彦四郎の中国生活

中国滞在記

京都五花街の一つ、「宮川町」を歩く―日本人の美意識「光と影のコントラスト」について

2017-09-02 15:30:40 | 滞在記

 京都には「五花街」(ごかがい)といわれる場所が五つある。「祇園甲部」「祇園乙部」「先斗町」「北野白梅町」、そして「宮川町」である。祇園地区の南に位置する「宮川町」の花街の通りを20数年ぶりに歩いてみた。「六道の辻」の帰り道である。宮川町の花街通りには、舞妓さんや芸妓さんが在籍している「置屋」、「茶屋」などが立ち並んでいた。この路地を歩く舞妓さんの歩く姿も見えた。「宮川町歌舞練場」があり、毎年「宮川町踊り」が上演される。

 宮川町から建仁寺わきを通り、祇園歌舞練場へ細い路地をぬけると、「花見小路」通りの石畳道が見える。外国からの観光客がこの日もここは多かった。最近では、中華圏からの観光客で、若い人だけでなく子供も浴衣姿をすることが珍しくなくなっている。母と娘がそろって浴衣を着て歩く姿である。さすがにお父さんの和服・浴衣姿はあまりない。

 この花見小路通りのある店内に立ち寄ったら「大型写真の展示」がされていた。若い女性写真家の作品であった。大学で「日本文化論」を講義する際に、「日本人と中国人の美意識の共通点と違い」について1コマ話す予定をしている。授業では、谷崎潤一郎の評論『陰翳礼讃(いんえいれいさん)』と九鬼周造の『いきの構造』(粋―いき)をテキストとして使用する予定だ。

 この谷崎の評論では、「日本人の美意識の根底」として「光と影」の世界について語っている。つまり、日本人の美意識には影の要素がとても強いということを述べている。これは生活のあらゆる面で見られるという。明るいばかりでは美意識というものや安らぎというものを感じないと述べている。この見方に私も同じ思いを持っている。女性写真家の舞妓の写真を見て美しいと思った。写真に「影と光」の要素がふんだんに取り入れられているからでもあると感じた。この写真も教材に使用しようと思って写真を撮影させてもらった。

 この花見小路通りに、よく行く「やげんぼり・花見小路店」がある。日本料理の店だ。ここの和式トイレ(雪隠せっちん)がなかなかいい。ここも光と影の「日本人の美意識」が感じられる町屋便所である。このトイレの写真を授業教材として使いたくて、写真を撮りにいった。店の板前さんとは顔なじみなので、快く撮影させてくれた。谷崎の評論にもこの「和式便所」が日本人の美意識の例として挙げられている。本文を学生に読ませながら、関連する映像を映しながら、文章の具体的な理解を少しでも図りたい。

 祇園の四条通りに出ると「茶道具店」があったので入ってみた。「お稽古、始めませんか―表千家流・裏千家流―茶道教室」というなかなかいいポスターがあった。このポスターのアニメ絵も、光と影の効果・美しさを意識して描かれたものだ。近くに、京都式まっさーじ「内臓参り」という看板の店があった。「----参り」とは京都ならではの表現だと感じる。

 鴨川にかかる「四条大橋」を渡って、四条河原町に行く。河原町通りを丸善書店に向かって歩いて行くと、たくさんの人が並んでいた。20人〜30人ほどは並んでいるだろうか。「抹茶館」という店に入るための順番待ちをしている若い人たちだった。

 丸善書店にて1時間あまりを過ごす。書店を出ると外はもう暗くなっていた。自宅に帰るために三条大橋に行くと、橋のたもとで「ギターとバイオリン」の二重奏を、若い男と女が演奏していた。彼らの後ろには「東海道五十三次」の碑や「やじさん きたさん(東海道中膝栗毛)」の像が。伝統の中にも新しさや斬新さがよく調和している京都の街の風景だ。

 

 

 


