彦四郎の中国生活

中国滞在記

中国に再赴任するまでの1週間

2017-09-17 10:34:04 | 滞在記

 近年、近所の庭先や塀によく見られるようになったオレンジ色の花。亜熱帯地方の植物のようだが何という名前の花なのだろうか。中国に再赴任をする9月8日まで、1週間あまりに迫ってきた8月31日(木)の夜、来年6月にロシアで行われる、サッカーWカップ・アジア地区最終予選「日本×オーストラリア」の試合をかたずを飲んで視聴していた。

 2:0という快勝。ワールドカップ出場が決まった瞬間だった。関東地方に住んでいたら、おそらくスタジアムに観戦しに行っていて歓声をあげていただろう。2014年6月の前回ブラジル大会は、中国に赴任中で日本のテレビが見れなくて残念な思いをしていたことを思い出す。来年6月は見ることができるかもしれない。そのころは、日本への帰国が近づき、心が軽くなっているだろう。あと、9カ月間後だが、長いなあ……。

 9月上旬、中国の学生たちや同僚に渡す簡単な土産物を買うために、京都の祇園界隈に行く。八坂神社の後方に見える山の森が美しく豊かだ思う。中国の山々の森は地肌や岩が見えるが、温帯の日本の森は、植層が多様で、森と水がとても豊かな特徴をもつ。この「豊かな森と水」が、全ての「日本文化」の源泉だ。

 祇園の細い路地を通り抜ける。白川沿いの石畳の道には外国人の「ゆかた姿」の観光客も日常的にみられる。鴨川にかかる四条大橋からは、たくさんの人が川沿いに等間隔に座っている。

 この日の夕方、閩江大学をこの6月卒業して、現在 京都市伏見区にある「日本語学校」で学びながら、日本の大学院等の入学を目指している任君(中国山西省出身)と会って、居酒屋で会食をした。最初は木屋町の高瀬川沿いにある「ハイビスカス食堂―海と空」。たくさんの沖縄や奄美の焼酎の一升瓶が並んでいる店だ。沖縄の一品料理がけっこう美味しい。次いで、先斗町にある「民謡居酒屋 みちのく」にて、歌を歌う。彼が日本の歌で歌えるものはまだ数曲だが、一番好きな歌は、Xジャパンの「もう一人で歩けない 時の流れが強すぎて……」という歌詞で始まる有名な「For eve」という曲だった。めざす大学は、関西大学・立命館大学・同志社大学など関西の大学と話していた。

 9月4日(月)、午後に京都府庁に「年金」に関する問い合わせのために行く。府庁の近くに「平安女学院大学」という小さな大学(中学・高校も)がある。京都御所の西隣である。聖アグネス教会という立派な歴史的建物も隣接している。ここはかって、室町時代末期に「旧・二条城」があって、幕府の将軍なども住んでいた。剣豪将軍として有名な、第13代室町幕府将軍「足利義輝」の邸もここにあり、三好一党の襲撃を受けて、ここで殺された場所でもあった。

 この大学は、ここの本部キャンパスにある「国際観光学部」と、大阪府茨木市にある「児童教育学部(小学校や幼稚園の教員免許がとれる)」の二つだけのミニ大学。この大学には、ちょっといいななと思うものが3つある。一つ目は、本部キャンパスの美しさと少人数のよさだ。二つ目は、客員教授に「野中務」氏と「十一代目小川治兵衛」氏が就任していることだ。

 野中務氏は、京都府園部町の町長から京都府副知事を経て衆議院議員となり、自民党の内閣官房長官や幹事長を務めた人物。現在、「日中友好協会」の名誉顧問でもある。大学の掲示板には、「長年にわたり国政の中核を担い、政界を勇退後も混沌する日本の行方に対し、独自の鋭い視点で提言を続ける信念の人」と書かれていた。

 現在、園部町の自宅に住んでいるかと思うので、訪ねて行って、「これからの日本の進むべき道について」話を聞いてみたい人物の一人だ。おもいきって面会依頼のコンタクトをとってみようかと思っている。とりわけ「憲法九条」を巡る問題と「日中関係」を巡る問題に関する野中氏の考えを聞いてみたいと思っている。野中氏は、「憲法の改正」には慎重な立場をとる人でもあるようだ。

 もう一人の「十一代目 小川治兵衛」氏は、江戸時代から続く造園業老舗「植治(うえじ)」の親方だ。代々、当主の親方は小川治兵衛を名乗る。この「植治」は、京都の「平安神宮」の庭園、「円山公園」の庭園など、多くの有名な庭園を手がけてきた老舗である。例えば、第七代目が手がけた「無鄰菴(むりんあん)」(明治時代の元勲・山形有朋の別荘。平安神宮近くにある。)は、私が好きな日本庭園の一つだ。(※上記の宣伝アニメ絵)それほど大きくない、こじんまりとした庭園だが、東山の山を借景とし、琵琶湖疎水の水を取り入れた見事な庭だと思う。

