彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都「法然院」の墓地―河上肇・谷崎潤一郎・九鬼周造・内藤湖南

2017-09-16 15:21:57 | 滞在記

 8月30日(水)の夕方、福井県から奥琵琶湖を経て、湖西道路を琵琶湖沿いに南下。そして、比叡山の峠を越えて京都市の銀閣寺近くに山を下った。銀閣寺近くの「哲学の道」沿いにある「法然院」に行った。9月中旬から始まる大学での「日本文化論名編選読」の授業において、「日本人の美意識」に関することで、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃(いんえいれいさん)』と九鬼周造の『「いき」の構造』(「いき➡粋」)を取り上げる。このため、資料作りとして、この法然院にある彼らの墓の写真を撮影するためだった。

 この法然院は、鎌倉時代の初頭、浄土宗の開祖「法然(ほうねん)」の念仏草庵があった場所だった。学生時代はこの近くに住んでいたので、たびたび散歩にきていた寺だった。そのころは、よくマルクス経済学者で京都帝国大学教授だった河上肇の墓に参っていた。法然院の山門は大きな庵という感じの山荘的な門である。

 河上肇と夫人の墓の横には、「門下生一同」と記された大きな石碑もあった。河上肇は日本のマルクス主義経済学者の祖といっても過言ではない人だ。京都帝国大学教授として、多くの人に影響を与えた人で、中国の周恩来なども影響を受けている。代表的な著書として『貧乏物語』がある。

 谷崎潤一郎の墓に行く。墓には桜の木が一本立っている。2つの小さな墓石には、「寂」と「空」という文字が刻まれている。もし、谷崎があと2年間ほど長生きしていたら、ノーベル文学賞は川端康成ではなく谷崎潤一郎になっていた可能性が大きい。『春琴抄』や『刺青』などの名作が多い。日本人の美意識というものに関する『陰翳礼讃』は名著だと思う。

 九鬼周造の墓に行く。九鬼は京都帝国大学の教授として哲学・美学・芸術学などを論じていた人で、『「いき」の構造』という著作が有名である。「いき」を漢字で書くと「粋」。日本人の美意識とかっこよさというものに関する名著だである。

 内藤湖南とその夫人の墓に行く。内藤湖南は、戦前の有名な「東洋史学者」である。京都帝国大学で教鞭をとっていた。中国の歴史の専門家であり、日本史にも造詣が深い。1910年におきた、邪馬台国論争は有名である。当時、東京帝国大学教授だった白鳥庫吉との論争で、白鳥は九州説、内藤は畿内説をそれぞれ主張し論争となった。

 中国で1911年に孫文率いる「辛亥革命(しんがいかくめい)」が起こり清朝政府が倒れるが、この辛亥革命を軍事力で押さえつけた袁世凱(えんせいがい)を強く批判し、「中国では立憲君主制や共和制というものの成立は歴史的になかなか成立が難しい国である」との論評を当時発表していた。この指摘は現代でも的を得ているところがあり、中国では現在でも、「立憲君主制(※日本に於いては明治・大正・昭和全期―日本帝国憲法)」や「共和制(かってのフランスのような)」を経ることなく、中国共産党一党支配の政治が続いている。著書に『支那論(しなろん)』などがある。

 法然院近くにある娘の家に立ち寄る。孫娘の「栞(しおり)」は 可愛らしい顔で眠っていた。

 

 

 

 

 

 


かっての琵琶湖水運の基地・奥琵琶湖と丸子船

2017-09-16 09:18:50 | 滞在記

 奥琵琶湖の大浦港には「丸子船の館」という小さな博物館があった。現存する2隻の丸子船のうちの1隻がここに展示されていた。丸子船というのは、かって琵琶湖水運に活躍した船型の名前である。最盛期の江戸時代中期には1000艘を超える丸子船があったようだ。