「創業200年以上の世界の老舗」の53%は日本にある―老舗店舗「菱六もやしK・K」

2017-09-02 13:41:42 | 滞在記

 京都の「六道の辻」にある「幽霊子育飴本舗」の隣には、どこかで聞いたような名前の店舗があった。「菱六もやし」という会社店舗。「ああ!私が以前に蔵人として働いたことがある酒造会社・剣菱酒造(灘)での酒造りに使っていた麹菌(こうじきん)製造販売の会社の名前だ!!」 父も祖父もこの「剣菱酒造」に長年、杜氏(工場長)として働いていたので、福井県の実家には毎年、「菱六もやし」から年賀状も届いていた。

 昔、「もやし」と言われていた「種麹(たねこうじ)」。酒(清酒・焼酎)、味噌、醤油、味醂(みりん)、そしてお酢を作るときに使われる。米などの発酵を促す菌である。清酒造りの場合は、蒸した酒米を「室(むろ)」と呼ばれる部屋に運び、ここで「米麹菌」を満遍なく小さな器具を使って上からふりかける。そうすると、菌が成長し発酵が始まる。それを地下からくみ上げた良水が入った大きなタンクや桶にいれると、水中で発酵が進み1カ月間ほどで酒になる。これを絞って清酒が出来上がる。この種麹の菌は、萌えるように成長する菌を扱うさまが「もやし屋さん」と呼ばれてきた由縁だという。写真をみたら植物のもやしのように成長が早く、もやしのように細長く生育するので「もやし」と言われていたことがよくわかる。

 菱六もやしの若社長(40才前ぐらい)は、早稲田大学卒業後に東京農業大学で醸造学を学んで、今 この会社(老舗)を継いでいるようだ。従業員は15〜16名。このような「もやし屋」さんの会社・店舗は、現在日本に13〜14社ぐらいだという。食品業界にはなくてはならない「種麹」だが、それぞれの食品会社が独自に「麹菌」を造り始めた関係で、「もやし屋さん」が減少してきたのだという。創業は1600年代半ばころで、創業350年以上の老舗である。

 ちなみに、剣菱酒造は日本で3番目に長い歴史をもち、創業は1505年の室町時代である。日本における和菓子屋さんで最も歴史が長い老舗は、京都市北区の「今宮神社」参道にある「一文字屋和舖(一和)」―あぶり餅の店―で西暦1000年の創業といわれている。

 日本には100年以上の歴史を持つ老舗企業は決して珍しい存在ではなく、一部統計によれば日本には2万社以上も存在すると言われる。創業300年や400年以上の会社や店も少なくなく、世界最古の企業として知られる「金剛組(宮大工・建築会社)」の創業は578年と飛鳥時代までさかのぼり現在に至っている。

 世界的にみると、創業200年以上の企業や店舗などは41か国に5600社あまりある。このうち半数以上の53%(3146社)が日本に存在する。国別の内訳は次の通りである。上記の円グラフ「Where  are  the  Worlds  Oldest  Businesses ?」

 1、日本(53%)   2、ドイツ(19%)    3、オーストリア(4%)   4、スイス(4%)  5、イギリス(4%)  6、フランス(3%)   7、イタリア(3%)  8、オランダ(2%)    9、中国(1%)   10、アメリカ(1%)   その他(5%)  ※韓国は1社もなし。

 日本では、滋賀県の近江商人の「三方よし」、「売る人良し、買う人良し、世間良し」の三方よしの言葉がある。誠実に商売を重ねていき質の良いものを商いするというという伝統が今も息づいている社会でもある。このような国とは世界的にみてもまれなのかもしれない。私が今 赴任している中国は4000年の悠久の歴史を持つとされる国だが、200年以上の歴史を持つ企業・店舗は数社しか存在していない。1538年創業の「漬物屋・六必堂」、1663年頃創業の「ハサミメーカー・張小泉」「漢方薬局・陳李済」「漢方薬局・同仁堂」「飲料メーカー・王老吉(この飲料水は全国的に売られていて、中国の人も好きな人が多い)」の5社・店舗だけである。