 韓国の梨花女子大学教授だった「李御寧(り ごねい)」氏の著に『「縮み」志向の日本人』という本がある。その中の一文に次のようなものがあった。「日本人は昔から巨大な自然を自分の家の中に引き入れようとする欲深な夢を見ていたようです。………そうしてこういった詩的想像力を現実生活に実現したのが、あの日本特有の庭文化に他ならないといえます。それにひき比べ、韓国人は自然を自分のもとに呼び寄せようとするより、自分がそちらに出かけていこうとする傾向がより強かったようです」と書かれていた。私の「日本文化論」の授業は、彼の著作も使いたいと思っている。なかなか含蓄のある外国人からみた「日本文化論」であると思う。ちなみに中国人も韓国人と同じような自然に対する感情対応をしていると思う。

 三つ目は、この大学が、中国の「浙江外国語学院(大学)」と「厦門(アモイ)大学嘉庚学院(大学)」(この大学は厦門大学とは別の私立大学である)と協定関係を結び、交換留学制度などを実施していことだ。浙江外国語学院(大学)は確か習近平国家主席の一人娘さんが卒業した大学だったかと思う。

 9月5日(火)の午前中に立命館大学に借りている数冊の本を返却に行った。図書館内にある喫茶店で留学生の林さんと会って話をした。彼女はこの9月下旬に立命館大学大学院を卒業し、日本国内の有名企業に来年4月より就職することが決まっている。

 翌日の6日(水)、自宅近くの映画館で「関ヶ原」を見た。一度、関ヶ原の古戦場をゆっくり時間をかけて歩いてみたい。この日の夜、息子夫婦が自宅に来たので 夕食を共にした。この一週間、中国に持ち帰る物品やEMS郵便で郵便局から中国に送ったり、大学での授業準備などに追われた日々だった。あっという間に一週間が過ぎた。

 9月5日、鴨川にかかる三条大橋から比叡山方面を見ると、秋の「鱗雲(鰯雲)」がくっきりと見えた。いよいよ、日本は秋の季節の始まりで、日中の気温も下がり過ごしやすくなっていた。満月の月が東山にかかっていた。西の空は、夕焼と鰯雲のコラボだった。

 9月8日の午後3時半、自宅を出て関西国際空港に向かった。午後7時25分発・中国福州行の飛行機に乗った。福州の10月いっぱいまで続く、高気温と湿気の世界に再び行くことになる。いろいろな生活や大学での仕事などの大きな不安も抱えながら、再び中国に向かうこととなった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


京都「法然院」の墓地―河上肇・谷崎潤一郎・九鬼周造・内藤湖南

2017-09-16 15:21:57 | 滞在記

 8月30日(水)の夕方、福井県から奥琵琶湖を経て、湖西道路を琵琶湖沿いに南下。そして、比叡山の峠を越えて京都市の銀閣寺近くに山を下った。銀閣寺近くの「哲学の道」沿いにある「法然院」に行った。9月中旬から始まる大学での「日本文化論名編選読」の授業において、「日本人の美意識」に関することで、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃(いんえいれいさん)』と九鬼周造の『「いき」の構造』(「いき➡粋」)を取り上げる。このため、資料作りとして、この法然院にある彼らの墓の写真を撮影するためだった。

 この法然院は、鎌倉時代の初頭、浄土宗の開祖「法然(ほうねん)」の念仏草庵があった場所だった。学生時代はこの近くに住んでいたので、たびたび散歩にきていた寺だった。そのころは、よくマルクス経済学者で京都帝国大学教授だった河上肇の墓に参っていた。法然院の山門は大きな庵という感じの山荘的な門である。

 河上肇と夫人の墓の横には、「門下生一同」と記された大きな石碑もあった。河上肇は日本のマルクス主義経済学者の祖といっても過言ではない人だ。京都帝国大学教授として、多くの人に影響を与えた人で、中国の周恩来なども影響を受けている。代表的な著書として『貧乏物語』がある。

 谷崎潤一郎の墓に行く。墓には桜の木が一本立っている。2つの小さな墓石には、「寂」と「空」という文字が刻まれている。もし、谷崎があと2年間ほど長生きしていたら、ノーベル文学賞は川端康成ではなく谷崎潤一郎になっていた可能性が大きい。『春琴抄』や『刺青』などの名作が多い。日本人の美意識というものに関する『陰翳礼讃』は名著だと思う。

