8月30日(水)の夕方、福井県から奥琵琶湖を経て、湖西道路を琵琶湖沿いに南下。そして、比叡山の峠を越えて京都市の銀閣寺近くに山を下った。銀閣寺近くの「哲学の道」沿いにある「法然院」に行った。9月中旬から始まる大学での「日本文化論名編選読」の授業において、「日本人の美意識」に関することで、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃(いんえいれいさん)』と九鬼周造の『「いき」の構造』(「いき➡粋」)を取り上げる。このため、資料作りとして、この法然院にある彼らの墓の写真を撮影するためだった。
この法然院は、鎌倉時代の初頭、浄土宗の開祖「法然(ほうねん)」の念仏草庵があった場所だった。学生時代はこの近くに住んでいたので、たびたび散歩にきていた寺だった。そのころは、よくマルクス経済学者で京都帝国大学教授だった河上肇の墓に参っていた。法然院の山門は大きな庵という感じの山荘的な門である。
河上肇と夫人の墓の横には、「門下生一同」と記された大きな石碑もあった。河上肇は日本のマルクス主義経済学者の祖といっても過言ではない人だ。京都帝国大学教授として、多くの人に影響を与えた人で、中国の周恩来なども影響を受けている。代表的な著書として『貧乏物語』がある。
谷崎潤一郎の墓に行く。墓には桜の木が一本立っている。2つの小さな墓石には、「寂」と「空」という文字が刻まれている。もし、谷崎があと2年間ほど長生きしていたら、ノーベル文学賞は川端康成ではなく谷崎潤一郎になっていた可能性が大きい。『春琴抄』や『刺青』などの名作が多い。日本人の美意識というものに関する『陰翳礼讃』は名著だと思う。
九鬼周造の墓に行く。九鬼は京都帝国大学の教授として哲学・美学・芸術学などを論じていた人で、『「いき」の構造』という著作が有名である。「いき」を漢字で書くと「粋」。日本人の美意識とかっこよさというものに関する名著だである。
内藤湖南とその夫人の墓に行く。内藤湖南は、戦前の有名な「東洋史学者」である。京都帝国大学で教鞭をとっていた。中国の歴史の専門家であり、日本史にも造詣が深い。1910年におきた、邪馬台国論争は有名である。当時、東京帝国大学教授だった白鳥庫吉との論争で、白鳥は九州説、内藤は畿内説をそれぞれ主張し論争となった。
中国で1911年に孫文率いる「辛亥革命(しんがいかくめい)」が起こり清朝政府が倒れるが、この辛亥革命を軍事力で押さえつけた袁世凱(えんせいがい)を強く批判し、「中国では立憲君主制や共和制というものの成立は歴史的になかなか成立が難しい国である」との論評を当時発表していた。この指摘は現代でも的を得ているところがあり、中国では現在でも、「立憲君主制(※日本に於いては明治・大正・昭和全期―日本帝国憲法)」や「共和制(かってのフランスのような)」を経ることなく、中国共産党一党支配の政治が続いている。著書に『支那論(しなろん)』などがある。
法然院近くにある娘の家に立ち寄る。孫娘の「栞(しおり)」は 可愛らしい顔で眠っていた。