 中国には創業100年以上の歴史を持つ老舗企業も非常に少なく(※日本は2万社以上・店舗、韓国は2社・店舗)、ある程度の規模の企業・店舗であっても平均寿命は7〜8年で、中小企業・店舗の平均寿命は3年未満だとされている。これについて、中国メディアは「日本に老舗企業が数多く存在し、中国には非常に少ない理由について」分析する文章を掲載した。

 記事は、日本と中国で老舗企業の数に差が生ずるのは6つの原因によるものだと主張。1つ目は「本業への専念」だ。例えば、日本の老舗企業は自社の事業に特化し、それに専念し続けているが、中国では儲かる業界(主に不動産と金融)に手を出す企業があまりに多く、これが廃業の要因となっていると指摘している。

 2つ目は「質の追求」だ。日本企業は品質を極めるべく努力するが、発展スピードの速い中国では、企業は追い越されまいとスピードばかりを重視し、質が伴わないとしている。質が伴わなければ会社が続かないのは当然だろうと指摘。

 3つ目は「信用」だ。企業にとって信用や誠実さが重要なのは言うまでもないが、中国企業には信用を大事にするという考えはほとんどないと指摘している。4つ目は「核となる競争力」だが、中国企業は往々にして研究開発を怠り、価格競争によって自滅しやすいと指摘する。5つ目は「人材の発掘」だ。中国では「富は3代続かず」ということわさ通り、世襲制で失敗することが多く、日本は才能と徳の両面を備えているふさわしい者を跡継ぎにしている、と長寿の秘訣を指摘した。6つ目は「慎重な資産運用」で、老舗企業のほとんどが上場していないことも日本らしいと論じている。

◆ 近年、中国ではインターネット関連の企業に活力がある。若い人の起業もとても多い。しかし、多くの企業に上記の特徴が見られることはゆがめない。悠久の歴史を持つ中国よりも、日本の老舗企業が圧倒的に多いというのは、大いに日本の誇るべきことだと思う。私は、上記の6つの点に加えて、次の3点も要因としてはあるのではないかと思っている。

 1、中国の長い歴史は近年まで「大量虐殺と収奪の歴史」であったという点だ。商売などで大いに財をなした企業や店舗に対して、その地方の役人が 「あることないことの罪をでっちあげて、財を収奪する」ということの繰り返しが歴史的におこなわれてきたということだ。これでは、ブルジョアジー階級は成立せず、老舗というものも成立しにくくなる。

 2、1960年代を中心とした権力闘争である「文化大革命」によって、さまざまな伝統文化を含めて、伝統的な老舗の多くも閉店したと思われる。

 3、現在の大学を卒業した若者もそうだが、就職をしてもより条件のいい会社・企業に2〜3年で転職をする者が非常に多い。会社や自社の製品などに愛着を持ち、販売や商品開発をしようとする者はまれな社会である。

◆中国の福州市(人口約700万人)という地方の大都市に暮らしていて思うことの一つだが、「新しくできた店が半年ぐらいで閉店する」ことはざらである。例えば、10店舗が立ち並んでいるとすると、そのうち3店舗ぐらいは 1〜2年間で違う店になっている場合が多い中国社会でもある。日本では、市内の商店街が「シャッター商店街」となっている現状があるが、少しでも生活できる収入があれば店を続けたいと思う人も多いかもしれない。しかし、中国では「あまり儲からない」と判断すれば すぐに閉店して新しい商売をはじめようとする傾向が日本より数段も数段も強いように思われる。

 

 

 

 

 


六道の辻❷あの世とこの世との境目の—死者と最後のお別れ、そして霊を迎える地

2017-09-02 08:58:45 | 滞在記

◆前号で「幽霊子育飴」のことを紹介したが、幽霊飴伝説がおきた1600年初め当時の飴は「箸に巻いた水飴」であったようだ。水飴であれば、生まれて間もない乳飲み子も舐めることができたかもしれない。この「幽霊子育飴」の1袋500円のものを2袋買ったが、1袋には30個ほどが入っていた。中国の閩江大学4回生たち40人ほどの土産物としても購入した。「日本文化論」の授業の1コマとして、「日本の闇文化―日中比較、霊・妖怪・呪術の世界」を扱う予定だ。この「幽霊子育飴伝説」も紹介したいと思っている。