 九鬼周造の墓に行く。九鬼は京都帝国大学の教授として哲学・美学・芸術学などを論じていた人で、『「いき」の構造』という著作が有名である。「いき」を漢字で書くと「粋」。日本人の美意識とかっこよさというものに関する名著だである。

 内藤湖南とその夫人の墓に行く。内藤湖南は、戦前の有名な「東洋史学者」である。京都帝国大学で教鞭をとっていた。中国の歴史の専門家であり、日本史にも造詣が深い。1910年におきた、邪馬台国論争は有名である。当時、東京帝国大学教授だった白鳥庫吉との論争で、白鳥は九州説、内藤は畿内説をそれぞれ主張し論争となった。

 中国で1911年に孫文率いる「辛亥革命(しんがいかくめい)」が起こり清朝政府が倒れるが、この辛亥革命を軍事力で押さえつけた袁世凱(えんせいがい)を強く批判し、「中国では立憲君主制や共和制というものの成立は歴史的になかなか成立が難しい国である」との論評を当時発表していた。この指摘は現代でも的を得ているところがあり、中国では現在でも、「立憲君主制(※日本に於いては明治・大正・昭和全期―日本帝国憲法)」や「共和制(かってのフランスのような)」を経ることなく、中国共産党一党支配の政治が続いている。著書に『支那論(しなろん)』などがある。

 法然院近くにある娘の家に立ち寄る。孫娘の「栞(しおり)」は 可愛らしい顔で眠っていた。

 

 

 

 

 

 


かっての琵琶湖水運の基地・奥琵琶湖と丸子船

2017-09-16 09:18:50 | 滞在記

 奥琵琶湖の大浦港には「丸子船の館」という小さな博物館があった。現存する2隻の丸子船のうちの1隻がここに展示されていた。丸子船というのは、かって琵琶湖水運に活躍した船型の名前である。最盛期の江戸時代中期には1000艘を超える丸子船があったようだ。

 この丸子船は、船の大きさによって違うが、平均最大積載量は「米俵だと250俵」ぐらい。帆を上げて、主に風の力によって船を動かしていたようだ。向かう方向にうまく風が吹かなければ、「風待ち」をして風が吹くのを待ったりしたと説明されている。さまざまな物資が運ばれたが、嫁入りの花嫁さんもこの船に乗って嫁いだりもしたようだ。

 江戸時代を最盛期としたこの琵琶湖水運は、明治の時代を経て大正時代や昭和時代の初頭まで続いたようだ。江戸時代の海運は、日本海と瀬戸内海を航行する「西廻り航路」と太平洋を航行する「東廻り航路」があった。西廻り航路は、例えば北海道や日本海側の東北諸藩、北陸諸藩の物資を大阪まで運ぼうとすると、日本海を航行し下関の馬関海峡を通り、瀬戸内海を航行して大阪まで至る。かなりの距離を航行しなければならない。

 そこで、越前の敦賀で荷を船からおろし、陸路で越前と近江の境の「深坂峠」を越えて奥琵琶湖の浜の港まで運び、琵琶湖水運を使い京都や大阪に物資や人を運ぶというものであった。敦賀から運河(川)を利用し疋田まで至る。そして疋田から深坂峠を越えて、①塩津港に至るルート②大浦港に至るルート③海津港に至るルートがあった。この中で、①の塩津港に至るルートが最短距離であったため、この港が最も大規模な港であった。

 運ばれたものは、魚や昆布などの海産物、米や紅花、漆器、反物(布)や着物など、様々な物資だった。琵琶湖には、主な港が10か所あまり(塩津・大浦・海津・今津・長浜・米原・近江八幡・堅田・大津)あった。最盛期の江戸時代中期は1200艘の丸子船が存在し、その多くが奥琵琶湖の港船籍の船だった。

 かって、私の祖父が神戸にある「剣菱酒造」に半年間、酒造りの仕事に行く時には、福井県から、この琵琶湖水運の船に乗って大津や京都を経て、神戸に行っていたようだ。

 「丸子船の館」という小さな博物館には、年配の女性が一人でこの館を運営していた。入館者がおそらくとても少ない博物館だと思うが、熱心に対応してくれた。なかなかいい博物館だった。

 

 

 


奥琵琶湖(塩津浜・大浦浜・海津浜)

2017-09-16 05:59:50 | 滞在記

 8月30日(水)の午後、故郷の福井県から京都に戻るため、今回は奥琵琶湖を経由していくことにした。奥琵琶湖には「塩津浜」「大浦浜」「海津浜」の3つの漁港があるが、真ん中にある「大津浜」は初めていく場所だった。敦賀市内から国道8号線沿いに疋田の集落の近くを走り「深坂峠」を越えて滋賀県に入る。よく通る「木ノ本町方面」には行かず、高島市の方面の道をとる。そして、大浦浜に向かった。