 この丸子船は、船の大きさによって違うが、平均最大積載量は「米俵だと250俵」ぐらい。帆を上げて、主に風の力によって船を動かしていたようだ。向かう方向にうまく風が吹かなければ、「風待ち」をして風が吹くのを待ったりしたと説明されている。さまざまな物資が運ばれたが、嫁入りの花嫁さんもこの船に乗って嫁いだりもしたようだ。

 江戸時代を最盛期としたこの琵琶湖水運は、明治の時代を経て大正時代や昭和時代の初頭まで続いたようだ。江戸時代の海運は、日本海と瀬戸内海を航行する「西廻り航路」と太平洋を航行する「東廻り航路」があった。西廻り航路は、例えば北海道や日本海側の東北諸藩、北陸諸藩の物資を大阪まで運ぼうとすると、日本海を航行し下関の馬関海峡を通り、瀬戸内海を航行して大阪まで至る。かなりの距離を航行しなければならない。

 そこで、越前の敦賀で荷を船からおろし、陸路で越前と近江の境の「深坂峠」を越えて奥琵琶湖の浜の港まで運び、琵琶湖水運を使い京都や大阪に物資や人を運ぶというものであった。敦賀から運河(川)を利用し疋田まで至る。そして疋田から深坂峠を越えて、①塩津港に至るルート②大浦港に至るルート③海津港に至るルートがあった。この中で、①の塩津港に至るルートが最短距離であったため、この港が最も大規模な港であった。

 運ばれたものは、魚や昆布などの海産物、米や紅花、漆器、反物(布)や着物など、様々な物資だった。琵琶湖には、主な港が10か所あまり(塩津・大浦・海津・今津・長浜・米原・近江八幡・堅田・大津)あった。最盛期の江戸時代中期は1200艘の丸子船が存在し、その多くが奥琵琶湖の港船籍の船だった。

 かって、私の祖父が神戸にある「剣菱酒造」に半年間、酒造りの仕事に行く時には、福井県から、この琵琶湖水運の船に乗って大津や京都を経て、神戸に行っていたようだ。

 「丸子船の館」という小さな博物館には、年配の女性が一人でこの館を運営していた。入館者がおそらくとても少ない博物館だと思うが、熱心に対応してくれた。なかなかいい博物館だった。

 

 

 


奥琵琶湖(塩津浜・大浦浜・海津浜)

2017-09-16 05:59:50 | 滞在記

 8月30日(水)の午後、故郷の福井県から京都に戻るため、今回は奥琵琶湖を経由していくことにした。奥琵琶湖には「塩津浜」「大浦浜」「海津浜」の3つの漁港があるが、真ん中にある「大津浜」は初めていく場所だった。敦賀市内から国道8号線沿いに疋田の集落の近くを走り「深坂峠」を越えて滋賀県に入る。よく通る「木ノ本町方面」には行かず、高島市の方面の道をとる。そして、大浦浜に向かった。

 琵琶湖の湾が見えてきた。大浦集落(大浦浜)の入り口には、「丸子船の郷」と石灯籠に記されていた。その横に神社の狛犬が2体ある。ここは神社のようだが建物がない。御神体のような大きな石だけがが置かれていた。その石の後方はすぐに琵琶湖の水辺。このような神社は初めて見た。

 大浦浜の集落に入ると「小さな港」が見えてきて、船が係留されている。二本松浜という湖岸に向けて車を走らせた。けっこう大きな桜並木が湖岸沿いに延々と続く。「竹生島(ちくぶじま)」が見えてきた。

 二本松の浜に下りてみた。綺麗な水だ。大きなクルミの木の大木があり実がなっている。あと1か月ほどで食べられそうだ。琵琶湖の「えり漁」という小型の定置網が見える。琵琶湖の小鮎(あゆ)や鮒(ふな)などが獲れるのだろうか。

 奥琵琶湖の湖岸には、何キロもの桜並木が延々と続く。春にはさぞかし見事な景色となるだろうな。これだけ風情の感じられる桜並木は、ここ琵琶湖沿岸ではここが最もすばらしいだろうな。一度春の季節に来てみたいと思った。海津の浜に着く。湖岸の波を防ぐための石垣が造られている家屋が見られた。