 六道の辻の「飴屋」の近くに「六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)」という寺がある。平安時代初めの延暦年間(782〜806)に創建された。平安京成立と同時に創建された寺である。境内は冥界への出入り口と考えられていた。平安京に住む人々は古くから、都の碁盤の目の外に異界があると考えていたという。碁盤の目の街中から鴨川を渡り、松原通りを東へ。清水寺方面にゆるやかに上がるこの道は、都の葬送地「鳥辺野(とりべの)」へと続いていた。

 途中、あの世とこの世の境目は、"六道の辻"と呼ばれ、ここに六道珍皇寺が立つ。「死者と最後のお別れ、野辺の送りをしたのがこのお寺。この世の最終地点」の場所であった。清水寺に隣接する南側の「鳥辺野山」の山麓から中腹にかけて、現在もとても広くて大きな墓地が見られる。

 小さな寺の境内に入って行くと、右手に「お堂」が見えた。ここに「閻魔大王座像」が置かれていた。年に数回ある公開日以外は、お堂の中を覗ける小さな穴からその像を見ることができる。堂内には、小野篁(おののたかむら)の像も見えた。この小野篁は、あの有名な小野小町の祖父にあたる人だ。篁は平安時代前期の文人官僚で、冥界に行く神通力をもっていたと言われている人である。

 境内に残る井戸から夜ごと冥途へ通い、亡者(もうじゃ)の罪を軽くすべく、閻魔庁の冥官として働いたとも伝わる。冥界への入り口はすなわち出口でもある。京都のお盆は、迎え鐘を鳴らし先祖の霊を迎える「六道まいり」から始まり、有名な「五山の送り火」に終わる。「京都の人々は、生活の延長線上にご先祖が眠る場所がある」と認識してきたようで、「来世はそんなに遠い所ではない」と思われてきたふしがある。8月7日から10日の「六道まいり」には、10万人もの人この寺を訪れるという。水木しげるさんも、「地獄絵」なるものを描いている。(左から5・6番目の絵)

 ここ六道の辻には、「六波羅蜜寺」もある。平安時代の951年、時の天皇の第二皇子として生まれた「空也上人」の有名な木像や「平清盛」の座像などがある寺である。平安時代末期の「平氏政権」時代には、ここに平家一門の邸宅が立ち並び、政務の中心地であった。「平家でないもの人にあらず」と権勢をふるったが、「おごれるもの久しからずや」となる。「六波羅」とは「六原」(六道の原っぱ)から由来している言葉のようだ。現在もこのあたりは「六原」とも呼ばれている。

 むかしはこの辻には「六つのお堂」があったのだが、現在は3つが残されている。そのうちの一つが「子育て地蔵・六原地蔵」が祀られている「弘法大師」ゆかりの「西福寺」という小さな寺であった。

 

 

 


六道の辻❶「幽霊子育飴」伝説の店―ゲゲゲの鬼太郎誕生の元になった伝説

2017-09-02 07:17:52 | 滞在記

 8月24日(木)午後、この日も京都の気温は35度近い。三条大橋のたもとに凉を求めに下りてみる。気温は高いが「涼しい京都」がたくさんある街だ。鴨川・高野川・白川・堀川・桂川・高瀬川などなど、「山紫水明」のこの街は、気温が高くても涼しくも感じる。視覚的に涼しい町だと思う。

 古都・京都には「魔界・冥界の京都」といわれるくらい、心霊的に涼しくなる場所も多い。この日、初めて行く場所「六道の辻」もそんな場所の一つだ。ちなみに「六道」とは、人間の生前の行いによって導かれる冥界とされ、「天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄」のことである。「六道の辻」は、東山の五条通りと四条通りの中ほどにあり、清水寺や建仁寺や祇園、八坂の五重の塔にもほど近いところにある。

