きな目的は、この8月上旬に起きた「南越前町大水害」で、濁流にのまれて家が流された友人・松本君の慰労会を行うことだった。

 中国では、10月1日(土)から7日(金)までの1週間は、国慶節のために祝日休暇となっている。8日(土)・9日(日)を入れると9日間もの休日となる。(中国のゴールデンウイーク)  だが、大学の授業休校日は、10月3日(月)だけとなった。これは、おそらく、中国の大学の多くがとった措置かと思われる。全国各地に故郷をもつ学生たちを、「中国ゼロコロナ政策」の下、故郷に帰らせないための措置かとも思われる。

 10月2日(日)、京都から滋賀県の湖西道路を福井県に向かって車を走らせる。福井県との県境にある滋賀県高島市の山間地、在原集落に着く。コスモスの花、集落はずれの六地蔵、そして、一面のススキの野原の季節。

 福井県敦賀に到着し、南越前町の実家に立ち寄り、母に道の駅で買ったお弁当や、妻がつくったパンなどを渡す。そして、今晩、慰労会をする越前市(武生)に向かう。実家の家から武生に向かう道はたくさんあるが、今回は久しぶりに旧「府中馬借街道」あたりの道を通ることにした。越前市の中津原集落は、いたるところ、今が盛りのコスモスが美しい。

 史跡「府中馬借街道」の説明看板がある。越前府中とは、武生の旧称。この街道は、府中から日本海に面した河野浦までの約15kmの街道。北陸道越前府中から近江(滋賀)や畿内の京都・大阪に通じる道として、木ノ芽峠越えと栃ノ木峠越えがあるが、いずれも南条山塊の険しい山々や峠を越えなければならない。

 しかし、越前府中から西に向かうこの府中馬借街道を利用して河野浦に至り、そこから船で敦賀に至る「海上七里」のコースをとれば、多くの物資を運ぶ際、険しく高地の峠越えの南条山塊の苦労をしなくてもすむ。このため、河野浦が北前船で栄えた江戸時代から明治時代初期をピークとして、この府中馬借街道は重要な街道として、人馬の往来で賑わった。この15km余りの街道には2箇所の宿場もあった。そんな歴史のある山間の旧街道跡の道が今も残る。

 この夜は慰労会で酒を飲むので、JR武生駅前のビジネスホテルで一泊をすることにしたので、ホテルに午後5時半頃にチェックイン。午後6時に、駅前の居酒屋「魚民」に行く。すでに、友人の山本君は来ていた。そして、この度の水害で家が濁流に流され、救護ヘリコプター🚁で家族とともに避難した松本君とも合流、「魚民」で2時間あまりを過ごした。

 越前市(武生)の「魚民」には、「ウクライナ緊急募金」の募金箱が置かれていた。おそらく、全国チェーン展開している「魚民」のどの店にもこのような募金箱が置かれているのだろう。募金箱の横には、「ウクライナ緊急募金、現在1290万円の寄付額に」と書かれた紙が貼られていた。「魚民」を出て、越前市内の、駅前の近くにあるフィリピンパブに入り、歌を歌い、酒を飲み、松本君を慰労した。11時頃にホテルに戻る。

 避難後、越前市内にある松本君の娘の家に一家全員(6人)が暮らし始めて2カ月間が経過した。この夜の松本君の話では、「わしは、町のもん(者)ではなく、山のもんなんでえ、いずれはぁ、わし一人でもを、山に暮らしたいと思っているんゃぁ」とのこと。彼の仕事は、渓流荘という、渓流釣りや渓流料理を食べさせる店をしているかたわら、銃やワナで熊やイノシシや鹿を獲る猟師でもあった。ポツンと一軒家のような家で、そんな暮らしを20代後半から40年以上にわたってしている人間だった。

 今回の、1日の降水量が600ミリ近くの集中豪雨で、三棟あった建物のうち、二階建ての母屋やバンガローは激流に流された。だが、渓流・狩猟料理を出す平屋の店のある棟だけは流されずに残っている。

 もよりの20人ほどが暮らす河内集落からこの渓流荘に至るまでの河野川沿いの道は、洪水で何箇所か削られ陥没、電信柱も数箇所倒れ、渓流荘までは電気が通らなくなっている。なんとか、今後、行政にかけあって、電気が通るようにしたいと話す。激流で陥没してなくなった2箇所の道には、今、ようやく仮歩道が架けられ、車で渓流荘まで通えるようになったという。2〜3日に一度は、ここに来て、犬に食べ物を与えている日々でもあるようだ。

 翌日10月3日(月)、越前市から故郷の南越前町の南条地区や今庄地区を通って敦賀方面に向かう。南条地区は、今回の水害の被害は少なく、水田の稲狩りが終っていた。だが、今庄地区に至ると、2カ月前の大水害の爪痕(つめあと)が今も残っている。一級河川の日野川やその支流の多くは、今も茶色く濁る。濁流に浸かった水田の稲は、なぎ倒れたまま残る。いまだ、通行止めの道路もあるし、滋賀県に通じる国道365号線の栃ノ木峠越えのルートも通行止めが続く。

 敦賀から滋賀県に入り、今回は京都までの帰路、安曇川沿いの鯖街道(国道367号線)をとることにした。高島市朽木町から支道に入りしばらく行くと、椋川という集落が見えてきた。初めて来るところだった。りっぱな藁ぶきの家があったので、立ち寄ってみると、「高島市都市農村交流施設—おっきん椋川交流館」と書かれていた。建物の中に入ると、大きな囲炉裏と土釜が見える。庭先にはコスモスと女郎花(おみなえし)の黄色い花。裏山には彼岸花。

 二階、三階へと上がらせてもらった。この10月1日・2日には、第27回棚田全国サミットが滋賀県高島市で開催されていたようで、この椋川の交流館も会場の一つとなっていたようだ。

 翌日10月4日(火)の夜、東京に暮らす中国人の陳佳秀さんが京都にやってきて、妻と共に、四条大橋近くの鴨川納涼床で再会の乾杯をした。鴨川向こうの京都南座や菊水ビルの夜景がきれいだった。