 琵琶湖の湾が見えてきた。大浦集落(大浦浜)の入り口には、「丸子船の郷」と石灯籠に記されていた。その横に神社の狛犬が2体ある。ここは神社のようだが建物がない。御神体のような大きな石だけがが置かれていた。その石の後方はすぐに琵琶湖の水辺。このような神社は初めて見た。

 大浦浜の集落に入ると「小さな港」が見えてきて、船が係留されている。二本松浜という湖岸に向けて車を走らせた。けっこう大きな桜並木が湖岸沿いに延々と続く。「竹生島(ちくぶじま)」が見えてきた。

 二本松の浜に下りてみた。綺麗な水だ。大きなクルミの木の大木があり実がなっている。あと1か月ほどで食べられそうだ。琵琶湖の「えり漁」という小型の定置網が見える。琵琶湖の小鮎(あゆ)や鮒(ふな)などが獲れるのだろうか。

 奥琵琶湖の湖岸には、何キロもの桜並木が延々と続く。春にはさぞかし見事な景色となるだろうな。これだけ風情の感じられる桜並木は、ここ琵琶湖沿岸ではここが最もすばらしいだろうな。一度春の季節に来てみたいと思った。海津の浜に着く。湖岸の波を防ぐための石垣が造られている家屋が見られた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今季・最後の帰省―教え子や友人に会う―墓に行き、亡き「祖父母や父母」に挨拶

2017-09-11 18:40:10 | 滞在記

 8月29日(火)、中国に再び赴任する前に友人に会ったり実家に立ち寄ったりするために福井県に車で向かった。途中、小学校の高学年担当時代の教え子だった宇佐見君の事務所(店)に立ち寄った。事務所(店)は近江八幡市近くの能登川町にあった。6月中旬ころに、たまたま私のブログを見た宇佐見君からブログにコメントが書かれていた。「魚の化石を大量に買うことになったのですが、一度見てもらえませんか(鑑定)。化石と言えば、寺坂先生のことを思い出しました」という依頼だった。夏休みの7月・8月には日本に帰国するので、その時に見に行きますと連絡をした経過があった。

 なかなか、お互いの日程が合わないまま日が過ぎて、この日に彼の事務所にようやく行くこととなった。古道具の他、いろいろなものをインターネットを通じて販売している事務所(店)は8部屋もあり、それぞれの部屋に所狭しといろな古道具や古物の他、いろいろな販売するものが置かれていた。さて、「魚の化石」を見せてもらうとことになった。「古代魚の化石」が20〜30個あまりもあった。中には見事な化石も数個あった。私は国内外で恐竜化石の発掘調査に長年携わっていたので、恐竜化石についてはそれなりに詳しいが、魚の化石の専門家ではないので、この魚の種類を断定することはできなかった。そこで、淡水魚の専門家がいる「琵琶湖博物館」のことを話し、そこで鑑定を一度依頼することを薦めた。2時間ほど話し込み再会を約して事務所を後にした。彼は30才になっていた。自分で経営をしているぐらいなので、結婚しているかと思ったが まだ独身とのことだった。その後、高速道路を使わず、琵琶湖沿岸を北上し、木ノ本から365号線(北国街道)を通って福井県の越前市(旧・武生市)に向かった。途中、山城の「玄蕃尾城」がある山の山頂が見えた。

 この日の夕方、越前市内の「赤星亭」という老舗旅館に素泊まりをする。夕方、友人の山本君が旅館まで迎えに来てくれた。彼とともに市内のレストランに向かう。このレストランで藤木さんという若い女性が合流。彼女とは3年ほど前に一度会ったことがあった。「日本の若い女性にもこんな素晴らしい女性がまだ存在していたのか」と感心するほどの人だった。2時間ほどでレストランを出て、その後カラオケスナックに山本君とともに行きしばらく過ごして旅館に戻った。

 翌日の朝、越前市内の城跡(龍門寺城)に立ち寄った。この城は、戦国末期に越前一向一揆を平定した織田信長の武将であった前田利家などが一時居城としていた平城であった。堀の址は、窪んだ場所の墓地となっていた。賤ケ岳の合戦で敗軍の将となった柴田勝家が居城の「北ノ庄城」(福井市)に落ちのびる際に立ち寄った城でもあった。越前市(武生市)の市内は、私が高校生のころは、道路のいたるところが「真ん中に水路が流れ松並木がずらっと続く」町並みだった。今は、一部の地域にそれが残っている。

 実家のある南越前町に行く。家の仏壇にお参りをし、墓に行き、亡き祖父母や父母に再び中国に赴任することを告げて、京都に戻るため出発した。次に福井県の実家に帰省できるのは、来年の2月になるだろうか。