 六道の辻という場所に着いた。この辻に一軒の小さな「飴屋」があった。京名物「みなとや幽霊子育飴本舗」―500年以上続く"命をつないだ母の愛情の飴"。毎晩のように女幽霊が現れ、飴を買いに来ていたと言われる飴屋である。その現象は1599年に始まり、2017年となった今も伝説として語り継がれており、女幽霊が買っていた飴も購入することができる。

 ―幽霊飴伝説―

1、 六道の辻に一軒の飴屋があった。ある夜、表の戸を叩く音で出てみると、白い着物を着た青白い顔をした女の人が一人。「えらい夜分にすみませんが、飴を一つ売っていただけませんか」と一文銭を出して言う。次の日もまたその次の日も、同じように一文銭を出して買っていく。それが六日間続く。

 「あれは、ただもんではない。明日に銭を持ってきたら人間やけど、銭を持ってこなんだら人間やないで」「なんでですねん」「人間、死ぬときには、銭を六文、棺桶に入れるんや。それを持ってきたんやないかと思う」

 七日目、女はやはりやって来るが、銭を入れる箱に入っていたのは樒(しきび)の葉であった。「これは幽霊だ」と確信した飴屋の主人は、恐る恐る女の後をつけていくと、清水寺近くの大きな墓地「鳥の辺」に入って行く。その墓地のあたりで、女はすっと姿を消した。翌日に、このことを寺の住職に話をし、鳥の辺の墓地にいってみると、ある新しいお墓の下、土中から赤子のかすかな泣き声が聞こえる。その墓は身ごもったままで亡くなった女性の墓だった。急いで墓を掘り出したところ、驚くべきことに生きている赤子がでてきたではないか。亡くなった母が幽霊となり、誕生した我が子のために毎夜飴を買いにきていたことが判明する。その後、この赤子は8才まで「飴屋」で育てられ、後に僧侶になったとも伝えられている。

2、 店頭の貼り紙には「死してなお我が子を思う母の愛情の表れとして400年以上も語り継がれている」と書かれていた。怖い話でもあるし、悲しい話でもあるが、母親の強さを感じることができる伝説ともいえる。しかし、この話、どこかで聞いたことはないだろうか?似たような話に覚えはないだろうか? 

 そう、水木しげるさんの「ゲゲゲの鬼太郎」の鬼太郎誕生の物語と似ているのである。それもそのはず、水木さんは、この「幽霊飴伝説」をもとにして「鬼太郎誕生」の物語を創作したと伝えられている。この鬼太郎誕生秘話は、中国のインターネットサイトでも紹介されていた。

 店内に入ると、優しい感じの女性(おばさん)が接客してくれた。なんとこの女性、創業から20代目なのだという。ということは、御先祖さまは女幽霊に出会った人ってこと!?そう考えるとすごい。店の奥にある座敷の部屋には若い女性の姿もあった。「あの子は21代目になる私の娘です」と話してくれた。小さな店内では、いろいろなものが掲示されていた。「命をつないだ子育飴」「みずきしげるさんのゲゲゲの鬼太郎の元になった飴です」、朝日新聞のコラム記事、尾上松也(歌舞伎役者・NHK大河ドラマで現在・今川義真役)のサイン色紙など---。江戸時代の当時からこの店で使われていた、「銭(お勘定)を入れる木箱」や「水あめを入れる小さな桶箱」などの写真もあった。

 この伝承から、いつしか「幽霊子育飴」と呼ばれるようになって、400年以上も京都の人々に親しまれているという。遠くからは妊娠中の女性や、授乳中の女性が買い求めに来ることもあるそうだ。私も、500円のものを二袋購入して食べてみた。材料は、麦芽糖とザラメ糖のみで至ってシンプル。味は黄金糖のようだが、もう少し素朴で、懐かしい感じがして親しみやすい味。後味はさっぱりしていて、普段食べる飴としてあったらいいなあと思った。何個舐めても飽きないので、気が付けば3つ、5つ、8つとドンドン食べてしまっている。飽きないからちょっと危険なヤバい飴だ。